第十七話 グレイとの最後の夜
出発の前夜、グレイが宿を訪ねてきた。
手に、瓶を持っていた。
スコッチウイスキーだった。
「最後に、一杯だけ」グレイは言った。
龍馬は部屋に通した。
――――――
二つの杯に注いだ。
二人で飲んだ。
しばらく、何も言わなかった。
雨はまだ降っていた。
窓の外で、ガス灯が霧に滲んでいた。
「ロンドンはどうでしたか」グレイが聞いた。
「重かった」龍馬は言った。
「重い、か」
「上海は速かった。ロンドンは重い」龍馬は杯を見た。「速さの根っこにある、重さを見た気がします」
グレイは黙って聞いた。
「仕組みというのは、軽くない」龍馬は続けた。「何百年もかけて積み上げた、人間の判断の重さがある」
「そうです」グレイは言った。「それが強さでもあり、変えられない理由でもある」
「変えられないのか」
「容易には」グレイは杯を持った。「中から変えようとした者は、飲み込まれました。外から壊そうとした者は、砕かれました」
「では、どうするんじゃ」
グレイは少し間を置いた。
「別の仕組みを、作るしかない」静かに言った。「古い仕組みを壊すのではなく、新しい仕組みが育つまで、古いものと並走する」
龍馬はグレイを見た。
「それは」龍馬は言った。「あんたが、儂に期待していることですか」
グレイは答えなかった。
ただ、杯を飲んだ。
――――――
二杯目になった頃、龍馬は聞いた。
「グレイ、あんたはインドで、何を見たんじゃ」
グレイは少し止まった。
上海でも聞いた。答えなかった。
今夜も、答えないかもしれないと思った。
だがグレイは、杯を置いた。
窓の外を見た。
しばらく黙っていた。
「村が燃えていました」グレイはゆっくり言った。「我々の軍が、反乱を鎮圧した後の村です」
龍馬は黙って聞いた。
「私は若かった。二十代だった」グレイは続けた。「帝国のために正しいことをしていると思っていた。文明化のために必要なことだと思っていた」
「今は」
「今も、間違っていたとは思っていません」グレイは言った。「ただ」
「ただ」
「燃えた村の老人の顔が、まだ出てきます」グレイは窓を見たまま言った。「夢に」
部屋が静かだった。
雨の音だけがした。
「その老人は、何をしていましたか」龍馬は聞いた。
「ただ、座っていました」グレイは言った。「燃える家を見て、座っていた」
「泣いていたか」
「泣いていませんでした」グレイは言った。「それが、怖かった」
龍馬は黙った。
徳蔵の顔が浮かんだ。
燃える倉庫を見て、座っていた徳蔵。
泣かなかった徳蔵。
空っぽの目をした徳蔵。
龍馬は杯を置いた。
「グレイ」龍馬は言った。「儂の知り合いの商人も、同じ顔をしていました」
グレイは龍馬を見た。
「長崎の」
「ええ」
二人は黙った。
遠い場所で、同じ顔をした人間がいた。
インドと長崎。
違う場所で、同じことが起きていた。
「グレイ」龍馬は言った。「あんたは、それでも止まれなかったのか」
「止まれませんでした」グレイは静かに言った。「仕組みの中にいると、止まることができない」
「仕組みが、人を動かす」
「ええ」グレイは言った。「個人の意志より、仕組みの力が強い。それが、帝国です」
「だから怖い」
「だから強い」グレイは言った。「そして、だから変えられない」
龍馬は窓の外を見た。
霧の中に、ガス灯が滲んでいた。
「儂は」龍馬は言った。「別の仕組みを作る」
「ええ」
「でも、仕組みを作った瞬間に、仕組みに飲まれる危険がある」
「そうです」
「どうすれば、飲まれずにいられますか」
グレイはしばらく黙った。
それから、静かに言った。
「仕組みの外に、一人だけ置いておくことです」
「一人」
「仕組みを信じない人間を、一人だけ傍に置く」グレイは言った。「その人間が、仕組みがおかしくなった時に、止める」
「あんたには、その人間がいなかったのか」
グレイは少し間を置いた。
「……いませんでした」
龍馬は黙った。
「坂本さん」グレイは言った。「あなたには、いますか」
龍馬は考えた。
汐の顔が浮かんだ。
長崎の波止場。霧の朝。
「いると思います」龍馬はようやく言った。
「大切にしてください」グレイは言った。「それが、あなたと私の、一番大きな違いになるかもしれない」
――――――
三杯目が終わった頃、グレイは立ち上がった。
「明日、見送りには行けません」グレイは言った。「会議があります」
「構いません」
「長崎で、また会いましょう」
「また来るんですか」
「日本は、まだ終わっていない」グレイは言った。「私の仕事も、まだ終わっていない」
龍馬は立ち上がった。
二人は向き合った。
握手をした。
グレイの手は、冷たかった。
だが力強かった。
「坂本さん」グレイは言った。「あなたが正しい設計をすることを、願っています」
「あんたの側からすれば、損な話じゃないですか」
グレイは少し笑った。
「ええ」グレイは言った。「でも、正しいことが全てを許すわけではない」
三度目だった。
同じ言葉を、三度言った。
龍馬には、その言葉が今夜初めて、グレイ自身への言葉に聞こえた。
帝国のために動いてきた自分への。
燃えた村の老人に、まだ向き合えていない自分への。
グレイは扉を開けた。
廊下に出た。
振り返らなかった。
足音が遠ざかった。
龍馬は扉を閉めた。
部屋に、ウイスキーの匂いが残った。
二つの空になった杯が、テーブルにあった。
龍馬はそれを見た。
しばらく見ていた。
それから窓を開けた。
冷たい空気が入ってきた。
霧の匂いがした。
石炭と、雨と。
龍馬は深く息を吸った。
明日、帰る。
長崎へ。
汐のいる場所へ。
まだ答えは出ていなかった。
だが、持って帰るものは決まっていた。
問いと、覚悟と。
それだけで、十分だった。




