第十六話 ロンドンの雨
八日目の朝、雨が降った。
ロンドンの雨は、長崎とも上海とも違った。
音がしなかった。
霧が少し濃くなって、気づいたら濡れている。そういう雨だった。
龍馬は窓の外を見た。
石畳が光っていた。傘を差した人々が、いつもと同じ速度で歩いていた。雨でも、足が遅くならない。
この街の人間は、天気に動かされない。
仕組みが、天気より強いからだ。
――――――
午前中、龍馬はイングランド銀行の前に立った。
入れなかった。
外から見るだけだった。
石造りの建物だった。窓が少なかった。要塞のように見えた。
ここで、世界の金が動く。
どの国の通貨が強く、どの国の通貨が弱いか。どこに資本が流れ、どこから引き上げるか。
全部、この建物の中で決まる。
龍馬は建物を見ながら思った。
刀で斬れないだけじゃない。
そもそも、見えない。
建物の中で何が起きているか、外からは分からない。
福浦の港が死んだのも、最終的にはこういう場所の論理が流れ込んできたからだ。
徳蔵は、この建物を知らなかった。
名前すら、聞いたことがなかっただろう。
それでも、この建物に殺された。
龍馬は建物から目を離した。
歩き出した。
――――――
昼過ぎ、龍馬はグレイに呼ばれた。
場所は、昨日と同じ事務所だった。
だが今日は、グレイの様子が違った。
どこか、急いでいた。
「坂本さん」グレイは言った。「一つ、話さなければならないことがあります」
龍馬は座った。
グレイは立ったままだった。
「日本の情勢が、動いています」
「幕府と薩長ですか」
「ええ」グレイは書類を出した。「先週、電信で入った情報です。薩長が、動き始めた」
龍馬は書類を受け取った。
英文だった。読んだ。
内容は短かった。
薩摩・長州の連合軍が、京都に向けて動き始めた。幕府との全面衝突は、時間の問題。
龍馬は書類を置いた。
「これは、本当ですか」
「電信情報です。信頼できます」
「いつの話じゃ」
「一週間前です」
龍馬は立ち上がった。
「帰らにゃならん」
「ええ」グレイは言った。「それを伝えようと思って、呼びました」
龍馬はグレイを見た。
「なぜ、教えてくれるんですか」
グレイは少し間を置いた。
「あなたが帰るべき時だから」グレイは言った。「ロンドンで見るものは、もう見た。あとは、日本でやるしかない」
「それが、あんたの得になるんですか」
「分かりません」グレイは静かに言った。「でも、正しいことが全てを許すわけではないと言いました。今がその時かもしれない」
龍馬は黙った。
グレイが、自分の利益を度外置いて動いている。
そう見えた。
だが龍馬には、まだ確信が持てなかった。
「グレイ」龍馬は言った。「あんたは儂に、何を期待しとるんじゃ」
グレイはしばらく龍馬を見た。
「日本が、自分で選んでほしい」グレイは言った。「我々に選ばれるのではなく」
「それは、あんたの商売にとって損じゃないか」
「ええ」グレイは言った。「ですが」
龍馬は待った。
「インドを見てきました」グレイは窓の外を見た。「上海を見てきました。選べなくなった場所が、どうなるかを」
雨が、静かに降っていた。
「美しくない」グレイは言った。「効率的だが、美しくない」
「それが、あんたの本音ですか」
「……ええ」
龍馬はグレイを見た。
この男は今、帝国の論理から一歩だけ外に出ていた。
一歩だけ。
戻るかもしれない。
だが今この瞬間だけは、外にいた。
――――――
帰り道、龍馬は雨の中を歩いた。
傘を持っていなかった。
濡れながら歩いた。
頭の中が、速く動いていた。
日本に帰る。
幕府と薩長の戦が始まる前に、帰る。
だが帰って、何をするのか。
剣で戦うのではない。
銃で戦うのでもない。
帳簿と航路と情報で、戦う。
海援隊を変える。
国家より速く動ける組織にする。
だが、グレイに似てはいかん。
ホルト卿になってはいかん。
どこで踏み止まるのか。
何が、境界線になるのか。
龍馬は歩きながら、答えを探した。
出なかった。
雨が、静かに降り続けた。
――――――
宿に戻ると、中岡が待っていた。
「龍馬さん、帰りますか」
「帰る」
「日本、動いてますね」
「ええ」
中岡はしばらく龍馬を見た。
「龍馬さん」中岡は言った。「ロンドンに来て、何か分かりましたか」
龍馬は濡れた着物を見た。
「分かったことと、分からんことが、両方増えた」
「それは、良かったんですか」
「良かったと思う」龍馬は言った。「分からんことが増えた分だけ、考えることが増えた」
「難しいですね」
「難しい」龍馬は頷いた。「でも」
「でも」
「簡単な話じゃなかったということが、分かった」龍馬は言った。「それだけで、ここまで来た甲斐がある」
中岡は少し笑った。
「龍馬さんらしい」
「そうか」
「変わったけど、やっぱり龍馬さんだ」
龍馬は中岡を見た。
それから、久しぶりに、声を出して笑った。
目も笑った。
中岡も笑った。
雨の音が、窓の外で静かに続いていた。




