第十五話 龍馬、グレイに似てくる
ロンドン七日目。
龍馬は一人でシティを歩いていた。
もう地図は見なかった。街を覚えていた。どの路地がどこに繋がるか。どの建物が何をしているか。どの時間に、どの場所が混むか。
気づいたら、覚えていた。
上海でも同じだったと、龍馬は思った。
速い街は、速く覚える。
――――――
その日、龍馬は海援隊への手紙を書いた。
長崎に残してきた隊士たちへ。
書きながら、龍馬は自分の言葉が変わっていることに気づいた。
以前なら書かなかった言葉が、自然に出てきた。
物流の効率化。情報網の整備。資本の集中。航路の選定。
全部、グレイが使う言葉だった。
龍馬は筆を止めた。
書いた文字を見た。
違和感があった。
でも間違っていなかった。
それが、龍馬には怖かった。
――――――
午後、グレイの事務所を訪ねた。
ロンドンのグレイの事務所は、上海より広かった。壁の海図も大きかった。世界全域が、一枚に収まっていた。
「昨日のホルト卿の話、どう思いましたか」グレイは聞いた。
「重かった」龍馬は言った。
「どの部分が」
「必要なことと、正しいことが違う、という部分が」
グレイは頷いた。
「あなたは今、何を考えていますか」
龍馬は海図を見た。
「海援隊を、変えにゃならんと思っとります」
「どう変えますか」
「船だけの組織じゃいかん」龍馬は言った。「情報を持つ。電信を引く。保険の仕組みを作る。物流の航路を設計する」
グレイは黙って聞いていた。
龍馬は続けた。
「日本中の港を繋ぐ。藩を超えて動ける組織にする。国家より速く、国家より広く」
言葉が、自然に出てきた。
上海で考え、ロンドンで固まった言葉だった。
グレイはしばらく龍馬を見ていた。
それから、静かに言った。
「それは、私が長崎で最初に提案したことと、ほぼ同じです」
龍馬は止まった。
グレイは続けた。
「あの時、あなたは断りました」
「……知っとります」
「今も、同じ答えですか」
龍馬は黙った。
海図を見た。
日本が端にあった。まだ線が少なかった。
「目的が違います」龍馬はようやく言った。「やり方が似とっても、目的が違う」
「目的は、何ですか」
「日本が、自分で選べるようにすること」
「我々の目的と、どこが違いますか」
龍馬は答えなかった。
すぐには、出なかった。
グレイは追わなかった。
ただ待った。
龍馬は海図を見続けた。
日本の端。長崎の位置。
汐の港があった場所。
「選ばせないことが、違います」龍馬はようやく言った。「あんたらは、人が選べなくなるように設計する。儂は、人が選べるように設計したい」
グレイは黙った。
「同じ道具で、逆の設計をする」龍馬は続けた。「それが、違いです」
「できると思いますか」
「まだ分からん」
「正直だ」グレイは言った。
「でも」龍馬は海図から目を離し、グレイを見た。「やらにゃならん」
――――――
事務所を出ると、龍馬は海援隊の隊士、中岡と合流した。
中岡慎太郎。陸援隊の男だが、龍馬とは長い付き合いだった。ロンドンで別の用件があり、偶然同じ街にいた。
「龍馬さん」中岡は龍馬の顔を見て、少し止まった。
「なんじゃ」
「なんか、変わりましたね」
龍馬は煙草を出した。
「変わったか」
「目が」中岡は言った。「なんか、鋭うなった」
「そうか」
「でも」中岡は続けた。「なんか、怖い顔になった気もします」
龍馬は煙草に火をつけた。
「怖い、か」
「昔の龍馬さんは、もっと笑っとった」中岡は言った。「今も笑いますけど、目が笑ってない時がある」
龍馬は煙を吐いた。
「そうかもしれん」
「何があったんですか、上海とロンドンで」
龍馬は霧の中を見た。
「いろんなものを見た」
「それだけですか」
「それだけで、十分変わる」
中岡はしばらく龍馬を見ていた。
「龍馬さん」中岡は言った。「あんた、誰かに似てきた気がする」
龍馬は中岡を見た。
「誰に」
「分からんけど」中岡は言った。「なんか、異国の人みたいな目をしてる時がある」
龍馬は黙った。
異国の人みたいな目。
グレイの目。
龍馬は煙草を深く吸った。
「中岡」龍馬は言った。「儂が変なことを言い始めたら、止めてくれ」
「変なこと、とは」
「人を、数字で見始めたら」
中岡は少し間を置いた。
「止めます」それから言った。「でも、もう少しで言いそうな顔をしてますよ、今」
龍馬は笑った。
久しぶりに、目も笑った気がした。
――――――
その夜、龍馬は宿で一人、長い時間をかけて考えた。
グレイに似てくる。
中岡に言われる前から、自分でも感じていた。
言葉が似てきた。視点が似てきた。判断の速度が似てきた。
それは、敵から学んだからだ。
学ぶことは正しい。
だが学びすぎると、学んだ相手になる。
龍馬は窓の外を見た。
ロンドンの霧が、ガス灯を滲ませていた。
汐の言葉が戻ってきた。
——人が、そこしか選べなくなるようにするんです。
龍馬は目を閉じた。
長崎の波止場が見えた。
汐の顔が見えた。
泣かなかった顔が。
龍馬は目を開けた。
まだ、消えていなかった。
長崎が、まだ自分の中にあった。
それだけで、今夜は十分だと思った。




