第十四話 帝国の設計者
グレイから手紙が来たのは、ロンドン四日目の朝だった。
短い文だった。
今夜、会いたい人間がいる。来られますか。
龍馬は返事を書いた。
行きます。
それだけ書いた。
――――――
連れて行かれたのは、シティから少し外れた場所にある、古いクラブだった。
会員制の社交場だと、グレイが説明した。政治家、銀行家、貿易商、軍人。この国の上層が集まる場所だと。
龍馬は入口で、自分の着物を見た。
場違いだと分かっていた。
だが着替えなかった。
場違いのまま入る方が、正直だと思った。
――――――
案内された部屋は小さかった。
暖炉があった。革張りの椅子が四つ。テーブルに酒が置かれていた。
グレイが先に来ていた。
そしてもう一人、老人が座っていた。
七十前後。白髪。背筋が真っ直ぐだった。元軍人のような姿勢だった。目だけが若かった。鋭くて、静かな目だった。
「ウィリアム・ホルト卿です」グレイが紹介した。「東インド会社の、前取締役です」
老人は龍馬を見た。
値踏みではなかった。
観察だった。
「坂本龍馬さん」老人は英語で言った。「グレイから、よく聞いています」
龍馬は老人を見た。
「何を聞きましたか」
老人は少し笑った。
「理解が速い、と」
――――――
酒が来た。
龍馬は受け取ったが、飲まなかった。
ホルトは飲んだ。ゆっくりと。急がなかった。
「日本は、今どんな状態ですか」ホルトが聞いた。
「混乱しています」龍馬は言った。「幕府と薩長が、戦の準備をしています」
「誰が勝つと思いますか」
「薩長です」
「なぜですか」
「武器が新しい」龍馬は言った。「英国から買った銃があります」
ホルトは頷いた。
「その銃を売ったのは、我々です」
龍馬は黙った。
ホルトは続けた。
「幕府にも売りました。薩長にも売りました。どちらが勝っても、我々の商売は続きます」
「知っています」
「怒りますか」
「怒っても意味がない」龍馬は言った。「それより、なぜ儂に会いたかったのかを聞きたい」
ホルトはグレイを見た。
グレイは何も言わなかった。
ホルトは龍馬に向き直った。
「日本が次の時代に入る時、誰がその設計をするか」ホルトは言った。「それを、考えています」
「設計」
「ええ」ホルトは暖炉を見た。「インドは我々が設計しました。中国は、今設計の途中です。日本は、まだ白紙に近い」
龍馬は黙って聞いた。
「白紙に設計図を引く者が、次の百年を決めます」ホルトは続けた。「それが我々になるか、日本人になるか、あるいは別の誰かになるか」
「儂に、設計に加われと言いたいのですか」
ホルトは少し止まった。
「そうではありません」
「では」
「あなたに、設計者の顔を見せたかった」ホルトは龍馬を見た。「どんな人間が、世界を動かしているかを」
龍馬はホルトを見た。
老人の目は、静かだった。
悪意がなかった。
それが龍馬には、一番重かった。
――――――
しばらく、三人は黙った。
暖炉の火が揺れていた。
「ホルト卿」龍馬は言った。「インドを設計した時、インド人は何と言いましたか」
ホルトは少し間を置いた。
「最初は抵抗しました」静かに言った。「しかし今は、我々の鉄道を使っています。我々の法律で商売をしています。我々の言語で教育を受けています」
「それは、答えになっていません」
ホルトは龍馬を見た。
「最初に何と言ったか、ですね」
「ええ」
ホルトはしばらく黙った。
暖炉の火が、一度大きく揺れた。
「抵抗した者は、消えました」ホルトは言った。「受け入れた者は、生き残りました」
「それが、答えですか」
「それが、事実です」
龍馬は酒を持ち上げた。
初めて、一口飲んだ。
苦かった。
「ホルト卿」龍馬は言った。「あなたは、正しいことをしてきたと思っていますか」
ホルトは龍馬を見た。
長い間、見ていた。
それから言った。
「必要なことをしてきました」
「正しいこととは、違いますか」
「……違うかもしれません」
部屋が静かになった。
グレイが、初めて目を伏せた。
――――――
帰り道、龍馬はグレイと二人で歩いた。
霧が濃かった。
ガス灯が霧に滲んでいた。
「なぜ、あの老人に会わせたんですか」龍馬は歩きながら言った。
「見てほしかったからです」グレイは言った。
「何を」
「設計者が、何を失うかを」
龍馬はグレイを見た。
グレイは前を向いたまま続けた。
「ホルト卿は優秀な人間です」静かに言った。「誠実で、賢くて、帝国を本気で信じていた」
「信じていた、か」
「今は、少し違います」グレイは言った。「あの目を、見ましたか」
「見ました」
「何十年も設計し続けた人間の目です」グレイは霧の中を見た。「正しいと思ってやってきた。だが終わりに近づいて、何かが違うと感じ始めている」
「それを、儂に見せたかった」
「ええ」
龍馬は黙って歩いた。
石畳が濡れていた。足音が響いた。
「グレイ」龍馬は言った。「あんたは、あの老人になりたくないのか」
グレイは少し止まった。
歩きながら、静かに言った。
「……分かりません」
「分からん、か」
「なりたくないと思っています」グレイは言った。「でも、同じ道を歩いているかもしれない」
龍馬は霧の中を歩いた。
ガス灯が一つ、また一つと過ぎていった。
「グレイ」龍馬は言った。「あんたは儂に、何をしてほしいんじゃ」
グレイはしばらく答えなかった。
霧が、二人の間に漂った。
「日本を、正しく設計してほしい」グレイはようやく言った。「我々とは、違う方法で」
「それは」龍馬は言った。「あんたの側からすれば、損な話じゃないか」
「ええ」グレイは言った。「でも」
「でも」
「正しいことが、全てを許すわけではないと、上海で言いました」グレイは静かに言った。「それは、本心です」
龍馬は霧の中を歩き続けた。
答えは出なかった。
だがグレイという男が、今夜初めて、龍馬には人間に見えた。




