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境界技師の観測録 〜見えるだけの俺、なぜか世界の呪いまで剥がしてしまう〜  作者: 空乃 カナタ


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第八話 神殿地下の灰色

「街の中にも、もう繋がっています」


 俺の声が会議室に落ちた瞬間、空気が変わった。


 誰もすぐには動かなかった。


 神殿。


 その言葉が重すぎた。


 セリアさんの顔から血の気が引いている。神殿書記は羽ペンを握ったまま固まり、北門守備隊長は低く唸った。


「……見間違いではありませんか」


 神殿書記が、震える声で言った。


「神殿は毎朝、浄化の祈りを行っています。灰色の異常が入り込めるはずがありません」


「俺も、そうならいいと思います」


 瓶の中の灰色の粉は、白い光の網に包まれたまま動いている。


 封印は破れていない。


 なのに、俺の視界では、粉から伸びる細い線が机の地図に重なり、街の中央へ向かっていた。


「ただ、線は神殿で止まっています」


「セリア」


 ガルナさんが短く呼んだ。


「神殿側で、灰色の粉や黒い石に触れた者はいるか」


「……昨日の異形の粉を封じたのは私です。ですが、それはこの瓶だけです。他に持ち込んだものはありません」


「聖水は?」


 レンさんが言った。


 セリアさんが目を見開く。


「聖水槽……」


「何かあるのか」


「神殿地下には、街の治療院に回す聖水を溜める槽があります。浄化師が使う水晶灯も、そこで清めます」


 会議室の空気がさらに冷えた。


「そこが汚れていたら?」


 俺が聞くと、セリアさんは唇を噛んだ。


「治療を受けた人間、浄化を受けた患者、神殿に出入りした者……影響が広がります」


「すぐ確認する」


 ガルナさんが立ち上がった。


「守備隊長、北門と倉庫街の封鎖は継続。レン、ミナトを連れて神殿へ。セリア、お前が案内しろ」


「はい」


「リナは記録係として同行。だがミナトが倒れたら最優先で止めろ」


「分かりました」


「俺の扱いが荷物に近くなってませんか」


「荷物より危ない」


 レンさんが即答した。


 反論できなかった。


 神殿は、街の中央広場に建っていた。


 白い石造りの尖塔。

 大きな扉。

 朝の祈りを終えた人々が、不安そうにこちらを見る。


 セリアさんが神殿の紋章を見せると、入口の見習いたちは慌てて道を開けた。


「セリア様、何があったんですか」


「地下聖水槽を確認します。誰も水に触れないでください。治療院への搬出も停止」


「えっ、でも今日の分が――」


「停止です」


 セリアさんの声は静かだった。


 だが、反論を許さない硬さがあった。


 地下へ降りる階段は、冷たく湿っていた。


 壁には白い紋が刻まれている。北門の結界と似ているが、こちらは細い水路みたいに光が流れていた。


 その光の流れの下に、灰色の細い線が混じっている。


「あります」


 俺は足を止めた。


「どこだ」


「壁の紋です。白い流れの下に、灰色が入り込んでます。ただ、表面には出ていません」


「神殿の浄化紋の下に……?」


 セリアさんが息を呑む。


 神殿書記が同行していたら、また見間違いだと言ったかもしれない。


 でもここにいるセリアさんは、もう否定しなかった。


「進めるか」


 レンさんが俺の横に立つ。


「近いので、見えます。でも触るのはまだ無理です。壁の奥に隠れている感じです」


「なら見るだけだ。勝手に掴むな」


「分かっています」


「昨日からその返事は信用していない」


 リナさんが小さく頷いた。


 味方がいない。


 地下聖水槽は、思ったより広かった。


 丸い石室の中央に、大きな水槽がある。


 透き通った水。

 白い光。

 清められた石の槽。


 一見、何もおかしくない。


 けれど俺の目には、水面の下に薄い灰色の膜が見えていた。


 水全体ではない。


 底だ。


 聖水槽の底に、黒い小さな欠片が沈んでいる。


 白い光の中で、その欠片だけが影みたいに沈んでいた。


「あそこです」


 俺は水槽の端を指さした。


「底に何かあります」


 セリアさんが水晶灯をかざす。


「見えません。水は澄んでいます」


「俺には黒い欠片が見えます。そこから灰色の線が、槽全体に薄く広がっています」


「聖水に……」


 セリアさんの声が震えた。


 その時、奥の扉が開いた。


「そこで何をしている」


 白い祭服を着た年配の男が、石室に駆け込んできた。


 セリアさんが小さく息を呑む。


「マルド司祭……」


 聖水槽と封印室の管理を任されている司祭だと、セリアさんが小声で教えてくれた。


 マルド司祭は水槽の前にいる俺たちを見て、硬い表情で眉を寄せる。


「セリア。地下聖水槽は、神殿長の許可なく外部の者を入れてよい場所ではない。これは正式な封鎖手順を踏むべき案件だ」


「緊急事態です。聖水に灰色の異常が入り込んでいる可能性があります」


「可能性だけで聖水槽を止めれば、治療院も神殿も混乱する」


 マルド司祭の声は怒鳴り声ではなかった。


 だが、神殿の規律を守る者の硬さがある。


 レンさんの目が細くなった。


「昨日、北門で結界が割れた。補給所で呪染が出た。今は可能性を潰す段階だ」


「ギルドが神殿の聖水管理に口を出すのか」


「疑っているんじゃない。確認しに来た」


 その瞬間、水槽の縁に立っていた見習い浄化師が、小さく声を上げた。


 朝の準備で、命令が届く前に聖水槽から清浄布を引き上げていたらしい。


「あ、れ……?」


 彼の指先が黒く滲んでいた。


 濡れた布を握っている。


 聖水槽から上げたばかりの布だ。


「触るな!」


 レンさんが叫ぶより早く、俺は動いていた。


 見習いの手首を掴む。


 黒い滲みは浅い。


 でもリナさんの時より広がりが速い。


 灰色の線が、白い水の線をまとって皮膚へ入り込もうとしている。


 聖水が汚染を薄めているんじゃない。


 運んでいる。


「止まれ」


 境目を押さえる。


 皮膚と水。

 水と灰色。

 灰色と血。


 混ざりかけた線を一本ずつ分ける。


 切る。


 ぱちん。


 見習いの指から灰色の水滴が浮き、床に落ちた。


 黒い滲みが消える。


「……まさか」


 マルド司祭の声が掠れた。


 セリアさんは顔を強張らせたまま、すぐに指示を飛ばす。


「聖水槽を封鎖! 使用済みの布、水晶灯、治療器具をすべて隔離! 素手で触れないでください!」


「は、はい!」


 見習いたちが慌てて動く。


 レンさんが司祭の前に立った。


「まだ手順を待つか」


「……これは、正式な汚染事案として扱う」


 マルド司祭は歯を食いしばり、見習いたちへ向き直った。


「聖水搬出を停止。治療院へ伝令を出せ。今朝運んだ分も使用前に隔離する。記録係は搬出先を洗い出せ」


 セリアさんが短く頷いた。


「ありがとうございます」


「礼を言う状況ではない。封印室は?」


「そこも確認します」


 俺は水槽を見下ろした。


 底の黒い欠片から、灰色の線が伸びている。


 ただし、廃坑へ向かう線だけではない。


 もう一本。


 水槽の奥、石壁の下へ潜り込む線があった。


「セリアさん」


「何ですか」


「この奥に、部屋がありますか」


 セリアさんが一瞬だけ固まった。


「……あります」


「何の部屋ですか」


「古い封印室です。十年前の廃坑事故のあと、神殿が持ち帰った記録と遺物を納めた場所です」


 レンさんが舌打ちした。


「そこか」


 マルド司祭が一歩前に出る。


「封印室は、神殿長の許可なしに開けられない」


「今、神殿の水が汚染されている」


 レンさんの声が低く沈んだ。


「許可を待っている間に、街中へ広がるぞ」


 マルド司祭は水槽を見た。


 黒く染まりかけた見習いの指を見る。


 そして、封印室の扉を見た。


「……私が封印管理者として立ち会う。セリア、開封手順は省略しない。ただし、急げ」


「はい」


 セリアさんが水晶灯を握りしめる。


「私も責任を取ります。封印室を開けます」


 石室の奥の扉へ近づく。


 重い白石の扉には、いくつもの紋が刻まれていた。


 けれど、その紋の隙間から灰色の線が漏れている。


 扉の向こうで、何かが動いた。


 音ではない。


 線が震えた。


 俺の頭の奥に、低い意味が流れ込んでくる。


 ――開け。


 昨日と同じ声。


 でも、今度はもっと近い。


 リナさんが俺の袖を掴んだ。


「ミナトさん?」


「中にいます」


 レンさんが短剣を抜く。


 セリアさんの水晶灯が白く燃える。


 封印室の扉の向こうで、灰色の線が何本も絡み合っていた。


 その中心に、人の形をした影がひとつ。


 膝をつき、祈るように頭を垂れている。


 だが、その背中から伸びる灰色の糸は、聖水槽へ、神殿の紋へ、そして街の地下へ広がっていた。


「廃坑の奥じゃない」


 俺は乾いた喉で呟いた。


「神殿の中に、もう一体、います」

次話、神殿地下の封印室に潜んでいた“祈る影”と対峙します。聖水槽に広がった灰色の汚染を前に、ミナトの観測がさらに深部へ踏み込みます。続きが気になった方は、ブックマークと評価で応援していただけると励みになります。

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