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境界技師の観測録 〜見えるだけの俺、なぜか世界の呪いまで剥がしてしまう〜  作者: 空乃 カナタ


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第十話 消された湊

 ――湊。


 その名前が、石板の上で灰色に塗り潰された。


 文字はもう見えない。


 けれど、俺の目には残っていた。


 消される直前の輪郭。

 線の曲がり方。

 この世界に来てから、一度も見ていないはずの文字。


 俺の名前。


「ミナトさん?」


 リナさんの声が震えている。


 俺は返事ができなかった。


 喉の奥が詰まっている。


 セリアさんが石板に近づこうとして、マルド司祭に止められた。


「触れるな。まだ封印が安定していない」


「ですが、最後の名前が……」


「灰色に塗り潰された。私にも読めん」


 読めない。


 そうだ。


 セリアさんにも、マルド司祭にも、レンさんにも読めない。


 でも、俺には読めた。


「ミナト」


 レンさんが低く呼んだ。


「今、何を見た」


 隠すべきか。


 一瞬だけ迷った。


 けれど、この状況で隠しても意味がない。石板に俺の名前が出た。十年前の廃坑事故に、俺の名前が刻まれていた。


 俺自身にも、説明できない。


「俺の名前です」


 石室の空気が凍った。


「最後に刻まれていた名前が、俺の名前でした」


「ミナト、という名が?」


 セリアさんが息を呑む。


「はい。ただし、この世界の文字じゃありません」


「どういう意味ですか」


「俺の故郷の文字です。この世界に来てから、一度も見たことがない文字でした」


 リナさんの手が、俺の肩を強く掴む。


「ミナトさんの、故郷……?」


 しまった、と思った。


 俺は自分のことを、ほとんど話していない。


 街道脇で倒れていた。

 身元を証明するものがない。

 この世界の常識を知らない。


 それだけで十分怪しいのに、今度は十年前の石板に俺の名前が出た。


 普通なら、疑われる。


 そう思った瞬間、レンさんが短剣を下ろした。


「その故郷の文字を、他に誰か読めるか」


「たぶん、いません」


「また、たぶんか」


「でも、俺が知る限りでは」


 レンさんは俺をじっと見た。


 疑っている目ではない。


 危険物を前にして、どう扱うべきか考えている目だ。


「お前は十年前、この世界にいたのか」


「いません」


「断言できるか」


「できます」


 今度は迷わなかった。


「俺の記憶では、昨日まで俺は別の場所にいました。この世界の街も、神殿も、魔鉱毒も知りませんでした」


「記憶では、か」


「はい」


 自分で言って、胸がざわついた。


 記憶では。


 なら、記録は?


 石板は?


 十年前に境界門を内側から閉じた者の名が、なぜ俺と同じなのか。


 マルド司祭が封印室の床に膝をつき、石板の周囲に白い粉をまいた。


「この石板は、廃坑事故の直後に回収された記録板の一つだ。神殿の旧調査隊が使っていたものに間違いない」


「改ざんの可能性は?」


 レンさんが問う。


「封印室に入れる者は限られている。だが……」


 マルド司祭は灰色に塗り潰された部分を睨んだ。


「今の状況では、ないとは言えん。封印室そのものが侵されていた」


 セリアさんが水晶灯を石板へ向ける。


「灰色の線は、名前だけを消しました。ほかの記録には触れていません」


「見られたくなかった、ということか」


 レンさんの言葉に、俺の背筋が冷えた。


 灰色の何かは、俺に「開け」と言った。


 祈る影は「返せ」と言った。


 そして今、石板の名前だけを塗り潰した。


 俺の名前を。


「ミナトさん」


 リナさんが、できるだけ落ち着いた声で言った。


「大丈夫です。まだ、何も決まっていません」


「はい」


「顔、真っ青です」


「大丈夫です」


「それは禁止です」


「……かなり動揺しています」


「それなら許します」


 少しだけ息が戻った。


 セリアさんがこちらを見た。


「ミナトさん。あなたの故郷の文字で、名前はどう書くのですか」


 俺は床に落ちていた白い粉を指先で取り、石室の床に書いた。


 湊。


 たった一文字の名前。


 それを見た瞬間、誰も声を出さなかった。


 この世界の文字とは形がまったく違う。


 曲がり、止め、はね。


 俺には当たり前の文字なのに、この石室では異物にしか見えなかった。


 マルド司祭が眉をひそめる。


「古代文字ではない」


 セリアさんも首を振った。


「神殿の記録文字とも違います。少なくとも、私が知る文字体系ではありません」


「でも、石板にはこれが書かれていたんだな」


 レンさんが確認する。


「はい。消される前に、一瞬だけ」


 俺は床の文字を見下ろした。


 自分の名前が、まるで誰かの罪状みたいに見える。


 その時、封印室の奥で、かたり、と音がした。


 全員が身構える。


 崩れた祈る影ではない。


 石棚の一つ。


 黒い布で包まれていた細長い箱が、わずかに震えていた。


「まだ何かいるのか」


 レンさんが前に出る。


「待ってください」


 俺は目を凝らした。


 箱から伸びる線は灰色ではない。


 白でもない。


 薄い青。


 初めて見る線だった。


 それは俺へ向かって伸びているが、毒のような侵食ではない。むしろ、必死にほどけかけた端をこちらへ差し出しているように見えた。


「灰色じゃありません」


「安全なのか」


「分かりません。でも、さっきのものとは違います」


 レンさんが嫌そうな顔をする。


「開ける理由は?」


「俺に向かって線が伸びています」


「最悪の理由だな」


 マルド司祭が箱の紋を確認した。


「これは調査隊の回収品だ。封印強度は低い。危険物ではなく、記録物として保管されたものだろう」


「開けます」


 セリアさんが言った。


 マルド司祭が頷き、白い布を手に巻いて箱を開ける。


 中に入っていたのは、ひび割れた小さな板だった。


 石でも木でもない。


 黒く、薄く、角が丸い。


 俺は息を止めた。


 スマートフォンだ。


 そう口にしかけて、喉の奥で言葉が止まった。


 この世界に来てから、初めて見る故郷の物。


 見慣れていたはずなのに、今は封印室のどんな遺物よりも異様に見えた。


 画面は真っ暗だ。

 表面はひび割れている。

 ケースも半分溶けたように歪んでいる。


 それでも、見間違えようがなかった。


 俺の世界のものだ。


「知っているのか」


 レンさんの声が鋭くなる。


「……はい」


 俺は震える手で、それに触れようとして止めた。


 レンさんが何も言わず、厚手の布を渡してくる。


「素手で触るな」


「ありがとうございます」


 布越しに持ち上げる。


 軽い。


 ありえないほど懐かしい重さだった。


 電源なんて入るはずがない。


 それなのに、俺の指が触れた瞬間、割れた画面の奥で薄い青い線が走った。


 画面が起動したわけじゃない。


 残っていた記録の輪郭を、青い線がなぞっている。


 そう見えた。


 文字が浮かぶ。


 日本語。


 今度は、はっきり見えた。


 ――境界観測ログ。

 ――記録者:湊。


「何と書いてある」


 セリアさんが問う。


 俺は画面から目を離せなかった。


「観測ログ、と」


「観測?」


「俺の故郷の言葉です。記録、みたいな意味です」


 画面の奥で、青い線がまた揺れる。


 次の文字が浮かぶ。


 意味の分からない単語が並んでいる。


 第七観測点。

 オルビス側。

 門閉鎖処理。


 けれど、最後の一文だけは嫌でも分かった。


 ――こちら側に一名を残す。


 心臓が嫌な音を立てた。


 こちら側。


 一名を残す。


 誰を?


 青い線が暗くなる。


「待ってください」


 俺は思わず声を出した。


 記録が消えかけている。


 境目。


 画面の奥に残った記録と、欠けていく情報。


 その境目が見えた。


 触れば、もう少し読めるかもしれない。


 でも、触るべきか。


 リナさんが俺の手を押さえた。


「無理しないでください」


「でも、ここに何かあります」


「あります。でも、今読むと倒れます」


 その声は静かだった。


 俺は指を止めた。


 止められた自分に、少し驚いた。


 レンさんが小さく息を吐く。


「それでいい。今は持ち帰って調べる」


「でも、これは」


「お前の故郷の物なんだろう。ならなおさら、ここで焦るな」


 マルド司祭が封印用の布を用意し、セリアさんが水晶灯の光を重ねる。


「灰色の汚染は見えませんか」


「灰色はありません。薄い青い線だけです」


「では、汚染物とは別に封じます。壊さないように」


 俺は割れた黒い板を、慎重に布へ置いた。


 頭の奥がずきずきする。


 さっきの文字が離れない。


 記録者、湊。


 俺なのか。


 別の湊なのか。


 それとも、俺が知らないだけで、俺は十年前にここにいたのか。


「ミナト」


 レンさんが俺の肩を叩いた。


「考えるのは後だ。まずここを閉じる」


 祈る影の残骸は、白い封印の中で静かに沈んでいる。


 聖水槽へ伸びていた線は切れていた。


 神殿の紋を流れていた灰色も薄い。


 完全に消えたわけではないが、広がりは止まっている。


「聖水は全部廃棄ですね」


 セリアさんが呟く。


 マルド司祭は苦い顔で頷いた。


「治療院にも回収指示を出す。神殿長にも報告する。……この責任は、私が負う」


「責任なら、私も負います」


 セリアさんが即答した。


「汚染を見逃したのは神殿全体の問題です」


「争うなら後にしろ」


 レンさんが割って入った。


「今は街に広がったかどうかの確認が先だ」


 その通りだった。


 だが俺の視線は、封印布に包まれた黒い板から離れない。


 その薄い青い線は、もう一度だけ揺れた。


 灰色の声とは違う。


 命令ではない。


 呼びかけでもない。


 記録の残り火みたいな線が、俺の目の前で一本だけ形を作る。


 俺にしか読めない文字。


 ――未帰還者:観測者・湊。


 次の瞬間、青い線は消えた。


「……未帰還者」


 俺が呟くと、リナさんが不安そうに見上げる。


「ミナトさん?」


 俺は答えようとして、言葉を失った。


 その時、封印室の床の奥。


 祈る影が膝をついていた場所の下で、灰色ではない線がわずかに光った。


 青い線。


 スマートフォンから伸びていたものと同じ線だ。


 それは床下へ潜り、神殿のさらに下へ伸びている。


 廃坑とは逆方向。


 街の地下深くへ。


「まだあります」


 俺の声に、全員が振り向いた。


「灰色じゃありません。俺の故郷の物と同じ、青い線です」


 レンさんの顔が引き締まる。


「どこへ伸びてる」


 俺は床を見た。


 神殿の地下。


 封印室より、さらに下。


 街の地図には載っていない深さへ。


「この下です」


 喉が乾いていた。


「神殿の下に、まだ何か埋まっています」

次話、封印室で見つかった“故郷の記録端末”と青い線。十年前の未帰還者「湊」の謎を追い、ミナトたちは神殿のさらに地下へ踏み込みます。続きが気になった方は、ブックマークと評価で応援していただけると励みになります。

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