第一話 薬草庫の異物
「……これ、柔葉草じゃないかもしれません」
俺がそう言った瞬間、薬草庫の空気が止まった。
木箱の前に膝をついていた受付嬢のリナさんが、青い瞳をぱちぱちと瞬かせる。
「え? でも、形も色も柔葉草に見えますよね?」
「表だけなら、そう見えます」
俺は一枚だけ摘み上げ、裏返した。
淡い緑の葉裏に、灰色の粒がこびりついている。砂にしては細かい。灰にしては、光を受けるときらりと反射した。
昨日、俺は街道脇で倒れていたところをリナさんに拾われた。
身元を証明するものは何もない。金もない。泊まる場所もない。
ひとまず冒険者ギルド北門支部で保護され、その代わりに簡単な雑用を手伝っている。今日の仕事は、傷薬に使う薬草の仕分けだった。
昨夜、リナさんは俺に分厚い本を見せてくれた。
『ヴェルデリカ薬草図鑑』。
この地方で採れる薬草をまとめた本らしい。柔葉草はその最初の方に載っていた。
「昨日見せてもらった図鑑では、柔葉草の葉脈は三本でした。でも、これは五本あります」
「五本……?」
リナさんが身を乗り出す。
俺は本物らしい柔葉草を木箱から一本取り、横に並べた。
葉の形は似ている。色も似ている。けれど、俺の目にはまったく別物に見えていた。
名前も、効果も、危険度も表示されない。
ただ、物と物の性質の切れ目だけが、異様なほど正確に分かる。
柔葉草は柔らかな緑の輪郭をまとっている。
だが、今摘んでいる草には、灰色の針みたいな線が混じっていた。
草の中に、草ではないものが入り込んでいる。
「柔葉草なら、折ると甘い青臭さが出ると聞きました」
俺は問題の草を爪で折った。
ぱきり、と乾いた音。
鼻先に近づけると、土と鉄を混ぜたような匂いがした。
「これは違います。うまく言えませんけど……このまま傷薬に混ぜるのは危ないと思います」
薬草庫の奥で帳簿をめくっていた男が、面倒そうに顔を上げた。
倉庫番のレンさんだ。
短く刈った黒髪に、鋭い目つき。初対面の時から、俺を見る目はずっと疑っている。まあ当然だ。昨日この街に現れたばかりの身元不明者が、薬草の仕分けに口を出しているのだから。
「おい、ミナト。思います、で北門補給所の納品を止める気か?」
「止めたいです」
「言い切ったな」
「薬草の中に、別のものが入り込んでいるように見えます」
「見える?」
レンさんの眉が動いた。
俺は木箱の中から、同じ違和感のある草を抜き出した。
十本のうち三本。
どれも葉裏に灰色の粒が付いている。
俺の指にも、その粉が薄く付いた。けれど灰色の粒は皮膚の表面で止まり、奥へ沈もうとはしなかった。まるで、俺の体だけを避けているみたいに。
気味が悪い。
だが、リナさんが同じ草に触れた瞬間、状況が変わった。
「けほっ……あれ?」
小さな咳。
リナさんが自分の指先を見下ろす。
白い指に付いた灰色の粉が、じわりと黒く滲んでいた。
「リナ、動くな!」
レンさんの声が鋭く跳ねた。
さっきまでの疑いが、一瞬で消えている。
「レンさん、これは?」
「魔鉱毒だ。鉱滓草に付く。肌から入り込むと呪染になる」
「呪染……?」
「黒くなったら初期症状だ。普通は神殿の浄化師を呼ぶ。遅れれば、腕を落とすこともある」
リナさんの顔から血の気が引いた。
黒い滲みは、指先から手の甲へ向かって細く伸びている。
俺の視界では、それが線になって見えた。
皮膚と灰色の粉。
血と毒。
混ざりかけている境目。
「ミナト、触るな! お前まで――」
「大丈夫です」
大丈夫だという根拠はない。
それでも、俺には見えていた。
リナさんの手首を掴む。
「失礼します」
「えっ、ミナトさん?」
境界線をなぞる。
黒い滲みの奥に、細い灰色の針が入り込もうとしている。その針と皮膚の切れ目だけを、指先でつまむように意識した。
切る。
ぱちん、と耳の奥で何かが弾けた。
リナさんの指先から灰色の粉が浮き上がり、空中で砂粒になって落ちる。
黒い滲みは消えていた。
「……は?」
レンさんが間の抜けた声を出した。
リナさんも、自分の手を見つめたまま固まっている。
「痛みはありますか?」
「な、ないです。さっきまで痺れていたのに……消えました」
「よかった」
俺は息を吐いた。
混ざりかけていたものを、元に戻しただけだ。
汚れを払うのと、そんなに変わらない。
そう思ったのに、二人の反応は違った。
「ミナト」
レンさんの声が震えていた。
「今、何をした」
「入り込もうとしていたものを、外へ出しました」
「それを浄化師以外ができるわけないだろ!」
「浄化師が何かも、今聞いたばかりです」
「余計に悪いわ!」
レンさんが頭を抱えた。
その横で、リナさんが震える声を出す。
「ミナトさん……本当に、何者なんですか?」
「俺にも分かりません。ただ、境目が見えるんです」
「境目……」
レンさんが低く呟いた。
その時、薬草庫の扉が勢いよく開いた。
「レン! 北門補給所から急ぎの伝令だ!」
飛び込んできた若い職員が、息を切らして叫ぶ。
「昨日納めた傷薬を使った兵士が、三人倒れた! 指先が黒くなって、意識が戻らないって!」
薬草庫の空気が凍る。
昨日納めた傷薬。
木箱の中に混じっていた、柔葉草ではない草。
レンさんが歯を食いしばった。
「鉱滓草か……。採取班は柔葉草の群生地で摘んだはずだぞ」
「柔葉草の場所に、それが混じり始めているのかもしれません」
「根拠は」
俺は木箱の底に残った土を指でなぞった。
土の中にも、灰色の粒がある。
その粒から伸びる線は、草だけでなく、床へ、靴裏へ、扉の隙間へ広がっていた。
「汚れが外から付いたようには見えません。根元から広がっています」
レンさんが一瞬だけ目を閉じ、すぐに腰の短剣を掴んだ。
「リナ、神殿へ走れ! 浄化師を呼べ! 俺はこいつを補給所へ連れていく!」
「はい!」
「ミナト、来い。見えるっていうなら、倒れた兵士と傷薬を見ろ」
「分かりました」
薬草庫を飛び出す。
夕暮れの街に、警鐘が鳴り始めていた。
俺はただ、違うものが混ざっていると気づいただけだ。
それなのに、北門へ続く石畳の先で、灰色の境界線が街全体を覆うように広がっているのが見えた。
次話、北門補給所でミナトの「境目が見えるだけ」がさらに常識を壊します。続きが気になった方は、ブックマークと評価で応援していただけると励みになります。




