第8話:初出勤は命がけ。 〜モブ令嬢、遭遇から三秒で捕捉される〜
「……広い。広すぎるわ、この職場」
リューミエ学園の重厚な正門を潜った瞬間、私はその圧倒的なスケールに溜息をついた。
今日から私の新しい戦場となるこの場所では、生徒たちが皆、誇らしげに制服を着こなしている。私も鏡の前で何度もチェックした、お気に入りの一着——シックな黒のジャケットに、深い緑のチェック柄が映えるプリーツスカートに身を包み、背筋を伸ばした。
(よし。見た目だけは完璧な令嬢。チェックのスカートが揺れるたびに、なんだか前世の『勝負服』を着ているような気分だわ。これならきっと、背景として完璧に溶け込めるはず……!)
私はカトリーヌ先生直伝の「完璧なモブ歩行」を実践し、壁際を静かに進んだ。だが、現実は非情である。一ヶ月の引きこもり生活で鈍った私の方向感覚は、複雑な校内マップを前にあえなく沈没した。
「えーと、私の教室は……。……あれ? ここ、どこ?」
迷子になった挙句、気づけば人通りの少ない、けれど嫌に豪華な装飾のテラスへと迷い込んでしまった。
「——おや、そんなところで一体何をされているのですか?」
「……あ、あの、失礼いたしました。すぐに立ち去ります!」
私はチェックのスカートを翻し、早歩きでその場を離脱しようとした。
が、背後からかけられたのは、春風のように穏やかで心地よい声だった。
「おっと、危ないよ。そんなに急いだら転んじゃう」
振り返ると、そこには手すりから身を起こし、柔らかな微笑みを浮かべてこちらを見ている一人の青年がいた。銀髪を揺らしながら歩み寄ってくるその姿は、物語の騎士様そのもの。誰にでも親しまれるという、あのクラウス様だ。
「……すみません。道に迷ってしまいまして」
「だろうね。ここ、高等部の教室とは真逆なんだ。はい、これ。君の落とし物かな?」
彼が差し出したのは、私がさっきまで握りしめていたはずの「教室番号メモ」だった。裏面にはしっかり私の氏名が書いてある。
「あ……っ、ありがとうございます!」
「いいよ、気にしないで。リアナ・アルヴィル嬢、だったかな? 一ヶ月もお休みしてたんだね。いきなり一人で歩き回るのは大変だろう?」
心配そうに眉を下げるその瞳に敵意はない。ただ純粋に後輩を案じている「優しい先輩」の顔だ。
(……ああ、これ。一番まずいパターンだわ)
こういう人気者と関わると、それだけで周囲の視線を浴びてしまう。モブにとって、彼の親切は毒に近い。
「記憶を失くしたって聞いたけど、無理しちゃダメだよ。……あれ? 前の君なら、俺が声をかける前に全力で逃げてた気がするけど。今日はちゃんと話を聞いてくれるんだね」
彼はどこか嬉しそうに微笑み、ふと思いついたように言葉を添えた。
「……もしよかったら、教室まで送ろうか?」
差し出された救いの手。本来なら喜ぶべきところだけど、今の私には「逃げ場を塞ぐ包囲網」にしか見えない。
私の「平穏なモブ生活」という計画書は、学園へ上がって早々、このキラキラした優しさによって、早くも崩れ去ろうとしていた。




