第40話:名探偵リアンナ、灯台下暗し〜推理力と記憶力は別問題である〜
「そろそろ帰った方がいいな」
「あっ、そうですね……」
セドリックの言葉に我に返ると、いつの間にか窓の外はすっかりと夕焼け色に染まっていた。
私はテーブルの上に置いていた本へ手を伸ばす。けれど、その指先が表紙に触れるより早く、セドリックの大きな手がすっと伸びてきた。
「ほら」
「あ……ありがとうございます」
ひょいと本を取り上げると、彼はいつもの爽やかな笑みを浮かべたまま、私の鞄へ丁寧に仕舞い込み、当然のように鞄の紐を掴んで立ち上がった。
……え? いや、それは私の鞄なんだけど。そんな無言の視線を送っても、彼はにこにことした顔で綺麗にスルーだ。
私も慌てて後を追うように腰を上げた、その時だった。
「きゃっ」
ベンチの脚に足先を引っ掛けてしまう。身体が大きく前へと傾き、思わず息を呑む。
――が、地面へ激突するよりも早く、ぐいっと力強い腕が私の腰を抱き寄せた。
「危ない」
「す、すみません……っ!」
気付けば私は、彼の広い胸元へ半歩ほど飛び込むような体勢になっていた。腰にはしっかりと彼の腕が回っている。
近い。近すぎる。さっきまで平和だったはずの心臓が、再び全力疾走を始めた。
「足は大丈夫か?」
「だ、大丈夫です! 本当に大丈夫です!」
慌ててブンブンと首を横に振る。すると彼は私の顔をじっと見つめ、にこやかに対処しながらも、小さくため息を吐いた。
「また足を捻られても困るからな」
「そ、そんな何度も捻りませんよぉ……」
「どうだろうな」
セドリックはどこか楽しそうに目を細める。
「前科がある」
うぐっ、反論できない。確かに私は一度足を捻り、その結果、お姫様抱っこをされるという末路を辿っているのだ。完全なる前科持ちである。
「だから寮までは、このままだ」
「えぇ……っ!?」
「諦めろ」
いつもの眩しい笑顔のまま、けれど有無を言わせぬ調子でさらりと言われて言葉を失う。
気が付けば、彼の腕は私の腰に添えられたままで、私の鞄も彼が持っている。本人は至って涼しい顔、というか嬉しそうだ。
(なんなの、この人……たまに強引っていうか距離感バグってない……!?)
抗議したかったけれど、また転びそうになったのは事実だし、何より私の足を心配してくれているのは本当なのだろう。
結局私は、そのまま彼に甘やかされるような形でエスコートされながら、心臓の爆音を隠すのに必死な状態で女子寮へと向かうことになったのだった。
◇◇◇
そして翌日。休日の朝。
朝食を終えた私は、意気揚々と、まっ先にお気に入りのソファへ飛び込んだ。
今日は特に予定もない。つまり、最高に贅沢な読書日和というやつだ。
(今日は一気に犯人を追い詰めてやるんだから!)
私は鼻息荒く途中まで読み進めているとってもミステリーな本を開いた。
◇◇◇
「お嬢様」
「なに?」
「……昼食のお時間です」
パチリと瞬きをして顔を上げると、窓から差し込む光の角度がすっかり変わっていた。
「……うそ。もうそんな時間?」
「朝食の後から、一度も席を立たれていません」
侍女のエマがどこか呆れたように微笑む。……恐るべし、ミステリーの魔力。犯人が気になりすぎて、時間の感覚が脳内から完全に消滅していたらしい。
◇◇◇
(さらに、昼食後。さらにおやつの後)
◇◇◇
「えぇぇぇぇぇっ!? 嘘でしょ!?」
私はソファからバネのように跳ね上がった。
「お嬢様!? どうなさいました!?」
近くで刺繍をしていたエマが驚いて顔を上げる。
「違ったのよエマ! 犯人!」
「……ああ、本の、ですか」
エマの冷静なツッコミを背に、私はそのままソファへごろりと倒れ込んだ。
「絶対この人だと思ったの。途中で違うと思って、今度こそ! って思ったのに……全部違った……」
悔しい。めちゃくちゃ悔しい。
私は完全に作者の掌の上で、見事に転がされていた。なんてことだ、前世で培った「元OLの推理力」が、この異世界ファンタジー・ミステリーに完全に敗北した。
「……完敗したわ」
「お気に召さなかったのですか?」
「いいえ、逆よ。面白すぎて悔しいの!」
本をぎゅっと抱きしめ、天井を見上げる。
読み終わった今なら分かる。あちこちにちゃんと伏線が貼られていたし、読み返せば「あったー!」と叫びたくなるようなヒントが散りばめられていたのだ。
「……すごく面白かった」
エマはどこか安心したように、ふわりと微笑んでくれた。
「それは良い休日でしたね」
「うん、最高だったわ」
私は本を抱えたまま、満足げに頷く。
犯人は当たらなかった。推理も大惨敗。それでも、この面白さを誰かに伝えたくてウズウズしてくる。
(早くエドガー先輩に感想を言いたいな!)
この情熱的なレビューを聞いて、先輩はどんな顔をするだろう。
そんなことを考えていると、読書後の余韻に、不思議な幸福感が混ざり合ったのだった。
◇◇◇
そんな風に、至る所で読書余韻に浸っているうちに時間は流れ――。
夕食を終えた私は、ソファでのんびりと食後の紅茶を飲んでいた。
テーブルの上には、今日私を完璧にノックアウトしたミステリー小説が静かに置かれている。
作者には見事に完敗したし、犯人予想はことごとく外れた。悔しい、悔しいけれど、それ以上に最高に面白い最高の休日だった。
私は満足げにカップを傾けながら、ふっと、自分の左手首へと視線を落とした。
そこには、すっかり馴染んだいつものブレスレットがある。
最近は本当にお気に入りになってしまって、お風呂の時以外はほとんど毎日身に着けている。夕闇が迫る部屋の明かりに照らされて、紫水晶が瑞々しく小さく輝いた。
「綺麗ね……本当に、綺麗」
そっと指先で石の表面を撫でる。
すると自然と、ガゼボで約束した来週の日曜日の予定が頭に浮かんだ。
一面に広がる、色鮮やかなコスモス畑。
心地いい秋風と、澄み渡るような青空。
(楽しみだなぁ……。美味しいお茶でも淹れて、何も考えずにぼーっと過ごしたら、きっと最高に気持ちいいわよね)
そんな平和な光景を想像して、私は小さく笑った。
――と、そこで私は、ふっと動きを止めて瞬きを繰り返した。
待って。
……何か、もの凄く大事なことを忘れている気がする。
もう一度、左手首のブレスレットを見る。
毎日着けている、お気に入りの、紫水晶のブレスレット。
ギフト。これは――セドリックから貰ったもの。
「……あ」
思わず、間抜けな声が口から漏れた。
思考を整理しよう。
コスモス畑に行くのは、前にお世話になった医務室のお礼だ。そこまではいい。問題ない。
でも。
(この、素敵なブレスレットのお礼って、私、まだ何もしてなくない……!?)
貰いっぱなし。完全に貰いっぱなしである。前世の常識で考えても、貴族の社交マナーで考えても、これは完全にアウトなやつだ。
「エマーーー!!」
「はいはい、どうなさいました、お嬢様」
私が勢いよくソファから立ち上がって叫ぶと、控えていたエマがすぐに、どこか慣れた様子で声を返してくれた。
「相談! 大至急、相談があるの!」
「……お嬢様のそのテンション、嫌な予感しかいたしませんが」
「ひどいっ!?」
即答だった。ひどいわエマ、私だってたまには建設的な相談くらいするのよ。
私は自分の左手首を、これ見よがしにエマの前に突き出した。
「プレゼントを! プレゼントを探しに行きたいの!」
エマは、差し出された私の手首のブレスレットを見た。
次に、私の顔を見た。
そして、もう一度ブレスレットを見た。
……何だろう。今、もの凄く生暖かいというか、「ようやく気づきましたか」と言わんばかりの、妙に意味深な沈黙が流れた気がする。
「……セドリック様への、贈り物ですか?」
「そうなの! 貰ってばかりじゃ申し訳ないし、何か彼に喜んでもらえるものを贈りたくて!」
「なるほど」
エマは、すべてを察したような深い笑みを浮かべて小さく頷いた。
「でしたら、明日は街へ参りましょう。ちょうどお嬢様のご予定も空いておりますし」
「本当!? ありがとうエマ、大好き!」
私は思わずパッと顔を輝かせた。
こうして。
私は、セドリックへの重大な「お返しミッション」を果たすべく、翌日の日曜日、エマと共に街へ出掛けることになったのだった。




