第37話:日程調整は重要である ~元OL、議題にない案件が発生しました~
ふぁぁ……。
私はあふれ出てきそうになる欠伸を必死に噛み殺しながら、鉛のように重たい瞼をどうにか持ち上げた。
眠い。
とても眠い。
正直に言おう。完全なる、圧倒的なる寝不足である。
原因は、間違いなく昨日の放課後にある。
あの後、私は図書室の窓際の席で、借りたばかりのミステリー小説をさっそく開き、読み始めてしまったのだ。
もちろん、本当に少しだけ読むつもりだった。ちょっとだけ中身を検分して、残りの楽しい続きは寮の自室に戻ってからじっくり読もう。そう思っていた。
思っていたのだけれど――。
(気付いたら、すっかり良い時間になっていたのよね……)
おのれミステリー、恐るべき吸引力。窓際から差し込む夕日を浴びながらゴロゴロと作者の掌の上で転がされているうちに、図書室の閉館時間が迫っていた。
私は慌てて本を借りる手続きを済ませ、大急ぎで寮へと戻った。
そこからは、それはもう完璧なルーティンをこなした。
お行儀よく夕食を済ませ。
お風呂に入って身綺麗にして。
「あとはベッドに入って寝るだけ!」
という、人間としてこれ以上ない無敵の状態になってしまったのが、私の運の尽きだった。
案の定、続きを読んでしまった。
しかも、今度こそ少しだけのつもりで。本当に少しだけ、次の章まで。
そう思っていたのだけれど。
(気付いたら、すっかり遅い時間になっていたのよね……!!)
本日二度目のタイムリープ(※ただの没頭)。時計の針はとっくに消灯時間をブチ抜いていた。
だって、犯人候補だと思って目をつけていた怪しい人物は中盤であっさり死ぬし、逆にノーマークだった無害なモブがめちゃくちゃ怪しく見えてくるしで、脳内が「えっ!? 誰!? 犯人誰なの!?」と大パニックを起こしてしまったのだ。もう何が何だか分からない。
そして何より、続きが気になって眠れるわけがない。
結果。見事なまでの寝不足一丁あがりである。
しかも、結局寝落ちして最後まで読めていないのだ。
そんな私は教室の一番後ろ、特等席である窓際の席で、現在進行形で押し寄せる強烈な睡魔と泥沼の死闘を繰り広げていた。
「――では、この場合の解は……」
教壇に立つ教師の声は、かすかに耳に届いている。
届いているのだけれど、今の私の脳には、それが極上のヒーリングミュージックか子守歌のようにしか聞こえない。
――コクリ。
(危ないっ……!! 今、一瞬あっち側の世界に意識が飛びかけたわ……!)
私は慌てて、机の下で手の甲を軽くつねった。
うん、地味に痛い。位置的にも窓から入り込んでくる風が心地良すぎるのも問題だった。暑くもない。寒くもない。ただひたすらに眠気を誘ってくる。
眠い。とても眠い。
(駄目よ、リアンナ……!)
私は必死に白目を剥きながら自分を叱咤する。
授業中なのだ。寝てはいけない。絶対に寝てはいけない。
――コクリ。
(って、寝てるぅぅぅ!)
自分で自分にツッコミを入れながら、私は何とか意識を引き戻した。
こんなに眠いのは久しぶりだ。ミステリー小説恐るべし。
次からは気を付けよう。本気でそう思った。
……まあ、ベッドに入って続きが気になったら、また読んでしまう気もするけれど。
◇◇◇
そして訪れた、待ちに待った昼休み。
「眠そうですわね」
中庭のガゼボに集合するなり、開口一番、アリシュナ様にジト目でそう言われた。
「やっぱり分かります?」
「分かりますわ」
一切の迷いがない即答だった。
私は小さく肩を落とす。きっと今の私は、目の下に立派なクマをこしらえたゾンビのような顔をしているに違いない。
「昨日、少しだけ本を読むつもりだったんです」
「ええ、少しだけね」
「はい。それで……気付いたら消灯時間を過ぎていました」
数秒の、呆れと憐れみの混じった沈黙。
アリシュナ様は静かにティーカップを置いた。
「リアンナ様」
「はい」
「それは自業自得ですわ」
「はい……」
反論できない。完全に私が悪い。
「でも、本当に展開が読めなくて面白かったんです」
「そういう問題ではありません」
なおも言い訳を試みる私に、ぴしゃりと言い切られた。厳しい。けれどぐうの音も出ない正論だった。
「睡眠不足で体調を崩したらどうするのです」
「うっ」
言葉が胸に刺さる。そういえば、つい数日前までまともに歩けなかったのだ。
「本を読むなとは言いません」
「はい」
「ですが、休むべき時に休むのも大切ですわ」
真っ直ぐな声音だった。自分にも他人にも厳しいアリシュナ様らしい言葉。
けれど、その美しい瞳の奥には、責める色よりも心配する色の方が強く見えた。
「……心配してくださってます?」
思わずそう聞いてしまう。するとアリシュナ様は「なっ……」と一瞬だけ頬を染め、ふいっと視線を逸らした。
「当然ですわ」
少しだけ不機嫌そうな声。
「友人がそんな顔をしていたら気になりますもの」
そのツンデレの教科書のような言葉に、私は思わず笑ってしまった。
「ありがとうございます」
「お礼を言われるようなことではありませんわ」
そう言いながらも、アリシュナ様はどこか安心したように紅茶へ口を付ける。
なんだかんだ言って、本当に優しい人なのだ。
「よし、今日こそはちゃんと早く寝ます!」
私は自分を鼓舞するように、少しだけシャキッと背筋を伸ばして固く決意した。
――まぁ、頭の片隅で「でも、昨夜のあの事件の続き、犯人の動機がめちゃくちゃ気になるな……」と思っている不届きな本音については、ひとまず見えない棚の一番上へと、そっと放り投げておくことにした。
「――ここにいたのか、アリシュナ」
その時だった。
上空から降ってきた聞き慣れた低音の美声に、私はびくりと顔を上げた。
見れば、ライオネル殿下とセドリックが、揃って中庭のガゼボへと歩いてくるところだった。
「あら、殿下」
「昼休みくらい、可愛い婚約者と話をしようと思ってね」
「かわ……!な、何を仰いますの、殿下!」
「本当の事を言ったまでだよ」
殿下はそう言って爽やかに微笑むと、当然のような自然さでアリシュナ様の隣へと腰を下ろした。
対するセドリックは、その少し後ろ、いつもの騎士のポジションにスッと静かに佇む。
「リアンナ嬢」
「は、はい?」
不意に殿下から水を向けられ、背筋が伸びる。
「随分と眠そうだね」
「うっ……!」
本日二度目のストレートな図星である。王族の観察眼をナメてはいけなかった。思わず言葉に詰まっていると、すかさずアリシュナ様からチクリと追撃が入る。
「リアンナ様ったら、昨夜は遅くまで本を読んでいたそうですの」
「なるほど」
殿下はすべてを察したように楽しげに頷いた。
「それは完全なる自業自得だね」
「うう、本当にそうなんですよねぇ……」
私は力なく苦笑いを浮かべる。アリシュナ様からも散々お説教を食らったばかりだ。国を背負うツートップに挟まれては、一介の元OLに反論の余地など万に一つもない。
「それで?」
殿下は綺麗な顎に手を当て、面白そうに頬杖をついた。
「そこまでして夜更かしする価値は、その本にあったのかい?」
「――ありました(即答)!」
これだけは譲れないとばかりにキリッと言い放つと、殿下は一瞬だけ驚いたように目を丸くし、それから「くすっ」と堪えきれないように吹き出した。
「ふふ、それなら仕方ないね」
「仕方なくありませんわ、殿下!」
甘やかすような殿下の言葉を、アリシュナ様が即座にピシャリと切り捨てる。
「何をおいても睡眠は最優先されるべきです。体調を崩してからでは遅いのですわ」
「はい……」
私は借りてきた猫のように、大人しくうなだれるしかなかった。
その後も少しだけ四人で他愛のない雑談を交わし、やがて昼休みの終了を告げる鐘の音が、学園内に高く響き渡った。
「そろそろ教室へ戻りましょうか」
「そうだね」
アリシュナ様が立ち上がり、殿下もそれに続く。
私達も席を立ち、教室へと向かって歩き始めた。
自然と先頭を歩くのは、並んで歩く姿が絵画のように美しいライオネル殿下とアリシュナ様だ。二人は前を向いたまま、何やら話しているらしい。
少し距離が離れているため、会話の内容までは聞こえないけれど。
時折、殿下の本当に楽しそうな笑い声と、それに反論するようなアリシュナ様のツンとした抗議の声だけが風に乗って聞こえてきた。
恐らく、また殿下が意地悪気味に何かを言って、アリシュナ様をからかっているのだろう。
ここからでは彼女の表情までは見えないけれど、きっと今頃、顔を真っ赤にして狼狽えているに違いない。
最近の殿下は妙に生き生きとして楽しそうだし、アリシュナ様はそんな彼に妙に振り回されている気がする。
(……うんうん、なんだかんだ言って仲良しだなぁ)
完全に親戚のおばちゃん目線になり、私は微笑ましい気持ちで二人の尊い背中を眺めていた。――その時だ。
「リアンナ」
不意に、すぐ隣から名前を呼ばれた。
前を歩く二人には決して届かない、低く、密やかなちいさな声。
「はい?」
私がそちらへ顔を向けると、セドリックは前方の主君を見据えたまま、端正な横顔で淡々と口を開いた。
「今日の放課後、何か予定はあるのか?」
「え? いえ、特にありませんけど……」
怪訝に思いながらもそう答えると、彼は小さく満足そうに顎を引いた。
「そうか」
一拍、絶妙なタメが作られる。
「そろそろ足も良さそうだからな」
その言葉に、私は思わず弾かれたように彼の顔を見上げた。
「……! はい!」
「――コスモス畑の日取りを決めようか」
セドリックの口から飛び出したその単語に、私の心は一瞬でパッとひまわりが咲いたように明るくなった。
「本当ですか!?」
「ああ」
相変わらず短い返事。けれど、その声音はいつもの仕事モードより、ほんの少しだけ柔らかい気がする。
「放課後、殿下の護衛はいいんですか?」
「今日はこの後、別の騎士と交代だ。引き継ぎだけ済ませてくる」
さらりと答えてから、セドリックは少しだけ申し訳なさそうに目を細めた。
「……少し待たせてしまうかもしれないが、構わないか?」
「もちろんです! 全然気にしないでください!」
これ幸いと、私は素直にぶんぶんと頷いた。
「それでは、中庭のガゼボで待ってますね!」
「ああ」
セドリックも小さく頷く。
「分かった」
そして。
あまりにも、あまりにも自然な動作で。
ぽん、と私の頭の上に、彼の大きな手が乗せられ、優しく、けれど確かに重みを感じる温度。
そのまま、さらり、と私の毛先を梳きほぐすように、長い指先が滑り落ちていく。
時間にして、ほんの一瞬。瞬きをするほどの、わずかな間の出来事だった。
――なのに。
私の心臓は、まるで全力ダッシュでもしたかのように、突如としてドクドクと騒がしく暴れ始めた。
「じゃあ、また後で」
セドリックは何事もなかったかのようにすっと手を離した。
ちょうどその時、私達の教室の前へと到着する。
「え……?」
「それでは」
セドリックは一瞬でいつもの「王太子殿下の専属騎士」の顔へと戻り、前を歩く殿下達の後を追って、滑るように去っていった。
廊下に残された私は、その場で深くため息を吐き出した。
(……な、なんなのよ、もう……っ!)
本当に、最近のセドリックはちょっとおかしい。
ちょっとしたスキンシップの頻度が明らかに増えている。
それも、本人は至って涼しい顔をして、息をするように自然にやってのけるのだ。
元OLの知識を総動員しても、彼からのこの怒涛の過剰供給にはまるで耐性が追いつかない。
ただ頭を撫でられただけだ。うん、本当にそれだけ。前世の感覚で言えば、ちょっとしたスキンシップか、子供扱いされただけの話だ。
なのに。なぜだろう。
セドリックの手が触れていた頭のてっぺんが、じわじわと、妙に熱い。
私はパニックになりそうな脳を必死に抑え込み、慌てて教室の席に着くと、誤魔化すように勢いよく教科書を開いた。
けれど、午後の授業が始まってからもしばらくの間。
私の心臓だけは、持ち主の都合を完全に無視して、うるさいほどの高鳴りを全く鎮めてくれなかったのだった。




