第32話:包帯を巻いたら予定も巻かれました。 ~元OL、ピクニックでルンルンルン~
秘密を共有するというのは、存外、不思議な心地がするものだ。
あの日以来、私とアリシュナ様が共に過ごす時間は目に見えて増えていた。
昼休みにランチを共にしたり、講義の合間に短く言葉を交わしたり。以前から親しくしていただいていた自負はあるけれど、今はその温度が少しだけ違う。
ふとした瞬間に視線が重なり、二人だけにしか分からない微かな笑みを交わす。
「私たちだけの秘密」という透明な糸が、以前よりもずっと強固に、そして優しく私たちを結びつけている。
殿下にも、そしてセドリックにも決して分からない、特別な「連帯感」。
それだけで、なんだか胸の奥がむず痒くなるほどに嬉しくて、世界が少しだけ明るく見えた。
「リアンナ様、次はダンスの講義ですわ。移動いたしましょう」
「あ、はい!」
アリシュナ様に促され、私は慌ててロッカーを開ける。
次のダンス講義は別棟の演習場だ。親友となった上司アリシュナ様を、これ以上待たせるわけにはいかない。
……のだけれど。
「あの、アリシュナ様。すみません、少し寄りたいところがありますので、先に行っていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんですわ。……ふふ、慌てて転んだりなさいませんように」
アリシュナ様に見透かされたような慈愛の微笑みを向けられ、私は一度別れた。
けれど、数分後。
(やばい、急がないと……!)
ハンカチをポケットへ押し込み、私は廊下を急いだ。
(急げ、私。今ならまだ間に合――。)
「きゃっ!」
角を曲がった瞬間どんっと誰かにぶつかった。
視界が大きく傾き、無様に後ろへ倒れそうになった身体を、重力が無慈悲に引き寄せた――。
「おっと、危ない」
けれど、衝撃は来なかった。
床へ倒れるより先に、逞しくも柔らかな腕が私をがっしりと支える。
ふわり、と鼻腔をくすぐったのは、上品で柔らかな香水の匂い。
「…………え?」
顔を上げると、そこには見覚えのない男子生徒がいた。
淡い栗色の髪に、穏やかな琥珀色の瞳。制服の着こなしも非の打ち所がなく、その立ち居振る舞いからは育ちの良さが滲み出ている。
「申し訳ありません。こちらの不注意で」
「い、いえ! 私の方こそ、急いでいて……っ!」
慌てて離れようとした、その刹那。
右足の首を、刺すような激痛が貫いた。
「っ……!」
「足を痛めましたか?」
彼はすぐに表情を引き締め、私の顔を覗き込む。
「あ、いえ、大丈夫です。少し捻っただけで――」
言いながら一歩踏み出そうとして、再び激痛に膝が折れそうになる。
……全然、大丈夫ではない。
「無理はなさらない方がいい。医務室までお連れします」
「えっ、いえ、そこまでしていただくわけには」
「ですが、その足では次の講義に向かうのも難しいでしょう」
ぐうの音も出ない程の正論に、彼は一歩距離を取り、優雅に、そして礼儀正しく手を差し出した。
「失礼。触れても?」
驚いた。なんて丁寧な人なのだろう。
抱き止められた時も決して強引さはなく、今もこうして私の意思を尊重してくれている。
「あ……ありがとうございます。お願い――」
「――その必要はありません」
低く、冷徹なまでに静かな声が廊下に落ちた。
反射的に肩を跳ねさせて振り返ると、そこには――ライオネル王太子殿下。
そして、その背後に影のように控える、セドリックと、これまた見覚えのない男子生徒の姿があった。
「殿下……っ!」
慌てて礼を取ろうとしたが、足首が悲鳴を上げてうまく動けない。
そんな私を認めたセドリックの目が、わずかに、けれど鋭く細められた。
すぐにいつもの穏やかな微笑みを浮かべていたけれど、なぜだろう。その笑顔が、私にはなんだか怖いと感じられた。
「リアンナ、足を痛めたのか」
「え、あ、はい。でも少し捻っただけで――」
「少しではありません」
即答だった。
診断が早すぎる。というより、彼の視線が私の足を射抜くようで、隠しようもない。
「私が医務室へ連れて行きます」
そう言ってから、セドリックは淀みない動作で殿下へ視線を向けた。
あくまで彼は殿下の専属騎士。主の許可なく独断で動くことはない。
ライオネル殿下は、ちらりと背後に控える蜂蜜色の髪の少年に視線を向けた。
「ジャスパー。少しの間、僕の側についてくれるかな」
「承知いたしました、殿下」
殿下は満足そうに頷き、セドリックに視線を戻す。
「セドリック。リアンナ嬢を医務室へ。教師には僕から伝えておくよ」
「かしこまりました」
セドリックが一礼する。
すると、先ほど私を助けてくれた彼が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「私の不注意でご迷惑を。医務室へは私が――」
「お気遣い、痛み入ります」
セドリックが微笑む。
美しい。完璧なまでの礼儀作法。
けれど、その場の空気が一瞬にして氷点下まで下がった気がしたのは、私の錯覚だろうか。
「ですが、ここからは私が」
「…………そうですか」
男子生徒は一瞬、何かを察したように目を瞬かせると、潔く身を引いた。
彼は最後まで紳士的に礼をして去っていった。
「リアンナ。歩ける?」
「た、たぶん……っ」
踏み出そうとした瞬間、再び走る激痛。
「無理そうだね」
「え?」
次の瞬間、視界がふわりと浮き上がった。
気付けば、私はセドリックの腕の中に収まっていた。
世に言う――お姫様抱っこ、という体勢で
「セ、セドリック!? 何を――」
「医務室へ行こう。大人しくしていてね」
有無を言わせぬ響き。
近い。あまりにも近い。
顔も、胸板の厚みも、確かな体温も。
心臓に毒すぎる。
「歩けます! 降ろして!」
「たぶん、は歩けるうちに入らない」
「でも、周りの目が……!」
「医務室へ行くだけだ」
当然のように返される。
助けを求めて殿下を見ると、ライオネル殿下はこれ以上ないほど爽やかに、にこにこと楽しそうな笑みを浮かべていた。
「リアンナ嬢、無理はしないようにね。セドリック、丁重にお連れするんだよ」
「もちろんです、殿下」
絶対に、殿下は楽しんでいる。
隣でジャスパーが「あの状況で態々行くなんて……なんで?」と言わんばかりに困惑している様が、今の私の心境と完全に一致していた。
「それでは、失礼いたします」
セドリックは殿下へ淀みなく一礼すると、私を抱えたまま歩き出した。
医務室までの道のりは、普段ならほんの数分だ。
けれど今は、その数分が永遠にも感じられる。
「……セドリック、あの、やっぱり降ろしていただいても……」
「駄目だ。足を捻っているんだろう」
前を向いたまま、彼は淡々と、けれどどこか硬い声で応じる。
その横顔はいつも通り彫刻のように整っているけれど、心なしか、私を抱える腕にいつも以上の力がこもっている気がした。
(……あれ? もしかして、怒ってる?)
冷たくはない。けれど、いつもの柔和な響きがどこにもない。
気まずさに耐えかねて、私はおずおずと口を開いた。
「あの……すみません。職務中にお手を煩わせて」
「仕事だから運んでいるわけではないよ。君が怪我をしたから運んでいる。……それだけだ」
「……」
しばらくの沈黙。廊下に響くのは彼の規則正しい足音だけ。
すると、彼は独り言のようにポツリと呟いた。
「……随分と親切な人だったね。さっきの彼は」
「え? ああ、そうですね。ぶつかったのは私なのに、助けてくださって……」
正直に答えた瞬間、廊下の空気がスッと数度下がった気がした。
「そう。……あんな風に、躊躇いもなく君を抱き止めるなんて。随分と手慣れた親切心だ。……鼻の下を伸ばしていなかったか?」
「そ、そんなことなかったですよ? とても紳士的な方でした」
私が彼を庇うような形になると、セドリックは小さく鼻で笑った。
「……私がいれば、彼に触れられる前に助けられた。それを考えると、どうにも面白くないんだ」
――え。
今の、もしかして「拗ねて」いらっしゃる……?
不機嫌そうなオーラを纏ったまま、セドリックは医務室の扉を片手で器用に押し開けた。室内には誰の姿もなく、静まり返っている。
セドリックは私を一番手前のベッドへ、まるで壊れ物を扱うかのようにそっと降ろした。
やはり、目を合わせようとしない。
無言で救急箱を取り出すと、私の足元に膝をついた。
「あ、自分でやりますっ」
「動かないで。早く手当てしないと酷くなる」
その声は、相変わらずどこか硬い。
けれど、私の右足を取って、丁寧に靴とストッキングを脱がせていくその指先は――。
(……温かくて、すごく、優しい)
声のトーンとは裏腹に、その手つきは驚くほど繊細で、慈しむような熱を帯びていた。
赤く腫れ始めた足首に、手際よく湿布を貼り、丁寧に包帯を巻いていく。一つ一つの動作に、彼がどれほど私の怪我を心配しているかが滲み出ていた。
怒っている風なのに、手当ては本当に丁寧だ。
なんだか申し訳ない気持ちになって、私は彼の顔を覗き込んだ。
「あの……ありがとう。ここまで運んで、手当てしてくれたお礼をしたいんだけど、何がいいかな?……セドリック」
その瞬間、包帯を巻くセドリックの手が、ピタリと止まった。
ゆっくりと顔を上げた彼の瞳が、どこか深い色を帯びる。
「……どんなことでもいいの?」
「え……? まぁ、私に出来ることであれば、だけど……」
うっかり口を滑らせた私に、セドリックはふっと目を細め、いつもの綺麗な、けれどどこか艶を孕んだ微笑みを浮かべた。
「何でもいいんだね。それなら、今すぐ君を私のものに――」
「わーー! 待った! ストップ!! 変な意味の何でもじゃないから!」
とんでもない冗談を言い出した彼を、私は全力で手を振って遮った。
セドリックは「くっ……」と言葉を詰まらせ、あからさまに不満そうに唇を尖らせる。
けれど次の瞬間、セドリックはふっといつもの優美な、けれどどこか自信たっぷりな笑みを浮かべた。
「冗談だよ。……でも、私の心が深く傷ついたのは本当だ。他の男に抱きとめられている君を見て、どれほど胸が痛んだか……」
「う……」
そう言われるとこちらが悪いような気がしてくる。
「だけど、いいよ。君の言う『私に出来る範囲のお礼』として、足首が治ったら、一緒にコスモスを見に行ってくれる?」
「コスモス、ですか?」
「ああ。もう少ししたら、近くの丘で見頃を迎える場所があるんだ。リアンナと一緒に見に行きたいんだ。……ああ、それと、君の手作りのお弁当も付けてくれるなら、私の傷ついた心も完全に癒える気がするな」
(……えっ、コスモス畑!? しかも手作りお弁当ピクニック!?)
セドリックの口から飛び出した魅力的な提案に、私の心は一瞬で跳ね上がった。
ピクニックができるなんて、むしろこちらからお願いしたいくらいだ。
ポカポカの太陽の下でゴロンとしたら気持ちいいだろう。
「コスモス畑、いいですね! ぜひ行きましょう! お弁当も私、がんばって作ります!」
身を乗り出して快諾した私を見て、セドリックは一瞬だけ、狐に摘まれたような顔をしたけれど彼はすぐに、優美な笑顔に戻った。
「そう? 楽しみにしているよ」
セドリックは満足そうに微笑むと、私の包帯の上から、誓いを立てるように優しくキスを落とした。
その仕草は相変わらず大袈裟で、どこか王子様っぽくて調子がいい。
さっきまでの重苦しい空気はどこへやら。
私はセドリックの大袈裟な態度に呆れつつも、頭の中ですでにお弁当のメニューをあれこれと組み立て始めて、すっかりワクワクした気持ちになっていたのだった。




