第31.5話:騎士の愉悦と予期せぬ甘傷(セドリック視点)
今日は、ライオネル王太子殿下の公務に同行している。
殿下の専属騎士として付き従う以上、当然職務に不満などない。
報告書の確認も、周囲への警戒も、すべて滞りなく完璧にこなしている
だが
正直に言えば、少し退屈だった。
理由は簡単だ。
今日は学園へ赴く用事がない
――つまり、リアンナに会えない
ふと、数日前の図書室前でのやり取りを思い出す。
距離を置こうとされた時は、どうやって引き止めるか頭を悩ませたが
ほんの少しだけ可哀想な男のフリをして引いてみせたのだ。
すると、案の定だった。
『嫌いとかそういうんじゃなくて……!』
慌てて、しどろもどろになりながらも少し頬を赤らめて必死になっている彼女は、自分から一番可愛い本音を零した。
『……あんな風に、痕を付けられたのが初めてで。どうしたらいいか戸惑ってしまっただけで、決してセドリック様が嫌いなわけでは……』
――あれは、反則だろう
思い出した瞬間、気を抜くと口元が緩みそうになる。
本人は必死だったのだろうが、あまりにも可愛すぎた。
ガゼボに行った後も、距離をつめたらどういう反応を見せてくれるのか見たくてお願いしてみる。
『それなら……俺のことも、“セドリック”と呼んでほしいな』
流石に抵抗されるかと思った。
実際、彼女は理由をつけて粘っていたし、小さな耳まで真っ赤に染めていた。
だが。
『……わかりました。……セドリック』
不意に鼓膜を揺らした、自分の名前。
――その瞬間だった。
(……っ!)
一瞬、本気で息を忘れた。
あれは想像以上だった。
今までは、一歩引いた距離から「セドリック様」と呼んでいた彼女が、敬称を外してただ私の名前だけを紡いだ。
たったそれだけのことで、二人の距離が一気に縮まったような、格別の高揚感が全身を駆け巡る。
照れたように。
それでもちゃんと、自分の名前を呼んだ声。
想定外の破壊力に、思わず片手で顔を覆う。
熱い。
どうしようもなく胸が締め付けられて、顔だけではなく耳まで有り得ないほど熱を持っているのが、自分でもよく分かった。
まさか、名前を呼ばれただけでここまで激しく動揺するとは思わなかった。
しかも、目の前の本人はそんなこちらを見て、心底不思議そうに首を傾げているのだから質が悪い。
『……え、どうされました? 大丈夫ですか?』
その純真無垢で無自覚な追撃に、私は覆った手の内側で、どうしようもない衝動に突き動かされていた。
みっともないのは百も承知だが、あの極上の響きを、もう一度だけでいいから耳に焼き付けたかった。
『……いや、すまない。想像以上に、くるものがあった。……もう一度、呼んでみてくれないか?』
我ながら、随分と情けない声を絞り出したと思う。
対する彼女は、真っ赤になって即座に拒絶してきた。
『嫌ですよ!』
当然の反応だ。だが、ここで引けるはずがない。
『お願い、リアンナ』
さらに恥を忍んで、名前を呼んで懇願した。
すると彼女は、これ以上ないほど顔を真っ赤にして、やけくそ気味に叫んだのだ。
『んーーーっ! セドリック! はいっおしまいです!』
自分で呼ばせておいてあれだが、完全にこちらがやられている。
顔を隠したまま、胸の奥から湧き上がる愛おしさと喜びを必死に噛み締める。ようやく名残り惜しそうに手を離した時、彼女がどんな顔をしていたか、今でも鮮明に覚えている。
あの時のことを思い出しただけで、今でも胸の奥がじわりと熱を持つ。
名前を呼ばれただけで、あれほど満たされた気分になるとは思わなかった。
我ながら単純だな
「……セドリック?」
執務机へ目を落としたまま、不意にライオネル殿下が声を掛ける。
セドリックは主の背後に控えたまま、静かに視線を向けた。
「どうかされましたか、殿下」
「いや?」
殿下は手元の書類を捲りながら、どこか楽しそうに唇の端を上げる。絶対に全て分かっていて言っている顔だった。
「さっきから随分と、機嫌が良さそうだからね」
「そのようなことは。常に平常心です」
「そうかな」
くすり、と喉の奥で笑う声。
「まあ、リアンナ嬢絡みなのは見ていて分かるけど」
ペンを走らせたまま、殿下はさらりと言う。
否定はしなかった。否定する理由も、特にない。
そんなセドリックの態度を見て、殿下はますます面白そうに目を細めた。
「ふふ。君、最初の頃はもう少し余裕があった気がするんだけどな」
「……そうでしょうか」
「うん。今は完全に“楽しくて仕方ない”って顔をしてるよ」
随分と失礼な言い方だ。
だが、間違ってもいない。
リアンナの反応は、見ていて本当に飽きない。
距離を詰めれば真っ赤になって固まって。
少し引けば慌てて追い掛けてきて。
こちらが欲しい反応を、驚くほど素真面目に、全部返してくれる。
可愛い。本当に。
「でも」
ふいに、殿下がペンを止め、意味深に笑った。
「リアンナ嬢、君が思ってるより手強いかもしれないよ?」
「手強い、ですか?」
「そうとう鈍感そうだからね、彼女」
「――それは、俺が一番よく知っているよ」
思わず溢れた本音にライオネルが小さく笑った。
本人は、こちらがどれだけ振り回され、独占欲を煽られているか、まるで気付いていない。
だからこそ厄介で。だからこそ、一秒たりとも目が離せない。
「まあ、頑張って」
完全に他人事だと思って面白がっている声だった。
セドリックは小さく息を吐き、窓の外へ視線を向けた。
流れる景色を見つめながら、ふと思う。
今頃、彼女は学園で何をしているのだろう。
大人しく授業を受けているのか。
それとも、アリシュナ様と楽しげに話しているのか。
あるいは――。
『……セドリック』
耳の奥に残るあの声を思い出して、無意識に目を細める。
(……早く明日になればいい)
そんな子供じみたことを考えてしまう辺り、確かに殿下の言う通り、俺は自覚している以上に重症なのかもしれない。




