第30話:公爵令嬢は、かつて野生の薔薇だった。 ~元OL、お転婆すぎる過去に親近感を覚える~
アリシュナ様が困ったように美しい眉を寄せる。
「そのようなことは――」
「いや、昔はもっと可愛かったよ」
遮るように、殿下が実に楽しそうに言った。
ぴたり。
わかりやすいくらい、アリシュナ様の動きが止まる。
「殿下」
「なんだい?」
「その話は必要でしょうか」
「必要だと思うな」
殿下は即答した。
――絶対にこれっぽっちも思っていない、きらっきらの王子様スマイルで。
「リアンナ嬢は知らないだろう? 妃教育が始まる前のアリシュナは、今とは随分違ったんだ」
「えっ、そうなんですか!?」
食い気味に、思わず身を乗り出す。
あの苛烈で有名な『妃教育』を完璧に修めた彼女の過去!? そんなの興味しかない!
身を乗り出した私を見て、アリシュナ様が「終わった……」と言わんばかりに諦めの溜息を吐いた。
「殿下……」
「例えば、木登りが得意だった」
「木登り!?」
未来の王太子妃様が木登り!? パワーワードすぎる!
「庭師が目を離した隙に、するすると木へ登ってね」
「やめてくださいませっ」
「降りられなくなって大騒ぎになったこともあったよ」
「ええぇっ!?」
思わずアリシュナ様を二度見する。
今、目の前にいる、凛とした隙のないアリシュナ様からは全く想像できない。
けれど。
ほんの少しだけ赤くなった綺麗な耳を見る限り……どうやら、悲しいほどに事実らしい。
「ちなみに」
そこで、今まで沈黙を守っていたセドリック様が静かに口を開いた。
「木に登ったのは一度ではございません」
「セドリック……!」
アリシュナ様が、聞いたこともないような低い声で警告するように名を呼ぶ。
しかし、セドリックはどこ吹く風。完全に涼しい顔のままだ。
「庭木、果樹、ガゼボの屋根」
「屋根っ!?」
思わず声が裏返った。
おてんばのレベルが私の想像を超えていく。
「特にガゼボの件は印象的でした」
「何があったんですか!?」
私がさらにグイッと身を乗り出すと、セドリック様は一切の躊躇なく、淡々と暴露を続けた。
「庭園を一望できるからと、屋根へ登られたのです」
「そんな理由で!? というか、どうやって登ったんですか!?」
「あのガゼボ、お洒落な格子状のラティスが施されていてね。幼いアリシュナの小さな足には、ちょうど良いハシゴになってしまったんだよ」
殿下が懐かしそうに教えてくれた。
職人がこだわったであろう美しいデザインが、まさか令嬢のアスレチックと化すなんて、誰が予想しただろうか。
「……だって、綺麗でしたのよ」
アリシュナ様が、蚊の鳴くような声で小さく反論する。
その可愛すぎる言い訳に、殿下が耐えかねたように吹き出した。
「確かに、あそこからの景色は良かったね」
「見事な眺めでしたわ」
あ、一瞬だけドヤ顔になった。
……可愛い。最高に可愛い。
「ですが」
無慈悲なセドリック様の追撃が静かに続く。
「降りられなくなっておられました」
――沈黙。
「……」
「……」
「……セドリック」
「事実でございます」
これまた即答。一切の容赦がない。
「使用人の方々が総出で探しておられましたので」
「それは……大騒ぎになりますね……」
想像して思わず引きつった笑いが漏れる。
アリシュナ様は完全に観念したように、美形な額へ手を当てて天を仰いでいた。
「あと、池にも落ちていたね」
ここで殿下からの容赦ない第二波(追撃)が着弾した。
「殿下」
「二回ほど」
「三回です」
――。
反射的に訂正したアリシュナ様が、一瞬で凍りついた。
絵に描いたような「しまった!」という顔をしている。
……ぷっ。
だめだ、耐えられない。
「ふふっ、三回だったんですか!?」
「……っ、幼い頃の話です!」
「可愛い……」
「可愛くありません!」
「いいえ、可愛いです!」
そこは譲れないので即答した。
だって可愛いのだから仕方ないじゃないか。
「……そんなに珍しいですか?」
ふいに、アリシュナ様が不思議そうに口を開いた。
「え?」
「私が木に登ったり、ガゼボの屋根に上がったり、池に落ちたりしていたことです」
「珍しいなんてレベルじゃありません、大事件です!」
息を巻いて即答した。
「だって、あのアリシュナ様ですよ!? いつ見ても完璧で、気高くて、隙なんて一ミリもない淑女の教本のようなお方ですよ!?」
「……褒め言葉として受け取っておきますけれど、なんだか凄まじいプレッシャーを感じますわね」
アリシュナ様は、私のあまりの熱量にちょっと圧倒されたように苦笑した。
「今のアリシュナ様からは、これっぽっちも想像できません!」
私が全力で力説すると、アリシュナ様は少しだけ考えるように長い睫毛を伏せた。
「そうですわね……」
そして、どこか遠い目をして、自嘲気味に小さく笑う。
「――妃教育が始まる、前のことでしたから」
「妃教育って、やっぱり厳しいんですか?」
思わず身を乗り出して尋ねると、アリシュナ様は少しだけ言葉を選ぶように視線を彷徨わせた。
「厳しい、というよりは……」
「詰め込まれる量が、常軌を逸しているんだよ」
答えあぐねる婚約者に代わって、殿下が苦笑しながら補足してくれる。
「王族としての付き合い方に始まり、一分の隙もない完璧なマナー。我が国だけでなく他国の歴史、激動の外交情勢、夜会を完璧にこなすためのダンス、さらには数カ国語の完全マスター……」
さらさらと挙げられるカリキュラムを聞いているだけで、頭が痛くなってきた。
待って、それって十代の女の子が、学生生活と並行してやる量じゃないよね!?
完全に大企業の次期CEOを育てる育成プログラムのそれである。
気の遠くなるような英才教育の羅列に、私は真顔で、きっぱりと言い放った。
「私なら三日で逃げます」
なんなら初日の午前中で、荷物をまとめて実家にダッシュで帰る自信がある。
「はははっ! 三日も持つかい?」
私のあまりの潔さに、殿下が耐えかねたように大爆笑した。
横に控えるセドリックも、心なしか肩を震わせている。
「リアンナ様なら、一日目のマナー講習の時点で窓から逃げ出しそうですわね」
アリシュナ様も、ふっと柔らかく、本当に楽しそうに微笑んだ。
その優しく気品あふれる笑顔を見て、私は(ああ、やっぱりこの人は、その地獄のような教育を乗り越えてきた本物の努力の人なんだな)と、心の底から尊敬の念を抱くのだった。




