第29話:完璧な公爵令嬢は照れると可愛い。 ~元OL、新たに推しを見つける~
カフェテリアへ足を踏み入れると、窓際の席に座るライオネル殿下がこちらに気付いた。
「やあ」
いつもの爽やかな、けれどどこか悪戯っぽい笑顔で軽く手を振る。
「ずいぶん時間が掛かったね。」
「も、申し訳ございません……!」
「ああ、セドリックも一緒だったんだね。」
慌てて頭を下げる。
すると殿下は面白そうに目を細めた。
「いや、気にしなくていいよ。今回は逃げなかったんだね。それか、逃げられなかったのかな?」
「え?」
一瞬、意味が分からなかった。きょとんとする私に、殿下は追い打ちをかける。
「ほら、お昼の時は凄い勢いだったじゃないか」
「――っ!!」
思い出した。お昼休み、私は午後の予習を理由にして、文字通り全力疾走で逃げ出したのだった。
「に、逃げてません!」
「そうかい?」
殿下は愉快そうに肩を揺らして笑う。
「僕には見事な逃走劇に見えたけどな」
「違います! あれは戦略的撤退です!」
「そうですわね」
私の隣を通り過ぎ、席に着いたアリシュナ様が優雅に頷いた。
「見事な撤退でしたわ」
「ですよね!?」
(そう! さすがアリシュナ様、分かってらっしゃる!)
希望の光が見えた気がして、私はパァァと顔を輝かせる。……が。
「ええ。――結果は伴いませんでしたけれど」
「…………」
アリシュナ様は、手元の紅茶に視線を落としたまま淡々と続けた。
結果が伴わない撤退。……それはつまり「ただの逃げ損」あるいは「結局捕まった」という意味ではないだろうか。
「アリシュナ様まで!?」
味方がいない。
一瞬でも「理解者がいた!」と喜んだ自分が馬鹿だった。
誰も私の味方をしてくれない。
助けを求めるように隣を見るが、セドリック様は穏やかに微笑んでいるだけだ。
(この人が全ての元凶なんですけど!? あなたが『痕』なんて付けるから、私はお昼にあんな必死に走る羽目になったんですよ!!)
そう、そもそも逃走劇のきっかけは彼が刻んだ簡単には消えない熱のせいなのだ。
内心で般若のような顔をして彼を睨みつけたが、当のセドリック様はどこ吹く風。
むしろ「いい運動だったね」とでも言いたげな余裕の表情だ。
「ああ、そういえば」
殿下の視線が、私の手元へと落ちた。
「そのブレスレット、綺麗だね」
「えっ?」
反射的に手首を見る。
銀の鎖と、透き通るような紫水晶。
セドリック様から贈られたばかりのそれは、ちょうど彼が付けた『痕』を隠すように、けれど主張するようにそこにあった。
「あ……はい。とても綺麗ですよね」
褒められるとつい顔が緩んでしまう。
「セドリック様が選んでくださったんです」
「へえ」
殿下は、すべてを分かっているような意味ありげな笑みを浮かべた。
「そうなんです!」
私は少し嬉しくなって、つい饒舌に続けてしまう。
私は、少し誇らしい気持ちで手首を持ち上げた。
「私の瞳の色に似ているからって、わざわざ選んでくださったんですよ。とっても綺麗だと思いませんか?」
「ええ」
アリシュナ様は、小さく頷いた。
「とても綺麗ですわ」
けれど、その視線が私の手首へと向けられた瞬間。
銀の鎖に繋がれた紫水晶を一瞥し、アリシュナ様はなぜか、深く、重い溜息を吐いた。
「ですが」
……なぜそこで、憐れむような溜息をつくのだろう。嫌な予感に背筋が震える。
「……鎖でしょうね」
「違いますよ!」
食い気味に、即座に否定した。
反射だった。ここで頷いてしまったら、この素敵な贈り物が「拘束具」という物騒な名前に書き換えられてしまう気がしたからだ。
けれど、アリシュナ様は静かに首を傾げる。
「そうでしょうか」
「そうです! これはあくまで、厚意でいただいたアクセサリーでして……っ」
「そうは見えませんわ」
きっぱり、だった。
迷いも容赦も、一ミリの疑いもない。
アリシュナ様は、まるで逃げ場を失った獲物を見つめるような慈愛の眼差しで、私を真っ向から見据えた。
「少なくとも、贈った側はそのつもりでしょう」
「なっ……」
言葉に詰まる。
反論しようと隣のセドリック様を仰ぎ見るが、そこには「何かおかしなことでも?」と言わんばかりの、どこまでも涼しく、そして底知れぬほど甘い微笑みがあった。
(……否定してくださいよセドリック様! 違うって、ただのプレゼントだって笑い飛ばしてくださいよ!)
心の中で叫ぶが、無言のままアリシュナ様の言葉を肯定していく。
「ほら」
アリシュナ様が、追い打ちをかけるように小さく呟く。
「……やっぱり、鎖ですわ」
「……違いますってばぁ……」
「そういえば」
ふと、アリシュナ様が優雅な所作で紅茶を一口含み、そのカップをソーサーに戻した。
カチャリ、と繊細な音が響く。
「はい?」
唐突に投げかけられた言葉に顔を上げると、アリシュナ様の冷徹なまでに整った瞳が私を射抜いていた。
「少し気になっていたのだけれど、リアンナ様は私を怖いと思ったことはありませんの?」
「え?」
思わず目をぱちぱちさせてしまう。
怖い?
誰を?
目の前で、背景に薔薇が咲き誇りそうなほど美しくティーカップを手にしている、この公爵令嬢を?
「……ありませんけど」
嘘偽りない本音をポロッと零すと、アリシュナ様は少し意外そうに、その長い睫毛を揺らした。
「そうですの?」
「そうですよ?」
むしろ逆だ。
そりゃあ、最初は。
「……最初は緊張しましたけど」
「それは当然ですわね。私も自覚はありますから」
ふっ、と自嘲気味に笑うアリシュナ様。
まあ、公爵令嬢だし。殿下の婚約者だし。学園のパワーバランスの頂点に君臨する有名人だ。緊張しない方がおかしい。
けれど、人の中身を(一応)三十年近く見てきた「元OL」の直感として思うのだ。
「怖いと思ったことは、一度もないです」
はっきりと言い切ると、アリシュナ様は黙ってしまった。
少しだけ、居心地が悪そうに視線を伏せる。
「……意外ですわ。私はあまり、愛想の良い性格ではありませんもの」
それは、まあ、否定はできない。
確かにアリシュナ様は誰にでも笑顔を振りまくタイプではないし、厳しい時は容赦ない。
「それって、ただ真面目なだけですよね?」
「……」
「それに」
私は、つい漏れ出そうになった笑みを堪えきれずに続けた。
「私が困ってる時、いつも助けてくださいますし」
(……まあ、さっきの『ブレスレット=鎖』事件は除外するとして。いや、あれも彼女なりに心配しての事だろうけど)
そんなことを考えていると、アリシュナ様の肩が、ピクリとわずかに震えた。
「……リアンナ様」
「はい?」
「最後に何か、余計なことを考えていらっしゃいません?」
ギクリ。
流石、洞察力の塊……!
「気のせいです」
食い気味に即答した。
すると、テーブルの向かい側からクスクスと、低く楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「なるほど」
ライオネル殿下だ。
彼は楽しそうに頬杖をつきながら、私とアリシュナ様を交互に見つめている。
「アリシュナが君を気に入るわけだ。納得したよ」
「……殿下、茶化さないでください」
「事実だろう?」
アリシュナ様はそれ以上何も答えず、逃げるように紅茶へと視線を落とした。
けれど。
結い上げた髪の隙間から見えるその耳が、ほんの少しだけ、林檎のように赤くなっているのを私は見逃さなかった。
「え、アリシュナ様、可愛すぎませんか?」
アリシュナ様の可愛さに、すっかり夢中になっていた。




