第3話:現場復帰への第一歩。〜お父様は意外と話がわかる上司かもしれない〜
異世界に転生してから数日が過ぎた。
部屋に引きこもっているわけにもいかず、体調が落ち着いてきた私は、少しずつ屋敷の中を探索し始めている。
長い廊下を歩く。
磨き上げられた床に、等間隔で飾られた豪華な調度品。
まだ見慣れない景色ばかりだけれど、数日間の「休職期間」を経て、私の精神状態は不思議と落ち着いていた。
(……うん。環境への適応力だけは、社畜時代に鍛えられてるわね)
窓から差し込む光を眺めながら歩いていると、前から使用人らしき男性がやってきた。
「リアナ様、失礼いたします」
すれ違いざま、彼は立ち止まって深く頭を下げた。
一瞬、どう返すべきか脳内メモリを検索する。貴族の令嬢として、使用人への適切なレスポンスとは——。
「……こんにちは。お疲れ様」
少し迷いながらも、OL時代の癖でつい「お疲れ様」まで付けて返してしまった。
すると相手は意外そうに目を丸くし、それからふわりと柔らかく微笑んで去っていった。
(……今の、不自然だったかしら。でも無視するのも感じ悪いし……。こういう細かいマナーも、ちゃんと OJT(実地訓練)していかないとダメね)
自分の立ち居振る舞いに不安を感じながら歩き続ける。
そんな時だった。
「リアナ」
低い、けれど通る声が響き、私の足が止まった。
振り向くと、少し離れた場所にアルヴィル伯爵——私のお父様が立っていた。
「……お父様」
その姿を見た瞬間、背筋がスッと伸びた。
記憶がないとはいえ、この人がこの屋敷の「トップ」であるという威圧感は、前世の社長を彷彿とさせる。緊張で少し肩が強張る。
お父様は静かに頷き、私の方へとゆっくり歩み寄ってきた。
「歩けるようになったようだな」
「……はい。おかげさまで、だいぶ体が軽くなりました」
「そうか。……体調は問題ないか」
「……大丈夫です。ご心配をおかけしました」
必要最低限の、短い言葉のやり取り。
もっと厳しい言葉をかけられるかと身構えていたけれど、そこにはピリピリとした空気はなかった。
「……そうか」
お父様はそれだけ言うと、ほんの少しだけ視線を和らげた。
その微かな表情の変化に、私はハッとする。
(あ……。この人、ちゃんと私のこと見てくれてるんだ)
冷徹な権力者というよりは、不器用ながらも娘を案じている父親の顔。
そう気づくと、冷え切っていた指先に少しだけ温かさが戻った気がした。
「……無理はするな」
「……はい」
お父様はそれだけ言い残し、翻って静かに立ち去っていった。
廊下に一人残り、私は小さく息を吐く。
(まだ分からないことばかり。リアナ・アルヴィルが今までどんな風に生きてきたのかも知らない。……でも)
いつまでも「記憶喪失だから」と甘えているわけにはいかない。
この屋敷、この家族、そしてこれから始まるであろう学園生活。
全部、ちゃんと向き合わなきゃ。
(……このままじゃいけない。まずは現状把握と、最低限の業務遂行(令嬢としての振る舞い)ができるようにならなきゃね)
窓に映る栗色の髪の少女を見つめ、私はゆっくりと前を向いた。
「ちゃんと覚えていこう」
そう心の中で決意を固め、私はもう一度、確かな足取りで歩き出した。
……その直後、気合を入れすぎて床のちょっとした段差に躓き、壁に思い切り肩をぶつけたのは、私だけの秘密だ。




