第2話:現実逃避、失敗。〜目覚めたらやっぱり伯爵令嬢でした〜
柔らかな陽光が、まどろみの中へと溶け込んでくる。
意識が浮上するのと同時に、頭のどこかで「アラームを止めなきゃ」と手が動こうとしたけれど——。
(……あ、そうだった)
手に触れたのは、安物のスマートフォンではなく、しっとりとした最高級のシルクシーツ。
ゆっくりと瞼を開ける。視界に飛び込んできたのは、昨日見たのと同じ、無駄に高くて豪華な天井だ。
……夢じゃなかった。
私はどうやら本当に、妹の熱弁していた小説の世界……それも、名前すら聞いたことのないモブ令嬢「リアンナ」になってしまったらしい。
(昨日あれだけ大騒ぎしたんだから、さすがに現状は受け入れなきゃね)
深呼吸をして、まずはゆっくりと体を起こしてみる。
昨夜はベッドから転げ落ちるという失態を演じたけれど、今のところ体調は悪くない。むしろ、連日の残業で鉛のように重かったOL時代に比べれば、驚くほど体が軽い。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「リアンナお嬢様、失礼いたします」
昨日、私を「お嬢様」と呼んで泣き崩れたメイドの女性が、ワゴンを引いて静かに入ってきた。
彼女は私の顔を見るなり、安堵したように口元を緩める。
「お目覚めになられましたか。お加減はいかがでしょうか」
「……ええ。大丈夫、だと思います。ありがとう」
返した自分の声が、あまりに鈴の音のように可憐で、自分で自分に鳥肌が立ちそうになる。
「……あの、一つ聞いてもいいかしら?」
「はい、何なりと」
「私……リアンナ・アルヴィルとは、一体どんな人物なのでしょうか」
昨日の混乱で「記憶がない」という設定はすでに伝わっている。
メイドさんは丁寧に頭を下げて、静かに語り始めた。
「リアンナ様は、アルヴィル伯爵家のご令嬢でいらっしゃいます。このお屋敷も、広大な領地も、すべてリアンナ様のご実家でございますわ」
「……伯爵家……」
(……出たわ。いきなりの貴族設定。しかも伯爵家って、中堅どころじゃない。実家の会社を経営するのとは訳が違うわよね)
OL時代の知識を必死に手繰り寄せるが、貴族の義務や礼儀作法なんてデータは、私の脳内メモリには存在しない。
「ご記憶が戻るまでは、旦那様も奥様も『無理をせず、ゆっくり過ごすように』と仰っております。どうか、ご安心くださいませ」
「……ありがとう。助かるわ」
少しだけ肩の力が抜ける。とりあえず、いきなり「社交界で踊ってこい」と言われるわけではないらしい。
部屋を見渡せば、広くて整っていて、どこか他人のものみたい。
私はメイドさんが準備をしている間に、大きな姿見の前に立った。
……知らない顔。
そこに映っていたのは、やわらかく光を含んだ、淡い栗色の髪を持つ少女。
肩のあたりでふわりと揺れる毛先は、丁寧に整えられている。
そして、少しだけ近寄りがたい気品を湛えた、透き通るような紫の瞳。
「……こんな顔、してたんだ」
実感はまだない。けれど、どこからどう見ても、「お嬢様」だ。
(……綺麗。っていうか、髪の手入れだけでも維持費が凄そう)
このハイスペックな「自分」という外見を、中身である社畜OLの私が維持しきれるだろうか。
一抹の不安はあるけれど。
(少しずつ、やっていくしかないわね)
そう思って鏡から一歩踏み出した瞬間。
案の定、ドレスの裾に足が引っかかった。
「おっと……っ」
「ああっ、お嬢様! 今すぐお支えいたします!」
「少しずつ」の前に、まずは「自分の足元」を確認するところから始める必要がありそうだ。




