第1話:社畜の私は、妹の推し語りを聞きながら力尽きたらしい。
視界の端で、エクセルの数字がチカチカと踊っている。
深夜のオフィスに響くのは、カタカタという無機質な打鍵音と、加湿器の微かな動作音だけ。
「……よし、これで今日の分は全部終わり」
最後に保存ボタンを押し、私は大きく伸びをした。バキバキと音を立てる肩に、蓄積された疲労がずっしりと重い。
二十代半ば、中堅OL。効率よく仕事を捌くことには自信があるけれど、さすがに連日の残業で、思考回路はもうショート寸前だ。
「お疲れさまでした……」
誰もいないフロアに小さく挨拶をして、夜の街へ。
駅前のスーパーはすでに閉店し、コンビニの明るすぎる照明が目に刺さる。「一日分の野菜が摂れる」という気休めのような幕の内弁当と、なんとなく今の気分にぴったりなストロング系のレモンサワー。これが今日の、唯一の自分へのご褒美だ。
重い足を引きずり、駅から徒歩十分の賃貸マンションのドアを開ける。
「ただいま……」
「あ、お姉ちゃんお帰り! 遅かったね! ねえねえ、それより聞いてよ!!」
玄関を開けるなり、パジャマ姿でソファに転がっていた妹が跳ね起きてスマホを突き出してきた。
鞄を放り出し、窮屈なパンプスを脱ぎ捨てて床にへたり込む私を構わず、妹のノンストップな「推し語り」が炸裂する。
「今読んでるこの小説、マジで神だから! 正ヒロインのソフィアちゃんがもう信じられないくらいのド天然でさ。お花が大好きで、誰にでも優しくて……ああもう、見てるだけで浄化される! 天使!!」
「へー……。でも、それだけ天然だと、職場で重要な書類とか失くしそうで怖いわね」
「お姉ちゃん、すぐ仕事に繋げないで! でもね、悪役令嬢のエリシア様も負けてないの! 完璧主義でめちゃくちゃ厳しいんだけど、実は将来の王太子妃として周りを思ってあえて厳しいことを言ってる世話焼きさんなんだよ! その不器用な優しさ、尊すぎない!?」
「……なるほど。合理的な指導を『キツイ』と誤解されるタイプか 。ちょっと親近感湧くわね」
妹の熱弁は止まらない。私は着替える気力も残っていない体で、妹がずっと喋り続けている騒がしいリビングの片隅で弁当の蓋を開けた。
プシュッ、とサワーを開ける音さえかき消されるほど、妹の声が響き渡る。
「あとね、王子様たちもヤバイの! 王子のレオンハルト様は超絶美形なんだけど、実は腹黒で計算高いっていうギャップが堪んないし! その幼馴染の専属騎士クラウス様は、仕事中はクールなのに、ヒロインの前でだけ不器用になるのが最高で! あと騎士家系の純情男子セドリック君が——」
「ちょっと聞いてる!?」と身を乗り出す妹の声をBGMに、私は冷えた唐揚げを口に運ぶ。
お風呂に入らなきゃ。明日のプレゼン資料、念のため再チェックしなきゃ。
やるべきことが頭の中で渦巻くけれど、あまりの騒がしさと疲れに、逆に意識がふわりと遠のいていく……。
(だめだ……。今の私に必要なのは、考えるまでもなく……睡眠だ……)
一口飲んだサワーの酔いと、妹のハイテンションなマシンガントークが、もはや遠い国の子守唄のように聞こえ始めた。
私の意識は、そこでぷつりとシャットダウンした。
◇◇◇
「…………ん」
眩しい。
カーテンの隙間から差し込む光が、瞼を刺す。
あと五分寝かせてほしいと寝返りを打とうとしたが、どういうわけか、体がすごく重い。
(……変ね。床で寝ちゃったのかしら。……それにしては、シーツの肌触りが良すぎるような……。あと、あんなに喋ってた妹の声が全然聞こえない……)
しぶしぶ目を開けると、そこには見たこともない光景が広がっていた。
高すぎる天井。精巧な装飾が施されたシャンデリア。
壁に掛けられた立派な絵画。
そして、鼻をくすぐる上品なアロマの香り。
(……知らない天井ね。私の汚部屋、いつの間にリフォームされたのかしら。……って、そんなわけないでしょ! ここどこ!?)
「……お嬢様?」
隣からかかった震えるような声に、心臓が跳ね上がる。
振り向くと、そこには「メイド服」を纏った女性が、今にも泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「リアナお嬢様……。本当にお目覚めに、なったのですか……?」
「……えっと、どちら様……でしょうか?」
絞り出した声は、鈴を転がすような、透き通った美声だった。
混乱する私を置いて、メイドさんは目を見開くと、部屋の外へ向かって絶叫した。
「リアナ様が目を覚まされました! 旦那様、奥様! 」
バタバタと騒がしい足音が廊下から近づいてくる。
私は落ち着こうと努めながら、近くにあった装飾の美しい手鏡を震える手で取った。
そこに映っていたのは。
ウェーブがかった柔らかな栗色の髪に、吸い込まれそうなほど澄んだ紫の瞳を持つ少女。
少し困ったように眉を下げているその姿は、おっとりとした気品に溢れている。
(……嘘でしょ。これ、もしかして……異世界転生? それも、妹が言っていた小説の……?)
主要メンバーの名前は全て覚えている。
天使のソフィア、世話焼きのエリシア、腹黒王子のレオンハルト、一途な騎士クラウス、純情脳筋セドリック。
(……でも、リアナ? 誰よそれ。妹の話の中に、そんな名前一回も出てこなかったんだけど!)
そう、私はメインキャラでも悪役でもない。
妹の熱弁の中にすら登場しなかった、名もなき「モブ令嬢」に転生してしまったらしい。
「……大丈夫。落ち着いて、リアナ。きっと、やれるわ」
自分に言い聞かせるように、鏡の中の自分に語りかけてみる。
まずは現状を把握して、生存戦略を立てなきゃ。
そう思ってベッドから立ち上がろうとした、その瞬間。
長く豪華なシーツに、自分の足が見事に絡まった。
「あ——」
「お、お嬢様ーーーーっ!!!」
豪華な絨毯に豪快に転げ落ちる寸前、私は確信した。
私の新しい人生は、前途多難。
そして、どうやらこのリアナという体は、脳の命令と体の動きが致命的に噛み合わない時があるっぽい。




