第27話:図書室への遠い道。 ~元OL、目的地目前で騎士様の『自分仕様の環境構築』という名の強制連行に遭いました~
終業の鐘が鳴り響くと同時に、私は手早く荷物を鞄に詰め込んだ。
目標は最短ルートでの校門突破。いわゆる「定時退社」である。
(よし、セドリック様はまだ殿下の後ろで動けないはず。今この瞬間にここを離れれば、今日のエンカウント率はゼロよ!)
心の中でガッツポーズを決め、いそいそと鞄を肩にかけたその時。
「リアンナ様。これから少し、お時間よろしいかしら?」
凛とした、けれど柔らかな声が届く。振り返れば、そこには完璧な美しさを湛えたアリシュナ様が、優雅に微笑んで立っていらした。
「アリシュナ様! ごきげんよう。ええと、どうかされましたか?」
「ええ。これから生徒会の会議があるのだけれど、その後に殿下からお茶に誘っていただいたの。リアンナ様も、ぜひご一緒にいかがかしら?」
「えっ……。そ、それは、光栄なお話ですけれど……」
私は一瞬で、殿下の背後に不動の姿勢で控える「あの男」の笑顔を思い浮かべた。
喜びよりも先に、全身の毛穴がキュッと閉まるような危機感が走る。私は露骨に視線を泳がせ、出口の方へとジリジリ後ずさりした。
「あ、ア、アリシュナ様! お誘いはとっても嬉しいのですが、私はこれから急いで……その、帰らなくてはならなくて……」
「あら、そんなに急いでどちらへ? ……もしかして、セドリックが気になりますの?」
図星を突かれてしどろもどろになる私に、アリシュナ様は「やっぱり」と言いたげに、クスクスと上品に笑って続けた。
「大丈夫よ、リアンナ様。これからちょうど、護衛の交替の時間ですの。セドリックは別の騎士と役目を代わって、この後は非番になられるそうですわ。だから、お茶の席にはいらっしゃらないはずよ」
「……えっ。非番、ですか?」
「ええ。お役目から解放されて、これからお休みに入られるんじゃないかしら? だから気兼ねする必要はありませんわ。せっかくですから、ゆっくりお話ししましょう?」
(……! な、なんて素晴らしいホワイト企業! あのセドリック様が『お休み』に入ってどこかへ消えてくれるなら、そこは完全なる安全地帯じゃない!)
「ありがとうございます、アリシュナ様! それならぜひ、喜んでお供させていただきますわ!」
「よかった。では、会議が終わるまで少し待っていてくださる? 終わったらすぐにサロンへ向かいましょうか」
「はい! ありがとうございます。では、それまで私は図書室で読書して待っていますわ。あそこなら静かですし、会議が終わるのを待つのにぴったりですから」
私は満面の笑みでそう答えた。
図書室。そこは静寂に守られた学びの聖域。そして何より、今の私にとっては「セドリック様がいないはずの、最高に落ち着ける避難所」だ。
「ええ、それがよろしいわ。では、後ほどお迎えに上がりますわね」
アリシュナ様は優雅に手を振って、生徒会会議が行われる特別棟の方へと去っていった。
一人残された私は、その背中が見えなくなるのを待ってから、盛大にガッツポーズを決める。
(よっしゃあぁぁ!! 勝った! 私の完全勝利よ!!)
非番。つまり彼はもう「仕事」として殿下の側にいる必要はない。そしてアリシュナ様という「確実な合流地点」も確保した。
(会議が終わるまでのこの一時間、図書室の隅っこで好きな本でも読んでいれば、今日という嵐のような一日は終わるのよ。……ふふ、お茶会までの優雅な自由時間を楽しませてもらうわ!)
私は軽快な足取りで、中庭を抜け、重厚な図書室の扉へと向かった。
(よし、これで一時間は安泰ね。静かな図書室で、誰にも邪魔されず、心ゆくまでモブの平穏を享受してやるんだから……!)
勝利を確信し、期待に胸を膨らませて図書室の重い扉に手をかけた。が、私が扉を押し開けるより早く、横から伸びてきた白手袋の手に、そっと扉を押さえられた。
「あ、れ……?」
開かない扉。目の前に突き出された、見覚えのある綺麗な指先。
動きを止められた私は、ギギギ……と錆びついた人形のような動作で横を向く。
そこには、非番のはずである―……
「……セ、セドリック様? お休み中のはずでは……?」
ふわり、と彼の纏う清潔な香水の匂いが鼻をくすぐる。
「そうだな、交代して自由になったからリアンナ嬢を迎えにきたんだ」
セドリック様は、まるで恋人をエスコートする時のような甘い微笑みを浮かべている。
(自由……そうか、自由ってことは、『仕事だから殿下の後ろにいなきゃいけない』っていう唯一の縛りが消えたってことじゃないのよ!!)
確かに彼は交代した。交代した結果、フットワークが軽くなったのだ。
次は、どんな悪戯をされるのか分かったものではない。ここで「はい、そうですか」と飲み込まれる訳にはいかない私は、図書室の扉の前で踏ん張り、勇気を振り絞って「一応の抵抗」を試みた。
「……あ、あの! セドリック様、お言葉ですが! 非番というのは、心身を休めるための大切な時間です。私のような者に構って貴重な休息を浪費するのは、騎士の戦力維持の観点からも問題があるのではないでしょうか!?」
「ほう、戦力維持……面白い視点だな」
「そうです! それに、私はこれから図書室で予習を……学業こそが学生の本分ですから。どうか、私の勉学に励む権利を尊重して、ご自身の休憩に戻っていただきたく……っ!」
よし、言った。我ながら完璧な正論だ。これなら公明正大な騎士様も、引き下がらざるを得ないはず。
しかし、セドリック様は動じない。むしろ、その涼やかな目元を細め、さらに一歩、私のパーソナルスペースへと踏み込んできた。
「勉学……それなら、場所を変えよう。図書室は人が多くて、あなたの『予習』の邪魔になりそうだ」
「え? いや、多いほうがいいんです! あの、静かですし……!」
「大丈夫。誰にも邪魔されない、もっと相応しい場所、俺が知ってるから。分からないところがあれば、俺でも教えれる事もあるかもしれないしね」
「っ……! いえ、結構です! 独学が趣味ですので! あと、近いです!」
必死に両手を突き出して物理的な距離を保とうとするけれど、彼は私の抵抗などさらっと受け流し、私の背中にそっと手を添えた。
「さあ、行こうか。…………リアンナ嬢?」
(……嫌よ。絶対に行かない。この扉をくぐれなければ、そこはもう弱肉強食、肉食獣のテリトリーじゃないのよ!)
私は、扉のノブを握りしめたまま、足に根が生えたかのようにその場に踏ん張った。扉の向こう側に行けさえすれば、そこは「静粛に」のルールに守られた聖域。あと数センチ、その数センチが遠い。
無言で、しかし全力の拒絶を込めてセドリック様を見上げた。……けれど、彼はそんな私の子供じみた抵抗を、どこ吹く風と受け流していた。
「……困ったな。殿下方との合流(お茶会)までに、少しでも長く貴女と過ごしたいと思っただけなんだが……」
セドリック様は、ふっと困ったように眉を下げた。……と思ったのは一瞬のことで、彼が痺れを切らしたのは、わずか数秒後のことだった。
「お望みなら、抱き上げて(お姫様抱っこで)連れて行っても構いないが?」
「なっ……!?」
「――というのは冗談だ」
私が反論しようと口を開きかけた瞬間、セドリックはふっと視線を落とし、寂しげに目を伏せた。
「……どうやら、すっかり嫌われてしまったみたいだな、俺は。……ただ、こうして君と少しでも仲良くなれたら、と思っていただけなんだけど」
(え、……あ、いや。そんな、嫌いとかそこまでは……)
元OLの悲しい性だろうか。美形にそんな「捨てられた子犬」のような顔でシュンとされてしまうと、途端に罪悪感が胸を刺し始める。私は焦って、思わず扉のノブを握っていた手を緩めてしまった。
「あ、いや、嫌いとかそういうんじゃなくて! あの、えっと……別に嫌なわけではないんです。ただ、その、驚いただけというか、あまりに急だったので……!」
しどろもどろになりながら、私はつい、本音を漏らしてしまった。
「……あんな風に、痕を付けられたのが初めてで。どうしたらいいか戸惑ってしまっただけで、決してセドリック様が嫌いなわけでは……」
言い終える前に、セドリックの肩が微かに揺れた。
顔を上げた彼の瞳には、先ほどまでの儚さなんて微塵もない。そこにあるのは、私が無自覚にこぼした本音をじっくりと咀嚼するような、隠しきれない愉悦だった。
「……へぇ。痕を付けられたのが、初めて?」
低く、どこか楽しげに弾んだ声。
セドリックは、思ってもみなかった収穫を得たと言わんばかりに、ニヤリと意地悪な笑みを浮かべた。
「驚いて戸惑ってただけで、嫌いなわけじゃない……。なるほど、つまり君は今日、ずっと俺が残した痕を気にして、俺のことばかり考えてくれていたわけだ」
(あ……しまった。これ、一番言っちゃいけないやつだったわ!)
自分の失言に気づいて顔がカッと熱くなるけれど、もう遅い。
彼は「自分への意識でいっぱいだったリアンナ」という事実がよほど嬉しいのか、その口元のニヤニヤは深まるばかりだ。
「……ふふ、嬉しいな。そこまで俺のことで頭をいっぱいにしてくれていたなんて。……そんなに純粋な本音を漏らされたら、もう放してあげられるわけないだろう?」
彼は一歩詰め寄ると、逃げ場を塞ぐように私の耳元で低く囁いた。
「その戸惑い、早く慣らしてもらわないといけないからな」
「え、あ、今の、忘れてください! 忘れてっ……!」
「……さあ、行こうか。一時間あれば、少しは慣れてくれるだろ?」
隙だらけになった私の右手を、大きな掌が逃さず包み込んだ。
指の間を割って、深く、絡めるように。
「あ、セドリック様!? 手が…ちょっ……ちかっ…あのっ……っっ手!手!」
「嫌いじゃないんだろ? なら、もう少し寄っても問題ないかな。……大丈夫少しずつ慣らしていこうな」
「論理の飛躍がすごすぎますー!!」
叫びも虚しく、私はセドリック様に引きずられるようにして歩き出した。
繋がれた手から伝わる圧倒的な力強さと、勝利を確信した肉食獣のような、上機嫌なセドリックの横顔。
(……やっぱり、この人の方が一枚も二枚も上手だったぁぁぁ!!)
図書室の喧騒から離れ、私たちは白亜のガゼボへと辿り着いた。
セドリック様は繋いでいた手を離すと、私の先を行ってエスコートするようにガゼボのベンチを促した。
「さあ、座って。……そんなに隅に固まらなくても、取って食いやしないよ」
(その余裕の笑みが一番怪しいんですけどぉぉ!!)
私は心の中で叫びながらも、彼から一番遠いベンチの端に腰を下ろした。
けれどセドリック様は、そんな私の抵抗など最初から織り込み済みだったらしい。彼は私の隣……ではなく、あえて少しだけ距離を置いた正面に腰を下ろし、肘をテーブルについて私をじっと見つめた。
「……あの、セドリック様? 勉強を……」
「ああ、分かっているよ。でも、その前に謝らなくてはな。驚かせて悪かった。……でも、あの日を、君の中でただの一日になんて、して欲しくなかったんだ」
彼はスッと手を伸ばすと、机の上に置いていた私の右手に、自分の指先を重ねた。
それは、壊れ物を扱うような優しさで、大事にされているような気分にさせてくる。
「楽しかった思い出だけじゃ、いつか薄れて忘れてしまうかもしれない。……だから、君が手を見るたびに、あるいはふとした瞬間に、俺を思い出さずにはいられないような痕を残したかった。……酷い男だろう?」
彼が指先でなぞったのは、ほんのりと残っている赤い痕。彼に触れられた瞬間、そこがドクドクと脈打ち始めるのが分かった。
「……嫌だったかな?」
少しだけ首を傾けて、こちらの顔色を伺うような、静かな問いかけ。
先ほどの強引な連行の時とは違う、剥き出しの独占欲を秘めた彼の眼差しに、私は言葉を詰まらせた。
嫌なわけではない。ただ、あまりに真っ直ぐに向けられる熱量が怖くて、それでいて心地よくて、どう答えていいか分からなかった。
「……嫌、では、ないです。ただ……」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「……セドリック様が、そんな理由で。……そんな風に思って、痕を付けたなんて思わなくて」
すると、セドリックはふっと表情を和らげ、絡めた指をさらに深く、隙間を埋めるように滑り込ませた。
「君を困らせるつもりはなかったんだ。」
彼は繋いでいた手を机の上に置いたまま、もう片方の手をそっと添えて、私の右手を両手で包み込んだ。
ただそれだけなのに、逃げ場を完全に塞がれたような、圧倒的な独占欲が指先から伝わってくる。
(……ああ、なんだろう。これ)
まるで、代わりのきかない宝物でも扱うような。そんな風に、真っ直ぐに、大切にされている。
彼が少し身を乗り出すと、繋がれた手越しに、彼の静かな鼓動までもが響いてくるようだった。
「これからも、君とは仲良くしたいと思ってるんだ。だから、もう少しだけこうしていてもいいかな?」
その声は、拒絶をためらわせるほど穏やかで、どこまでも過保護な響きを帯びていた。
(……卑怯だわ。こんなに大切そうにされては……頷くしかないじゃない……っ)
私は、彼の指先が私の手の甲の痕を、慈しむように親指でゆっくりとなぞるのを感じていた。
「……いいですよ。その、予習もあるので、後少しだけなら」
俯きながら、精一杯の抵抗を込めてそう答える。
すると、セドリックは満足そうに口角を上げた。涼やかな目元には、望み通りの答えを引き当てた悦びと、心の底から充足したような甘い熱が浮かんでいる。
「ああ、分かっているよ。」
彼はそう言って、慈しむような穏やかな眼差しで、静かに私を見つめた。




