第26話:猛ダッシュと、不本意な動悸。 〜ドキドキの理由は恋ではなく、ただの激しい有酸素運動です〜
午前中の講義が終わり、一息ついたところで声をかけてきたのは、アリシュナ様だった。
「リアンナ様、よろしければご一緒にいかが? 新しく用意されたランチメニューがとても美味しいと評判ですのよ」
本来、私のような者がアリシュナ様とお食事なんて恐れ多い。けれど、アリシュナ様に誘われたのが嬉しくて舞い上がってしまった私は二つ返事でテラス席へと向かった。
陽光が降り注ぐテラス席。目の前には、彩り鮮やかなエディブルフラワーが散らされたサラダと、香ばしく焼かれたバゲットが並んでいる。
アリシュナ様とのランチは、本来なら元OLの私にとって最高に贅沢な癒やしの時間……のはずだった。
「……それで、アリシュナ様。このブレスレット、セドリック様が『似合いそうだから』って、贈ってくださったんです。」
私は、自分の手の甲に残された「痕」を隠すために、必死にブレスレットの美しさを強調してみせた。銀の鎖が揺れるたびに、私の瞳と同じ色の紫水晶がキラキラと光る。
だが、アリシュナ様はフォークを置き、私の手首を検分するようにじっと見つめると、ふぅ……と深く、重たい溜息をついた。
「あの方は、最初からそのつもりでいらしたのね。本当に、性格が悪くていらっしゃる」
「え……? 性格が、悪い……?」
アリシュナ様は憐れむような、それでいて「もう手遅れね」と言わんばかりの冷ややかな視線を私に向け、扇子の先で私の手首をツンと突いた。
「リアンナ様、よくお聞きになって。ブレスレットを贈るというのは、古くから手枷の象徴。つまり、あなたは私のもの、どこへも行かせない。という束縛と独占の意思表示ですわよ。……『似合いそうだ』なんて甘い言葉で、あなたを繋ぎ止める鎖を自ら巻いたのね。あの方、本当に……呆れた執着ですわ」
「……えっ、手枷? アリシュナ様、流石に深読みしすぎですよぉ! だってセドリック様ですよ? とってもスマート紳士なお兄さんのはずですよ?
そんな執念深い、ドラマみたいな意図があるわけないじゃないですかぁ。あれは単なる『お疲れ様ギフト』とか、そういう福利厚生の一環ですよ、ハハハ……!!」
「やあ、楽しそうな話を……おや、リアンナ嬢、そんなに急いでどこへ行くんだい?」
聞き覚えのある涼やかな声。見れば、ライオネル殿下がいつの間にかすぐ側に立っていた。そしてその一歩後ろには、いつものように傍で控えるセドリック様。
(……ヒィッ!? 本人が来た!! 朝イチ近寄らないって決めたんです!お願いだから引き止めないで!)
「あ、あ、殿下! ごきげんよう! すみません、午後の予習を思い出したので、私はこれで失礼しますわーーーっ!!」
「えっ、リアンナ様!? まだサラダが……」
私は、もはや「手枷」にしか見えなくなった右手を必死に押さえながら、脱兎のごとくその場を走り去った。
残されたテラスでは、嵐が去った後のような静寂の中、ライオネル殿下がアリシュナ様の隣に座った。
「……随分と嫌われたものだね、セドリック」
殿下が面白そうに肩をすくめると、背後に控えるセドリックは、遠ざかるリアンナの背中を、極上の娯楽を眺めるような愉悦に満ちた瞳で見送った。
彼にとって彼女の必死な逃走劇は、嫌われる恐怖どころか、愛しくてたまらない「戯れ」に過ぎないのだ。
「嫌われるのも、一つの深い関心ですから。」
「ふふ、君のそういう図太いところ、僕は嫌いじゃないよ」
殿下は事もなげに言い放つセドリックを見て、クスクスと喉を鳴らす。
一方で、アリシュナ様はセドリックに冷ややかな視線を向けた。
「それにしても、プレゼントの意味を隠れ蓑にして、あの方を物理的に繋ぎ止めてしまわれるなんて。本当に、呆れた執着ですわ」
もはや隠そうともしない嫌悪感を込めて溜息をつく。すると殿下が、クスクスと喉を鳴らして笑いながら言葉を継いだ。
「アリシュナ、呆れるのはまだ早いよ。リアンナ嬢、彼女は騙されすぎだ。セドリックが来る者誰にでも愛想良く優しいのは、単に興味のない相手にリソースを割くのが面倒なだけで、波風立てないようにしてるだけなんだけどな」
殿下はそこで一度言葉を切り、背後のセドリックをチラリと見上げた。その視線には、長年の付き合いゆえの「理解」と、ある種の諦めが混ざっている。
「……昔、僕の邪魔をした輩を彼が処理した時、そいつを再起不能なまで徹底的に、静かに追い詰めていく様を隣で見ていてね。あの時の冷徹な瞳と、今、彼女を見ている時の『獲物を品定めするような瞳』。……質は違えど、根底にある『絶対に逃がさない』というドロリとした執着は、全く同じものだよ」
殿下の暴露を受けても、セドリックは何も言い返さなかった。
ただ、遠ざかるリアンナの背中を見つめるその瞳に、酷く穏やかで、それでいて熱を孕んだ光を浮かべただけだ。
「……否定はしないのかい、セドリック」
殿下が面白そうに問いかけると、セドリックはただ、いつもの完璧な微笑を深くした。
「――滅相もございません。私はただ、彼女に相応しい場所を用意したいだけですから」
その言葉はひどく短く、淡々としていた。
だが、彼が恭しく一礼した際、袖口から覗いた「対の銀の鎖」が、饒舌な言葉よりも雄弁に彼の本性を物語っていた。
「はぁ……。相応しい場所、ね。それが鳥籠でないことを祈るよ」
ライオネル殿下は、重すぎる忠臣の独白に、いかにも「やれやれ」といった様子で額を押さえた。
殿下は手元のティーカップを置くと、まだ唖然としたままリアンナが消えた方向を見つめているアリシュナ様へと視線を向けた。
「アリシュナ、放課後の生徒会会議が終わった後、一緒にお茶でもどうだい? 彼女も、あの様子では午後の講義中も落ち着かないだろう。ゆっくり話を聞いてやる場が必要じゃないかな」
「……そうですわね。あの方、あんなに顔を真っ赤にして……。殿下、お誘いありがとうございます。ぜひご一緒させてくださいまし」
アリシュナ様は、午後の教室で顔を合わせるであろう友人の動揺を思いやり、放課後に「女子会(+殿下)」でフォローを入れることを決めた。
◇◇◇
テラスから猛ダッシュで離脱した私は、学園の回廊を駆け抜け、図書室の重厚な扉に飛び込んだ。
一番奥の、誰の目にもつかない端っこの席に滑り込み、ようやく「ふぅー……」と大きな溜息を吐き出す。
「な、なによもう……! アリシュナ様ったら、あんな怖い顔して脅かさないでよ。」
荒い息を整えながら、私は右手に輝く紫水晶のブレスレットを見つめた。
――ドクンドクン、と心臓がまだ騒がしい。
(……ん? ちょっと待って、何この動悸。まさか私、セドリック様にドキドキしてたりする……!?)
一瞬、トレンディドラマみたいな展開が頭をよぎったけれど、私は即座に鼻で笑ってそれを却下した。
(いやいや、落ち着け私。よく考えなさい。さっき、私はテラスからここまでどれだけの距離を全速力で走ってきた? 階段だって猛スピードで駆け上がったわよね。元OLの運動不足な体で、あんなオリンピック選手並みのダッシュをしたのよ? 心臓がバクバク言うのは、どう考えても『激しい有酸素運動の余波』でしょ!!)
そう。これはときめきなんかじゃない。ただの「急な激動による心肺機能の悲鳴」だ。
(そうよ、当然じゃない。ドキドキしてるのは走ったから。顔が熱いのは血圧が急上昇したから。……よし、納得! 完全に医学的な根拠に基づいた生理現象だわ、これ!)
納得した。私は完璧に自分を説得した。
今の鼓動は、彼への好意なんかじゃ断じてない。
「……ふぅ。危うく変な勘違いをするところだったわ。あー怖かった。」
私は能天気にそう呟くと、ようやく落ち着きを取り戻して教本を広げた。
「……さてと、ここでおとなしく予習してれば、放課後には何事もなかったかのように平和な有給消化(モブ生活)に戻れるはず……!」
荒い息を整えながら、私は右手に輝く紫水晶のブレスレットを見つめた。
そう自分に言い聞かせ、私は鼻歌混じりにペンを走らせ始めた。
――そして、長いようであっという間だった午後の講義が、終わりの鐘とともに幕を閉じた。
結局、授業中に背後から視線を感じることも、ましてや声をかけられることも一度もなかった。私は一度も後ろを振り返ることなく、完璧に「平静なモブ令嬢」を演じきったのだ。
(ほらね! やっぱり自意識過剰だったんだわ。あの人も仕事中は公私の区別がつくタイプなのね、あー良かった!)
解放感に包まれた私は、いそいそと机の上を片付ける。周りの生徒たちが放課後の予定を楽しそうに話す中、私もまた、誰にも邪魔されない「自由な時間」を確信していた。
「……ふふ。これで放課後の自由時間は、私のものね!」
勝利を確信した私の小さな呟きは、ガヤガヤとした放課後の教室の喧騒に紛れて消えていった。
――けれど。
授業中に気配さえ見せなかったその「徹底した放置」こそが、彼女を油断させ、確実に捕獲するためのセドリックによる計算であることには。
能天気を極めた今の私は、これっぽっちも気づいていなかった。




