第25話:ガーゼの下の機密事項。 ~元OL、騎士の巧妙なマーキングにより、再就職(婚活)市場から強制退場~
「よし、順調に毒が抜けてきているわね」
月曜日の朝。私は鏡の前で、右手の甲をまじまじと観察した。
一昨日の夜はあんなに禍々しい赤色だった「虫刺され」は、休日中の徹底した軟膏攻撃により、今はほんのりとした赤色に落ち着いている。
(あんなに色が濃かったのに、たった一日でここまで薄くなるなんて。私の自然治癒力と、あの侍女が持ってきた怪しい塗り薬のタッグ、恐るべしだわ……!)
とはいえ、普通の肌色に戻ったわけではない。ほんのりとした赤色の痕は、まるで「ここに何かがありました」と主張しているようで、なんだか妙に生々しい。
「お嬢様、ガーゼの準備ができましたわ! 今日もバッチリ、外部からの刺激(と視線)を遮断しましょうね!」
「ええ、お願い。まだ油断は禁物だもの。バイ菌が入って、またあの毒々しい色に戻ったら大変だわ」
侍女の手によって、手際よく真っ白なガーゼが当てられる。その上から、セドリック様からいただいた銀のブレスレットを装着すると、なんということでしょう。
「高価な宝石」と「大げさな包帯」という、前世の漫画でしか見たことがないような、アンバランス極まりないビジュアルが完成してしまった。
(……まあいいわ。怪我(毒虫)は隠さなきゃいけないし、いただいた贈り物は身につけなきゃいけない。これが今の私にできる、最大限の誠意よね!)
私は「うん、完璧」と自分に言い聞かせると、その「重傷なんだか着飾っているんだか分からない手元」を隠すこともなく、堂々と学園へと足を踏み入れた。
「……リアンナ様。あなた、その手は何かしら? 貴族の身だしなみとして、そのような不格好な包帯は感心しないわね」
教室に入るなり、鋭く冷ややかな声が鼓膜を叩いた。
声の主はアリシュナ様。規律とマナーを重んじる令嬢であり、その厳しい言動から周囲には恐れられているお方だ。今日も背筋をピンと伸ばし、非の打ち所のない所作で私を咎める。けれど、その双眸は隠しきれない心配の色で揺れていた。
「おはようございます、アリシュナ様。これですか? ちょっと、土曜日に猛毒の虫にやられまして。でもご安心ください、徹底的に消毒して毒はねじ伏せましたわ!」
「……毒虫? 消毒……?」
アリシュナ様の視線が、ガーゼのすぐ横で輝くブレスレットに移る。
刹那、彼女の涼しげな表情が微かに震えた。
「そのブレスレット……それ、セドリックの紋章が入っているではありませんか」
「ええっ!? 紋章!? どこにですか!?」
私が自分の手首をぶんぶんと振り回して驚くと、アリシュナ様は「危なっかしいわね、じっとしてなさい!」と私の手をひったくるように掴んだ。
「ここよ、よく見なさいな。留め具のところのアジャスター、その先の小さなプレートですわ。……分かりにくいですけれど、驚くほど細やかに刻印されていますわよ。トリスタン家の誇り高き紋章が。……そんなことも知らずに身につけていたの?」
「本当だ……。ええっ、全然気づきませんでした……。流石はセドリック様、細かいところまで福利厚生が行き届いているというか……」
「……何ですの?そのフクリコウセイって。まあ、いいですわ。それで……あなたはいつ、どこで毒虫に襲われたのか分かっているのかしら?」
「土曜日に先日の殿下の案件のお礼として、セドリック様にランチへ連れて行っていただいたんです。その後、街をぶらぶらと案内していただいて……最後には、それは綺麗な夕日が見える高台へ連れて行ってくださったんです。多分きっとそこで刺されてしまったのかなと、自然が多い所でしたので」
「……セドリックと二人きりで、ランチに、街歩きに、挙句に夕日を見に高台へ……?」
「そうなんです!それで、高台でセドリック様に直接これを着けていただいたんです。その後、寮まで送って下さり自室に戻ってようやく一息ついた時でしたわ。いつの間にか手の甲の1箇所が禍々しい色に……!」
「……至近距離であなたの腕に触れていながら、その『虫』を見逃したというの?」
アリシュナ様はすっと目を細めた。一見、冷静に状況を分析しているように見えるが、その指先はわずかに震えている。
「いい? リアンナ様。あの方は、草むらで蛇が動いただけで気づくような、嫌味なほど鋭敏な感覚の持ち主よ。……そんな方の目の前で、音もなく、痛みもなく、あなたの肌を侵したという事実は、もはや……」
アリシュナ様はガタッと椅子を鳴らして身を乗り出した。その瞳は、冷静さを装いながらも、未知の怪物に怯える子鹿のように泳いでいる。
「……あの方が無能なのではなく、その『虫』が生物の域を超えているのよ! 痛みのない毒は、神経を麻痺させ、認識を歪めるわ。セドリックですら防げなかった『高台の怪異』が、今もあなたのその腕で増殖しているかもしれないのよ!!」
「えっ? 虫刺されって、そんなに……国を滅ぼすような大事でしたっけ?」
「当たり前でしょう! 防ぎようがないじゃない! いい? このガーゼは、学園の平穏を守るための障壁よ。絶対に、人前で外してはダメよ。どうにか対策をとらないと……学園は、いいえ、この国は終わりよ……!」
アリシュナ様は震える手で、予備のガーゼを上からこれでもかと厳重に巻き上げ始めた。
「承知いたしました、アリシュナ様! 学園の……いいえ、この国の安全のためにも、この『機密事項』は死守いたします!」
「ええ、頼んだわよ……。私は、これから殿下の所へ報告に行ってきますわ。事態は一刻を争うもの。高台の封鎖と、対・毒虫装備の配備を具申しなければ……!」
アリシュナ様が悲壮な決意を胸に、席を立とうとしたその時だった。
「――その必要はないぞ、アリシュナ。報告なら、たった今この特等席ですべて聞かせてもらった」
すぐ真後ろの席から、驚くほど晴れやかで、かつ楽しげな声が響いた。
アリシュナ様が「ひっ」と短く息を呑んで振り向くと、そこにはいつの間にか席に座り、優雅に足を組んでこちらを眺めているライオネル殿下の姿があった。その傍らには、影のようにセドリック様も控えている。
「ラ、ライオネル殿下……っ!? い、いつから、そこに……」
「いつから、だと? そうだな、『痛みのない毒は神経を麻痺させる』という君の非常に独創的な分析が始まったあたりからだろうか」
今朝の殿下は、王宮での書類仕事を完璧に終わらせてきた解放感からか、驚くほど心の余裕に満ち溢れている。
「……お、お聞きになっていたのですか。……では、話は早いですわ。殿下、どうか、どうかあの方から離れてくださいまし。不用意に近づけば、あなたという『国の至宝』までが……」
「いいや、アリシュナ。その必要はないし、俺は今、猛烈に感動しているんだ」
ライオネル殿下は席を立つと、アリシュナ様の正面に回り込み、その顔をじっと覗き込んだ。
「必死に俺を守ろうとしてくれる。君は俺が思っていたよりもずっと愛情深い人だったんだな」
「な……っ!? お、お戯れを……っ!」
アリシュナ様が顔を真っ赤にさせているなか、殿下の声はいつになく穏やかで、そこには揶揄いながらも、心配してくれた事に喜びが隠せないでいる。
「アリシュナは可愛いな」
「アリシュナ様、私のことを『嫌味なほど鋭敏』と仰いましたか? あとでじっくり、その真意をお伺いしたいものです」
セドリックまでが楽しそうに追い打ちをかける。
「……っ、殿下!セドリック! お戯れはやめてくださいまし! 今はそれどころでは……っ。リアンナ様の手の甲には、今も猛毒が……!」
アリシュナ様が真っ赤な顔で後退りし、必死に「毒虫」の脅威を訴えようとした、その時。
「――はい。鑑賞時間は終わりです。ひとまず、この重装備は解いておきましょうか」
横から伸びてきたセドリック様の長い指が、私の手の甲に巻かれたガーゼの端を、魔法のような手際で捉えた。
「あっ、セドリック様!? いけません、それは機密事項で……!」
私が止める間もなかった。
アリシュナ様が、国の安寧を願って「これでもか」と厳重に巻き上げたはずの幾重ものガーゼが、セドリック様の無慈悲な一引きによって、ハラハラと床へ崩れ落ちた。
「ああっ……! セドリック、あなたなんてことを! 毒が、毒が飛散してしまいますわ……っ!」
アリシュナ様が絶望の声を上げ、咄嗟に殿下を庇うように両手を広げる。
「……ふむ。随分と薄くなりましたね。これなら、わざわざガーゼを巻くまでもないでしょう?」
セドリック様は、剥き出しになった私の手をそっと取り、鑑定士のような鋭い目で見つめてニヤリと笑った。
そこには、ただの虫刺されにしては少し意味深な、けれど毒々しさの消えたほんのりとした赤色の小さな痕が、恥ずかしそうに残っているだけだった。
「…………え? あれ?」
アリシュナ様が、毒に侵される気配のない教室の空気と、私の手の甲を交互に見て、ぱちぱちと瞬きをする。
そんな彼女の横で、ライオネル殿下が「やれやれ」と肩をすくめた。
「……セドリック。『ちょっとした印を付けておいた』とは聞いていたが。まさか、うちの婚約者がここまで大真面目に『毒虫』と勘違いして、国家規模の騒ぎにまで発展させるとは思わなかったぞ」
「申し訳ございません、殿下。私の不徳の致すところです」
セドリック様が、口元だけを微かに緩めて優雅に一礼する。その「確信犯」な態度に、アリシュナ様がようやく事の真相を悟り始めた。
「……ま、待ってくださいまし。セドリック、あなた今、何と? 『印』……? つまり、この痕は、あなたが……?」
「さて、アリシュナ。毒虫の脅威も去ったことだし、そろそろ予鈴が鳴る。……とりあえず、席に座ろうか。君がそんなに真っ赤な顔のままだと、教師が心配して医務室へ送られてしまうからね」
殿下は答えを待たずに、楽しげにアリシュナ様の背中を促した。
「なっ……! も、もちろんですわ! 私はいつだって、完璧に準備が整っておりますわよ……!」
「ほら、君の席はこっちだろう?」
殿下は、あわあわと視線を泳がせるアリシュナ様を、まるで宝物を運ぶかのように丁重に、かつ鮮やかな手つきで自分の隣の席へと誘導していく。
真っ赤な顔で殿下に引きずられるように歩くアリシュナ様の姿は、いつもの凛とした「淑女」の面影はどこへやら、だ。
一方、私の隣では、セドリック様が床に崩れ落ちたガーゼの山をサッと回収し、音もなく私の背後へと移動していた。
「……そのブレスレット、よく似合ってるよ。……ああ、やはり私の目に狂いはなかった。あなたの白く細い腕には、その銀の輝きが一番よく映える」
耳元で囁かれた、低く熱を帯びた声。
彼は私の肩越しに、ブレスレットが飾られた手の甲を愛おしそうに見つめている。
「手の甲の痕も、随分と綺麗になってしまったね。……名残惜しいが、これならもう、誰にも不自然に思われないでしょう」
セドリック様の囁きが、脳内で弾けた。
「名残り惜しい……?」
(待って。虫刺されじゃない……? これ、セドリック様が付けた痕?)
(でも一体いつ……!?)
(!?!?!? 帰り際の、あのキス!)
一気に血の気が引いた後、猛烈な熱が顔を焼き尽くす。
(吸われた感じは確かにあったけど、まさか、これがキスマーク!!)
それを私は「猛毒」だと大騒ぎして、アリシュナ様に「国家存亡の危機」とまで言わせて。おまけに殿下にまで、あんなに必死に禍々しさを力説して……!
(死にたい。今すぐこの床に穴を掘って埋まりたい……!こんな、こんな恥ずかしいこと、もうお嫁にいけないかも……)
背後では、すべての元凶が愉悦に満ちた低い笑い声を漏らしている。
振り返る勇気なんて、もう一ミリも残っていない。
不格好なガーゼから解放された手の甲には、銀のブレスレットと、愛おしくも恨めしいほんのりとした赤色の「印」。
(……あの男は危険だわ!もう絶対に、絶っっっ対に、あんな男には近寄らないんだから……っ!!)
私は、そう決意した。




