第20.5話:騎士の愉悦と予期せぬ敗北(セドリック視点)
「では殿下、アリシュナ様、授業が始まりますので急ぎましょう。リアンナ嬢、午後の授業でお腹が鳴らないように気をつけるんだぞ」
主君とアリシュナ様の痴話喧嘩を「最高に面白い特等席」で鑑賞し終えた俺は、二人を促して歩き出した。
そのまま午後の授業へと向かう。教室の最背面、窓際の壁を背にして立つのが俺の定位置だ。そして、そのすぐ目の前——窓際の一番後ろの席には、リアンナ嬢が座っている。
授業中、俺の視線はどうしても彼女の横顔へと吸い寄せられた。
彼女はいつも通り背筋を伸ばし、真面目にペンを走らせている。だが、その背中には微かな緊張が走り、時折、何かを堪えるようにぐっと拳を握りしめていた。
昼休みのあの「噴水惨劇」のせいで、彼女が楽しみにしていたサンドウィッチは結局、一口も彼女の胃に収まらなかったはずだ。
(……相当、腹が減っているんだろうな。あんなに必死に気品を保って、鳴りそうな腹を抑え込もうとしている)
教壇から流れる講義をBGMに、俺は冷静な護衛を装いつつ、すぐ傍らで繰り広げられる「淑女と空腹の死闘」を、これまた特等席から密かに鑑賞していた。窓から差し込む午後の光が、本能に抗って必死にペンを動かす彼女の横顔を照らし出す。普段は冷静な彼女が、空腹という最大の敵に翻弄されている姿は、見ていて飽きることがなかった。
そして放課後。
ライオネル殿下は約束通り、アリシュナ様をエスコートして最高級のティータイムへと向かわれた。
「セドリック、お前も今日はよくやってくれた。あとは交代の者に任せて、たまには羽を伸ばすといい。……どうせ、気になっている相手でもいるんだろう?」
主君の余計な配慮によって、俺は予期せぬ自由時間を手に入れた。
さて、何をしようか。そう思って中庭を通りかかると、図書室の窓際に座る彼女の姿が目に入った。夕日に照らされながら、驚くほど無防備な様子で本に没頭している。授業中のあのピリついた緊張感はどこへやら、その楽しそうな横顔を見ていると、つい声をかけてみたくなった。
俺は音もなく彼女の背後に忍び寄る。
そのまま、彼女を背中から閉じ込めるようにして、両手を机にトン、とついた。逃げ場を完全に塞ぎ、彼女の耳元へ顔を寄せ、密やかな声で囁く。
「…………何を読んでいるんだい?」
案の定、彼女は肩を跳ねさせて驚いている。よし、反応は上々だ。
「セ、セドリック様……!? なぜこんな所に……」
「護衛の任務も交代を済ませて中庭を歩いていたら、あまりに無防備で楽しそうな顔をして読書をしている君を見つけたから、君の視界に入りたくてついつい来てしまった。」
少し揶揄うようにそう告げると、彼女は赤くなって慌てている。ここまでは俺のペースだった。……そう、ここまでは。
「……あの、セドリック様」
「なんだい?」
「非常に申し上げにくいのですが、そこ、影になって手元が暗いんです。……あと少しで犯人がわかりそうなので、せめて読み終わるまで避けていただけませんか?」
……は? 影?
俺の至近距離での微笑みより、その使い古されたミステリー小説の真犯人の方が重要だというのか。
余裕たっぷりに現れたはずの俺を、彼女は「手元が暗い」という、あまりに実務的な理由で一蹴した。
「…………本、に負けたのかい? 僕は」
思わず掠れた声が漏れる。
「負けたとかではなく、純粋にミステリーとしての完成度が高いと言いますか。あ、そこ、動かないでください。文字が隠れます」
「………………」
嘘だろう。彼女はもう、俺の顔すら見ていない。再び物語の世界へダイブし、迷いのない指先でページをめくっている。
夕闇の図書室。数々の修羅場を潜り抜けてきたこの俺が、名もなき小説の犯人に完敗した瞬間だった。
(……ふん、面白くないな)
他の令嬢であれば、本などそっちのけで頬を染め、俺との時間を一秒でも長く引き延ばそうとするはずだ。至近距離に実在する俺がいるというのに実在しない真犯人に熱を上げている彼女の態度は、あまりに俺の想定を外れていて——。
(——ああ、これほどまでに、俺のプライドを心地よく逆なでする女は初めてだ)
彼女の視界に無理やり割り込んだというのに、一瞬で「ただの邪魔な影」として処理された事実。その冷ややかなまでの執着のなさが、俺の心の奥底に眠る独占欲をこれでもかと煽り立てる。
どうすればこの本への熱量を、俺への関心に塗り替えられるだろうか。その瞳に文字ではなく、俺という男の存在だけを刻み込んでやりたい。今まで感じたことのない、暗く燃えるような欲求が胸を突き上げる。
(……いいだろう。せめて読み終わるまでは、望み通り光を遮らない位置で控えていてやるとも)
俺は冷え切った自尊心を無理やり立て直し彼女の読書を妨げないよう、数歩下がって窓からの夕日を彼女の手元に譲った。
いつかその熱心な瞳が俺一人に向けられ、俺なしではいられなくなる日を想像しながら、彼女がページをめくる音を静かに聞いているしかなかった。




