第17話::束の間の解放。 〜事務処理完了と、逃げ場なき約束〜
「――以上が、今後殿下がこちらへ持ち込まれる書類を捌くための『提出規定案』、および指定フォーマットでございます。……いかがでしょうか、殿下?」
私が最後の一筆を置き、お伺いを立てるように微笑むと、殿下とアリシュナ様の視線が、新しく作られた『規定一覧表』と『記入用雛形』に注がれた。昨夜、王宮の執務室で捌ききれず、今朝殿下が鞄に詰め込んで持ってきた「残業の山」を前に、殿下は目を見開いた。
「……なるほど。今までは差出人の長々とした自己紹介や、どれほど困っているかという情緒的な訴えを最後まで読まねば要件が掴めなかった。だが、この『項目を埋めていくスタイル』なら、見るべき場所が一目でわかるな。……よし、採用だ」
殿下が満足げに頷く。これが実際に運用され、その光明が見えただけでも、殿下にとっては大きな救いだったに違いない。
殿下が満足げに頷くのを確認し、私は「ありがとうございます」と優雅に一礼して、すかさず足元の鞄をひっ掴んだ。
「では! 私は2限目の授業がありますので、これで失礼いたします!」
「あら、私もそろそろ戻りますわ。リアンナ様、同じクラスなのですもの、一緒に行きましょう」
アリシュナ様が優雅に立ち上がり、私の隣に並ぶ。その迷いのない動作に、殿下が「あ、おい、アリシュナ……」と声を漏らしたが、彼女は涼しい顔で受け流した。
「あとは殿下、そちらの『適正な』書類の処理、よろしくて?……行きましょう、リアンナ様」
「は、はい!」
呆気にとられる殿下と、名残惜しそうにこちらを見るセドリック様を残して、私たちは意気揚々と生徒会室を後にした。
2限目の科目は『領地法学』先生が読み上げる古い判例を書き留めながら、私は考え事に没頭するあまり、無意識にペンを置いて空いた左手で、胸元のリボンの端を指先に絡め、クルクル、クルクルと回し続けていたのだ。
2限目の講義が終わった後「……リアンナ様」隣から降ってきた、鈴の音のような、けれど少し呆れた声に心臓が跳ねた。見れば、アリシュナ様が半目で私を見ている。
「えっ、あ、はい! アリシュナ様、何か……?」
「何か、ではないわ。あなた、リボンを指でクルクル回しすぎです。ほら、縦に細長く絞られて、変な癖がついているわよ」
「わっ、本当だ! 集中しすぎて気づきませんでした。お恥ずかしい……!」
慌てて指を離してリボンを広げようとするけれど、無残にも縦にヨレてしまったリボンは、焦れば焦るほど不器用な指先をあざ笑うかのように形を崩していく。
「……もう、じっとしていて。見ていられないわ」
アリシュナ様は小さく溜息をつくと、小言を言いつつ迷いのない手つきで私のリボンに指をかけ、完璧な形に結び直していく。
「あ……ありがとうございます、アリシュナ様」
「これだけ切れる頭を持っているのに、身なりに関しては無頓着なのですから。……はい、できたわ。これでこそ、あなたの知性に相応しい姿ね」
仕上げに、私の跳ねた後れ毛を耳にかけてくれた彼女の指先は、思いのほか温かく、その少しだけ誇らしげな、妹の世話を焼くような彼女の表情に、私は思わず頬が緩んでしまった。
放課後。再び生徒会室へと向かうと、そこには今朝持ち込まれた「旧来通り」の残業の山を前に、眉間にシワを寄せている殿下と、その傍らに控えるセドリック様の姿があった。
「お疲れ様。二人とも、午後の講義はどうだった?」
「ええ、非常に生産的な時間でしたわ。リアナ様の『リボンの癖』を直してさしあげましたしね」
アリシュナ様が「全くだらしのない 」と、言いつつもクスクスと楽しそうに微笑む横で、私は鞄を抱え直し、顔を赤らめる。
「……忘れてくださいませ。さあ、殿下! その『敵』を片付けてしまいましょう!」
殿下の机の上には、いまだに真っ黒な文字が羅列された旧式の用紙が積まれている。殿下は溜息をつきながら、一枚の書類を掲げた。
「……やはり、このやり方では要点を掴むだけで日が暮れそうだ。これでは明日の分も絶望的だな」
「でしたら、さっそく今朝のフォーマットを使いましょう。殿下、私が横から内容を拾って読み上げますので、殿下は判断だけに集中してくださいませ」
私が隣に陣取り、長文の中から「費用」「課題」「解決策」だけを電光石火の速さで拾い出し、新フォーマットの項目に当てはめて提示していく。
「……なるほど。こうして項目を埋めていくスタイルで見せられると、拾い読みの手間が皆無だな。……却下だ。これは受理。これは保留」
パッ、パッ、と書類が片付いていく。その圧倒的な速度に、殿下はわずかに口角を上げた。
「リアナ嬢、君の言う通りだ。この形式を王宮側に強制すれば、わざわざ学園にまで書類を持ち込まなくても良くなりそうだ。今夜、さっそくこの雛形を各部署にバラまくとしよう。……明日の旧来書類さえ片付ければ、明後日の朝には……」
殿下がわずかに口角を上げる。どうやら、彼の中に「普通の学園生活」への確かな希望が芽生えたらしい。
「それは重畳ですわ、殿下。……では、王宮の皆様が迷わぬよう、分かりやすい『記入例』も作成いたしましょうか?」
「……ああ、頼む」
全ての仕分けを終え、記入例の作成をし終わった頃、窓の外は燃えるような茜色に染まっていた。
「……ふう。これで今日の分は完遂だな」
殿下が大きく息を吐き、ペンを置くと、ふと思い出したようにアリシュナ様の方を見た。
「あ、そうだ。……セドリック、リアンナ嬢を寮まで送っていけ。これだけの重労働を強いたのだ、せめて安全に送り届けるのが騎士の礼儀というものだろう」
「おや、僕がですか? 構いませんが、殿下の警護が薄くなりますよ」
セドリック様がわざとらしく聞き返すと、殿下は咳払いを一つして、アリシュナ様の方へ視線を泳がせた。
「……問題ない。アリシュナには、ほら、明日のスケジュールの件で少し残ってもらって……確認したいことが山ほどあるんだ。な、アリシュナ?」
「あら、そんなに急ぎの件がありましたかしら?」
アリシュナ様が不思議そうに首を傾げると、セドリック様が「クスクス」と喉を鳴らした。
「なるほど。では、殿下の『重大な確認事項』の邪魔をしないよう、僕たちは早々に失礼するとしましょう。……行きましょうかリアンナ嬢。鞄をこちらへ」
「あ、いえ! 自分で持てますわ! こう見えて体力には自信が……!」
「いいから。淑女に重いものを持たせたまま歩くほど、僕は無粋じゃないんだ」
夕闇が迫る並木道を、二人でゆっくりと歩く。静まり返った学園内に、私たちの靴音だけが響いていた。
「……さて、リアンナ嬢」
ふいに隣を歩くセドリック様が歩調を緩め、私の方へと自然に距離を詰めてきた。
「今朝の約束、覚えているかな? 『返事は、今日の務めが終わってから』……という話」
「えっ……あ」
すっかり事務作業の達成感に浸っていた私は、その言葉に思わず足を止めた。そうだ、今朝のあの誘いへの返事を、私はまだ保留にしたままだった。
「今日の務めは、これ以上ないほど完璧に終わった。……だよね?」
「そ、それは……はい、滞りなく完了しておりますけれど……」
「それなら聞かせてもらおうかな。僕からのお礼……食事の誘いへの、君の答えを」
セドリック様は「クスクス」と楽しげに喉を鳴らすと、私の正面に回り込むようにして立ち止まった。夕焼けの影が長く伸び、まるで彼に閉じ込められたような錯覚に陥る。
「えっ、あ、あのお食事は……その、お気持ちだけで十分ですわ! 私のような者がセドリック様のお時間を奪うなんて……!」
「お気持ちだけ、で済ませるつもりはないよ」
彼は少しだけ腰を落として私の顔を覗き込み、困惑する私を見て楽しそうに目を細めた。
「君がどれだけ謙遜しても、僕が君を誘いたい事実は変わらない。……それに、連れて行きたいお店は、もう決めてあるんだ。」
「え……決めて、いらっしゃるのですか?」
「ああ。ねえ、リアンナ嬢。まさか、僕に恥をかかせたりはしないだろう?」
「い、嫌とか、そういうことではなく……その、あまりに用意周到すぎて……っ。ええと、その、つまり……!」
揶揄うような、でも逃がすつもりなど毛頭ない熱を含んだ瞳。私は「えっと、えっと……」と視線を激しく泳がせ、指先を無意味に組み替えながら、パニック寸前で言葉を失う。
そんな私を眺めていたセドリック様は、最後にもう一段階、逃げ道を塞ぐように甘く微笑んだ。
「……よし、決まりね。楽しみにしてるよ」
彼は私の混乱を置き去りにして、ふわりと私の頭を撫でると、満足げな足取りで歩き出した。
「――っ、あ、ちょ、セドリック様! お待ちください! 私、まだ『いい』なんて一言も言ってなっ……そもそも私のスケジュール表にはそんな空き時間は……! ちょ、待っ……!」
私は真っ赤な顔をして、逃げるように去っていく彼の背中を追いかけた。
――あの人、絶対楽しんでるわ! 私が慌てるのを見て、クスクス笑いながら楽しんでるんだわ!
明後日、いよいよ本格的にあの規定が運用され始めたら……私は仕事以外の場所で、一体どうやって彼と向き合えばいいの!?




