第16話:社畜の朝は早い。 〜執行猶予ゼロのOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)〜
翌朝。
私は今日も一日、伯爵令嬢として平穏に授業を受けようと、意気揚々と登校した。……のだが。
「……おはよう、リアンナ嬢。朝早くからすまない」
教室の入り口。まだ中に入るどころか、ドアノブに手をかける前に影に呼び止められた。そこにいたのはアリシュナ様ではなく、セドリック様一人。いつもは殿下の一歩後ろを歩く彼が、今日は私の正面を塞ぐように立っている。
「セドリック様? お一人ですか? 殿下は……」
「ああ。殿下はアリシュナ様と共に、昨日の君の『書き方』について熱心に議論を交わされているよ。実は、僕も君に感謝したくて、無理を言って使いに志願したんだ。……さあ、行こうか」
行こうか、ではない。私の教室はここだ。
セドリック様は当然のように私の背後に回り、さりげなく、けれど確実に進行方向を生徒会室へと誘導し始めた。
(……ちょっと待って。私、まだ教室に鞄も置いてないんですけど! 教科書も筆記用具も入ってて、地味に重いんですけど! これって朝イチの抜き打ち直行業務!? 私の受講権はどこに行ったのよ!)
困惑する私を余所に、セドリック様は穏やかな眼差しで語りかけてくる。
「昨日、君のあの用紙を殿下にお見せした途端、あれほど不機嫌だった殿下が嘘のように上機嫌になられてね。……君は僕にとって、救いの女神のように見えたよ」
「い、いえ! 殿下の機嫌が直ったなら何よりですわ。」
(……というか、女神とか言わないで! 怖いから! 前世で急に優しくなった上司の後は、大抵デスマーチが待ってたんだから!)
私のささやかな抵抗など意に介さず、彼は流れるようにエスコートを続ける。廊下を歩く距離が、昨日よりも心なしか近い。
「そう謙遜しないでくれ。……今度、お礼に街の美味しい店でも案内させてほしい。ぜひ、一人の友人として付き合ってくれないかな?」
「ええっ!? いえいえ、本当にお気になさらず! そんなお礼をいただくようなことは何もしておりません。」
私はブンブンと首を振って固辞した。だが、セドリック様はさらに一歩踏み込んでくる。
「……ダメかな? 君に断られると、僕の騎士としての面目が立たないんだが」
少しだけ眉を下げ、困ったように覗き込んでくるその顔面。
(「面目」ですって!? 前世で言えば「協力会社さんに貸しを作ったままだと、今後の現場の士気に関わりますから!」って言って、無理やり飲み会に誘う営業部長と同じ手口じゃない! しかも、断ったら「騎士のプライドを傷つけた」ことになって、余計に話がこじれるやつ……。卑怯だわ、その顔面でそのロジックは卑怯すぎるわ……!)
(それに、イケメン騎士様と二人で街歩きなんてしてみなさいよ。翌日の学園新聞の一面は『アルヴィル家の令嬢、騎士様をたぶらかす』で確定。私の平穏なモブライフは木っ端微塵よ! 目立ってしゃーないわ!)
私が葛藤で震えているうちに、いつの間にか生徒会室の扉の前に着いていた。……私の教室が遠ざかっていく。
「……返事は、今日の務めが終わってからでいい。さあ、行こうか。君の才能を待ちわびている、熱心な主のところへ」
彼は満足げに微笑んで扉を押し開いた。
扉の向こうでは、やる気満々のライオネル殿下と、すべてを見透かすような目のアリシュナ様が座っていた。
「来たか、リアンナ嬢! 待ちわびたよ」
(……殿下、せめて『おはよう』の前に『授業に出られなくて済まない』の一言をください……!)
私は、手に持ったままの重い鞄をひっそりと足元に置き、既に「出勤」扱いになっている現実に涙しながら、仕事モードのスイッチを入れた。
「殿下、これらを一つずつ読むのは時間の無駄です。これからは、私たちが中身を整理してあげる必要はありません。『境界線』を引くのです」
「境界線、だと?」
「はい。例えば『橋が壊れたから直してほしい』。これだけでは、予算も場所も被害状況も分かりません。これは境界線の『外側』……つまり、即座に突き返すべき書類です」
「対して、『場所はここ、今の状況、予算はこれくらい、今はこう応急処置している』。ここまで揃って初めて境界線の『内側』、殿下の机に置く資格が得られます。殿下の務めは『考えること』であって、『材料を揃えること』ではないのですわ!」
「……なるほど。下処理が済んでいない食材は、厨房には入れないということか。面白い!」
殿下が膝を打つ。その隣で、セドリック様が「……流石ですね」と、誇らしげな、それでいてどこか熱を含んだ目で私を見ている。
(――あ、やばい。仕事を減らすための仕組み作りが、また別の仕事を生んでいる……! この仕事を早く終わらせれば、平穏な時間が手に入る。でも、終わらせたらセドリック様からの『お礼』が待っている。……どっちに行っても、逃げ場がないじゃない!?)
私は、ルールブック作りに没頭しながら、かつてないほどのジレンマに頭を抱えるのだった。




