第10話:公爵令嬢の背中は遠い。 〜OL、有能すぎる上司(予定)に戦慄する〜
エリシア様の後に続いてテラスを出ると、そこには長く美しい回廊が続いていた。
彼女の歩幅は決して大きくない。それなのに、無駄のない所作と凛とした背筋のせいで、油断するとすぐに置いていかれそうになる。
(……歩く姿が、もう完成された芸術品だわ。さすがは将来の王妃候補。幼少期から殿下やクラウス様と一緒に、厳しい教育を受けてきた重みが違うわね)
ふと、先ほど立ち去ったクラウス様の様子を思い出す。学園中から慕われる彼が、エリシア様の姿を見た瞬間に見せた、あの隙のない敬礼。あれは単なる身分差への礼儀だけじゃない。子供の頃から彼女の「完璧主義」に散々揉まれてきた、幼馴染ゆえの「反射的な防衛本能」に近いものだった気がする。
「……何をボサッとしていますの? 自分の足で歩く気がないのなら、そこに根でも張りますか?」
「ひっ、すみません! 今すぐ歩きます、迅速に歩きます!」
振り返ったエリシア様の瞳は、相変わらず冷徹で美しい。
けれど、私が必死に小走りで追いつくと、彼女はほんのわずかに歩行速度を落としてくれた。
「貴女、記憶を失くしてから本当におかしなことばかり言いますわね。……フン、これだからだらしない人は」
「あ……あの、エリシア様、なぜ私が記憶を失くしたことを……」
思わず漏れた私の疑問に、エリシア様は歩みを止めず、鼻で笑った。
「貴女、自分が一ヶ月も休んでいた理由が伏せられているとでも思っていて? 公爵家の情報網を、あまり舐めないことですわ。真実を掴んでおくのは当然のたしなみです」
(……ひえっ! まるで社内の不祥事を事前に察知して揉み消すコンプライアンス担当役員。プライバシーなんて概念、この国の貴族にはないのかしら……!)
扇子で口元を隠した彼女の横顔は、どこか誇らしげで、そして少しだけ、こちらを案じているような気がした。
「……とはいえ、貴女のその様子では、記憶がないことを周囲に悟られれば格好の餌食になりますわね。少しは自分の立場というものを弁えなさい。特にこの学園では——」
回廊の途中で、エリシア様がふと足を止めた。
そして、私の制服の襟元がわずかに乱れているのを見逃さず、無造作に、けれど手際よく直してくれる。
(あ、この感じ……。前世で『ったく、これだから新人は!』と怒鳴りながらも、徹夜で修正した私のクソみたいな資料を一番丁寧にチェックしてくれた、あの鬼の教育係の先輩にそっくり……!)
厳しい。けれど、決して見捨てない。
この人は、自分が認めた(あるいは管轄下に置いた)人間に対しては、徹底的に責任を持つタイプだ。
(……よし、決めた! 脳内の『絶対に目を合わせてはいけない要注意人物リスト』から、エリシア様の名前をデリートするわ!)
震えながらリストに書き込んだ【悪役令嬢:エリシア様】の名前を、心の中で二本線で消す。代わりに太字で書き加えたのは――【理想の上司:エリシア先輩】。
(私はこの人に付いていくわ。有能で、面倒見が良くて、コンプライアンスにも強い。意外と福利厚生がしっかりしてるかもしれないし!)
私が「不届きな社畜精神」で勝手にエリシア様を上司認定していた、その時。
「よろしいこと? 貴女のだらしなさは、周囲に隙を見せることにも繋がるのですわ。一ヶ月も休んでいたのだから、もっと気を引き締めて——」
始まった。有能上司による、愛の(?)個別面談。
私は「はいっ!」「仰る通りです!」と、前世で鍛えた聞き上手スキルを発動しながら、その場に立ち止まって拝聴することになった。
しかし、その熱心な指導のせいで、私たちは「ある人物」が背後から近づいていることに、全く気づいていなかったのだ。




