第92話 「欠けた回廊」
異変は、柱の中腹で待っていた。回廊が、ない。数十歩分の道が根こそぎ崩れ落ち、断面を晒したまま、途方もない虚空が口を開けている。見下ろせば底は陽炎に霞み、対岸の道は遥か上だ。ヴェルナが翼を広げ、試しに滑空へ出た――瞬間、中央の気流が横殴りに彼女を叩き、錐揉みに煽られて、辛うじて戻ってくる。「……駄目だ。この気流、生き物のように暴れる。一人ならまだしも、誰かを抱えては渡りきれん」。
活路は、またしてもノアの鼻だった。暴れる気流にも、周期がある。熱風が束の間だけ凪ぐ、その数呼吸。「凪の間に、ヴェルナがテオを。僕とフィーナは、跳ぶ」。ロープで互いの腰を結び、窓の合図に全員の呼吸を合わせる。「――今!」。ヴェルナがテオを抱えて風の隙間を滑り、ノアはフィーナの手を取り、脚の権能で崩れた断面を蹴った。宙に浮いた、その刹那。壁の巣から焔羽の群れが、狙いすましたように飛び立った。「こんな時に……!」。フィーナが宙で身をよじり、片手の剣で一羽を薙ぐ。その反動で繋いだ手が滑り、彼女の体が虚空へ流れた。落ちる――寸前、ノアの腕の権能が対岸の岩角に指を食い込ませ、ロープごと彼女を釣り上げる。焼けた岩を掴んだ掌が、じゅ、と音を立てた。対岸へ転がり込んだ時、ノアの両掌には赤い火脹れが幾つも膨れていた。「ちょっと、手……!」。「フィーナが無事なら、安い」。窓の文字に、彼女は怒った顔のまま、泣きそうになった。
その先の壁龕で、四人は小さな祠を見つけた。巡礼者の休み場だったのだろう。壁一面の浮き彫りには、玉座の何者かの口元から光の梁が放たれ、集う人々がそれを掌で受け取る、あの意匠。だが、近づいたテオの顔が強張った。「……顔が、ない」。玉座の人物の顔だけが、鑿で執拗に削り取られていた。風化ではない。明らかに、人の手だ。思い返せば、天空の社でも、灰原の霊廟でも、中心の像はいつも影のように潰れていた。偶然では、ない。「誰かが……この方の顔を、歴史から消して回った」。テオの震える指が、野帳にその輪郭を写し取る。削られた顔の前で、ヴェルナは長いこと、黙って立ち尽くしていた。
祠を出る間際、ノアは一度だけ振り返った。顔のない玉座の像。その削られた面を見つめていると、胸の奥の心臓が、なぜだか鈍く疼いた。悲しみに似て、もっと古い、何か。頭上の光の彼方から、また一声、あの金属を裂くような啼き声が降ってくる。今度はその声の奥に、押し殺した呻きに似た響きが混じっているのを、ノアは確かに聞き取っていた。




