第88話 「南風号、出航」
出航は、熱を避けた夜と決まった。ザラの船「南風号」は、砂を滑る幅広の橇に帆柱を立てた、精悍な船だった。積み込まれる水樽を数えながら、テオが額の汗を拭う。「イフリートの時の要領で、船全体に薄い冷気の膜を張ります。あの頃より、ずっと効率よく編めるようになりましたから」。水の配給で、フィーナがふと手を止めた。回されてきた水筒を、ノアだけが、静かに次へ渡す。機械の口は、水を通さない。「……ごめん、気が利かなくて」。ノアは首を振り、窓に綴った。「口を取り戻したら、水の味を、教えてほしい」。フィーナは水筒を強く握り、「約束ね」とだけ言った。
夜の砂海は、月光の下でうねる、銀色の大海原だった。砂丘の波を、南風号は帆を鳴らして滑っていく。だが夜が明けると、地獄が始まった。空には太陽が二つ並んで昇り、方角の感覚を狂わせる。「面舵! 本物の太陽は右だ!」。ノアの窓とザラの操船だけが、船の命綱だった。昼を過ぎた頃、前方の砂上に、帆を張った一隻の船影が現れた。ザラの顔色が、変わる。「――暁号だ! 親父の船だ!」。舵を切ろうとする彼女の腕を、ノアが掴んだ。窓に、苦い文字が浮かぶ。「駄目だ。輪郭が流れてる。あれは……幻だ」。船影は、手を伸ばすように帆を揺らし、やがて陽炎に溶けて消えた。ザラは舵輪に額を押しつけ、長いこと、動かなかった。フィーナがその背に手を置く。「……本物を、見つけましょう。そのために、来たんだから」。
日暮れ前、ノアの鼻が、風上に奇妙な匂いを捉えた。乾いた砂と死の匂いの中に、ほんのかすかな――水と、生きている人の匂い。「東寄りの前方。沈んだ遺跡の辺りから……生きてる匂いが、する」。窓の文字に、ザラが息を呑んで舵を切る。果たして、流砂の渦を二つ越えた先に、それはあった。砂に呑まれた古い遺跡の岩肌に、寄りかかるように半ば埋もれた、一隻の船。折れた帆柱に、色褪せた南の旗。「……暁号」。今度は、幻ではなかった。だが、船へ近づこうとしたその時、背後の砂丘の稜線が、ぐらりと蠢いた。月光の下、砂の波の下を、途方もなく巨大な影が、音もなく滑っていく。ザラの声が、掠れた。「……砂鯨だ。動くものは、皆、呑まれる」。




