第87話 「陽炎の海」
南へ下るほど、世界から水気が失われていった。緑の野は黄ばんだ草地に、草地はひび割れた赤土に変わり、道行く先々で、北へ逃れる人の列とすれ違う。「南は駄目だ、焼かれてる」。荷車の男が振り返りもせずに言った。「ふた月前から、日差しが狂っちまった。井戸は涸れ、風は死んで、砂海を渡る船はみんな陸に上がったままさ」。ふた月前。灰原の霧が広がり始めたのと、同じ頃だった。封印たちは、示し合わせたように、一斉に騒ぎ出している。
砂海の縁の港町ラズラは、渇きの底にあった。桟橋ならぬ砂の岸に、帆を畳んだ砂上船が何隻も、打ち上げられた鯨のように横たわっている。その一隻の前で、若い女が年寄りたちと激しくやり合っていた。「だから、あたし一人でも出るって言ってんだ!」。「ならん! 陽炎の海に出た船は、二度と戻らん。お前の父さんの暁号が、その証だろうが!」。女は拳を握りしめ、俯いた。彼女の名はザラ。この町一番の船乗りだった父ガリムは、ふた月前、狂い始めた砂海の様子を確かめに出たきり、還らないのだという。「陽炎が、道を呑んじまうのさ」。町の古老が四人に語った。「昼は太陽が二つにも三つにも見え、ありもしない町や船が浮かぶ。方角を失った船は、砂の上で干からびるだけよ」。
ノアは砂丘の上に立ち、南の砂海を見渡した。新しい瞳には、視えていた。幾重にも折り重なった偽りの地平が、水のように揺れて流れていく。だがその奥で、本物の岩山や沈んだ遺跡だけが、微動だにせず、静かな輝きを放っている。窓に文字が灯る。「僕には、本物と幻の区別がつく。道は、視える」。折しも、西の砂上に隊商の幻が現れ、町が色めき立った。ノアは静かに首を振る。「あれは幻。輪郭が、流れてる」。果たして人影は、風もないのに陽炎ごと掻き消えた。ザラが、弾かれたように四人へ駆け寄ってくる。その目には、ふた月ぶりの、痛いほどの希望が燃えていた。「あんた……今の、視えてたのか。頼む、あたしの船に乗ってくれ。南へ渡りたいんだろ? 道賃は要らない。その代わり――途中で、親父を捜させてくれ」。
交渉は、それで成立した。その夜、出航準備の傍ら、ノアは一人、砂丘から南を見つめていた。揺れる幻の地平の、そのさらに奥。天と地を繋ぐ、髪の毛ほどに細い灼熱の柱が、真っ直ぐに立ち昇っているのが、確かに視えた。そしてその見えない頂の周りを――金色の小さな火が、ゆっくりと、円を描いて巡っていた。




