第76話 「命の火を狙う霧」
やがて、霧が「見せて」くるようになった。ノアの瞳に、そこかしこで揺れる過去の残光が映り込む。泥の中で母の名を呼びながら事切れる若い兵。折れた旗を握りしめたまま倒れる旗手。三百年前の戦の断末魔が、幾重にも折り重なって、この平原に焼きついていた。「……テオ、見るな。耳も貸すな」。ヴェルナが少年の肩を掴む。霧の奥から、リオンの声に似た響きが、テオ、テオ、と呼んでいたからだ。「兄さんの声じゃ、ない。分かってます……分かってるんです」。少年は唇を噛み、俯いて足を速めた。
異変は、ノア自身にも忍び寄っていた。ふと気づけば、胸の鼓動が、妙に遠い。とくり、とくりと打つ間隔が、少しずつ、引き伸ばされている。霧の中から伸びる無数の白い手が、四人の中でただ一つの、剥き出しの命の火――ノアの心臓の熱を、そっと撫でては奪っていくのだ。機械の体は寒さを訴えない。だからこそ、気づくのが遅れた。「まずい、ノアの唇が真っ青です!」。テオが慌てて温めの光を結界に編み込み、フィーナがミラの気付け薬を、半ば無理やりノアの口へ押し込んだ。焼けつく苦みに、鼓動が、はっきりと熱を取り戻す。窓に、掠れたような文字が灯った。「……この霧は、生きている火が、欲しいんだ」。
その時だった。地の底から、どろどろと、太鼓の音が響き始めた。角笛が続き、大地が、無数の蹄の音に震え出す。行く手の霧が、内側から青白く明るんでいく。何千、何万という青い火が、整然と隊列を組んで、平原の彼方まで並んでいた。死者たちの軍勢が――三百年目の合戦を、また始めようとしていた。




