第62話 「まどろみの霧」
さらに登ると、風に混じる霧が、次第に奇妙な甘い匂いを帯び始めた。ノアの鼻が、真っ先にその正体を見抜く。「この霧――町の眠り病と、同じ淀みだ。ここでは、比べものにならないほど濃い」。封印から漏れ出した淀みは、この霧に溶け、山を流れ下って、麓の人々を蝕んでいたのだ。
その言葉を裏付けるように、異変はすぐに現れた。先頭を歩いていたフィーナの足取りが、ふらりと揺れる。「……あれ、私……」。まぶたが落ち、体が崖側へと傾いだ。ノアが脚の力で瞬時に間合いを詰め、その腕を掴んで引き戻す。崖の下は白い霧に呑まれ、底が見えない。フィーナは自分の頬を強く叩き、青ざめた。「ごめん……立ったまま、眠りかけてた。この霧、吸っているだけで、意識を持っていかれる」。
テオが即座に結界を作り変え、霧を濾して空気だけを通す膜を張った。「これで直接吸わずには済みます。ただ、風を受け流しながら霧まで濾すとなると……魔力の減りが、倍では利きません」。彼の額には、早くも玉の汗が浮いている。一行はミラの薬包を開き、気付けの丸薬を口に含んだ。舌を刺す強烈な苦みが、忍び寄るまどろみを、無理やり引き剥がしていく。
やがて道の脇の岩陰に、四人は、それを見つけた。壁にもたれ、身を寄せ合うように座り込んだ、数人の登山者の亡骸。争った跡も、傷も、どこにもない。皆、眠るように目を閉じ、その顔は恐ろしいほど安らかだった。テオが声を落とす。「……戻らなかった人たち、ですね。眠ったまま、二度と、目を覚まさずに」。誰も、言葉を続けられなかった。これが、封印を断てなければ麓の町を待つ末路なのだ。四人は亡骸に短い祈りを捧げ、無言のまま、霧の奥へと歩を進めた。




