第八章 根に宿る
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芽衣が産まれてから、島の空気が変わった。
変わった、というより、満ちた、という方が正確だった。
それまでの島は、静かだった。風の音と、葉の音と、波の音だけがあった。結とマユだけがいた。
でも今は、声があった。
小さな声だった。泣き声で、時々唸り声で、眠っている間の細い息の音で。それだけだったが、確かに声があった。
生き物が、ここにいる。
その感触が、島全体に広がっていた。
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芽衣の最初の朝。
結は一晩中、眠らなかった。
眠れなかったのではなかった。眠らなかった。
囲炉裏の前で、膝に芽衣を乗せたまま、夜を越えた。
何かあった時に、気づけるように。
芽衣は何度か目を覚ました。泣いた。結は何をすればいいか、一瞬戸惑った。
図書館で読んだ本のことを、思い出した。
新生児には、温かさと、安心感が必要だ。
結は芽衣を、少し強く抱いた。
体温を伝えるように。
芽衣の泣き声が、少しずつ落ち着いた。
結は芽衣の顔を見た。
目を閉じていた。小さな鼻が、規則的に動いていた。唇が、何かを探すように動いた。
授乳が必要だと分かっていた。
でも、結には乳が出なかった。
産んでいないから、当然だった。
母体樹が産んだ。結の体は、妊娠も出産も経ていなかった。
だから、乳が出なかった。
これは、想定していなかった。
記録帳には書いていなかった。図書館で読んだ本には、出産した母親の授乳について書いてあったが、出産していない者が育てることは書いていなかった。
結は少し止まった。
異能で、できるか。
栄養を届ける方法を、考えた。
乳を作ることは、できるかもしれなかった。でも、自分の体から出すことは、今の結にはできなかった。
別の方法が必要だった。
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異能で、山羊の乳に近いものを作った。
温かくした。
小さな椀に入れて、布を浸して、芽衣の唇に当てた。
芽衣が吸い始めた。
最初はうまくいかなかった。布から吸うことに慣れていなかった。でも、何度か試すうちに、少しずつ飲んだ。
結はその様子を、じっと見ていた。
飲めている。
それだけで、少し、肩の力が抜けた。
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三日目に、マユが異変を知らせてきた。
芽衣が眠っている間に、結が畑の様子を見に行った時だった。
マユが走ってきた。
フワフワした体が、いつもより速く動いていた。
結を見て、居住区の方を示した。
居住区の方向を向いて、それから結を見て、また居住区の方向を向いた。
結はすぐに走った。
居住区に入ると、芽衣の泣き声がした。
激しい泣き声だった。
普段の泣き声と違った。
高くて、切れ目のない泣き声だった。
結は芽衣の傍に行って、顔を確認した。
顔が赤かった。
額に手を当てた。
熱かった。
産まれて三日で、熱を出した。
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結は冷静に動いた。
感情が揺れたのは、ほんの一瞬だった。
その一瞬の後、やることを考えた。
熱を下げる。原因を探す。
異能で、芽衣の体の状態を確かめた。
感染ではなかった。
産まれたばかりの体が、外の環境に慣れようとしている過程で、体温が上がっていた。
よくあることだと、本に書いてあった気がした。
でも、よくあることでも、小さな体には負担だった。
結は芽衣の体温を、少しずつ下げるように異能を使った。
急に下げてはいけなかった。
ゆっくりと、丁寧に。
体が自分で調整できるように、少しだけ手伝う形で。
一時間かかった。
芽衣の体温が、落ち着いてきた。
泣き声が、普段の泣き声に戻った。
それから眠った。
結は芽衣の傍に座って、呼吸を確認し続けた。
安定していた。
規則的だった。
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マユが傍に来た。
芽衣を見て、それから結を見た。
結はマユを見た。
「よく知らせてくれました」
マユが頭を下げた。
「あなたがいなかったら、気づくのが遅れていました」
マユから伝わってきた感触は、照れに近いものだった。
結はそれを受け取って、少し目を細めた。
初めて、マユに対してそういう表情をしたかもしれなかった。
自分では気づかなかった。
でも、確かに目が細まっていた。
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芽衣が一ヶ月になった日、結は地下に降りた。
次の子を宿す準備をするためだった。
計画では、一年に一人だった。最初の子が産まれてから、次を宿すまでに時間が必要だった。でも、一年後に産まれるためには、今から動かなければならなかった。
根の先を確認した。
最初の子が育っていた場所は、今は空になっていた。根の先が、また静かになっていた。
準備ができている、という感触があった。
母体樹が、次を待っていた。
結は根に手を当てた。
「次は男の子です」
言った。
根が動いた。
「また、お願いします」
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二人目の父親の血は、すでに持っていた。
書店で本を選んでいた人の血だった。
結は自分の血と合わせて、根に渡した。
根が受け取った。
静かに、ゆっくりと受け取った。
「よろしくお願いします」
言って、地下を出た。
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芽衣が、最初に笑ったのは、二ヶ月目のことだった。
結が顔を近づけた時だった。
芽衣の口の端が、上に引っ張られた。
笑っていた。
反射的な笑いだと、本に書いてあった。まだ感情からの笑いではない、と。
でも、結はそれを見て、動けなくなった。
一瞬だった。
でも確かに、動けなかった。
芽衣が笑っていた。
こんなに小さい顔で、笑っていた。
結は自分が何を感じているかを、すぐには言葉にできなかった。
感動、という言葉が浮かんだ。でも違う気がした。
もっと単純なものだった。
嬉しい、という言葉が浮かんだ。
それが、正確だった。
嬉しかった。
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マユは芽衣のことを、よく見ていた。
結が本土に出ている間、マユは芽衣の傍にいた。
芽衣が泣けば、傍に寄った。体を寄せて、温かさを伝えようとした。
芽衣が眠れば、傍に座って見ていた。
結が島に帰ると、マユは必ず報告した。
言葉ではなく、感触で。
*今日は機嫌がよかった。*
*二度泣いたが、すぐ落ち着いた。*
*昼によく眠った。*
結はその報告を受け取って、毎回同じように言った。
「ありがとう」
マユが頭を下げる。
それが習慣になった。
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芽衣が四ヶ月になった頃、根の先にまた膨らみができた。
結は地下に降りて、それを確認した。
小さな膨らみ。
最初の子の時と同じだった。でも今回は、最初の子の時より、見る目が違った。
これが何になるかを、知っていた。
十月十日後に、芽衣の弟になる。
結は膨らみを見ながら、そのことを思った。
芽衣の弟。
まだ形もない。でも、弟になる。
二人の子が、この島で育つ。
根に手を当てた。
温かかった。
「よろしくお願いします」
今回は、最初の時よりも、声が少し柔らかかった。
自分では気づかなかった。
でも、柔らかかった。
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芽衣が七ヶ月になった。
島での生活に、少しずつリズムができてきた。
朝、白湯を飲む。芽衣の様子を確認する。地下に降りる。根の先を確認する。地上に戻る。畑を見る。果樹園を見る。
昼、食事を作る。芽衣と過ごす。
夜、囲炉裏の前で記録帳を書く。
それが、結の一日だった。
本土には、週に二、三度出た。仕事のため、あるいは三人目の父親の候補を探すために。
本土に出ている間は、マユが芽衣を見ていた。
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ある夜、芽衣が眠らなかった。
泣くわけでもなかった。熱もなかった。
ただ、眠らなかった。
結は芽衣を抱いて、縁側に出た。
夜の島は静かだった。
湖が月を映していた。母体樹が、暗い中に大きく立っていた。
芽衣が、目を開けたまま、空を見ていた。
月を見ていた。
七ヶ月の子が、月を見ていた。
何を思っているか、分からなかった。
でも確かに、見ていた。
結も空を見た。
同じ月を見た。
しばらく、二人で空を見ていた。
芽衣が、小さな声を出した。
泣き声ではなかった。
何かを言おうとしているような、声だった。
当然、言葉にはならなかった。でも、音が出た。
結はその音を聞いた。
「どうしましたか」
聞いてみた。
芽衣は答えなかった。でも、結の顔を見た。
月から目を離して、結を見た。
結は芽衣の顔を見た。
黒い目が、結を見ていた。
何かを伝えようとしているような目だった。
でも何かは分からなかった。
「まだ話せないですね」
結が言った。
芽衣が口を動かした。
音が出た。
それだけだった。
結はしばらく芽衣を見て、また空を見た。
月が動いていた。
ゆっくりと、でも確かに動いていた。
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芽衣が十ヶ月になった頃、立とうとし始めた。
居住区の壁に手をついて、ゆっくりと体を持ち上げようとした。
何度も転んだ。
転ぶたびに、少し困ったような顔をした。
泣かなかった。
また手をついて、持ち上げようとした。
結はその様子を、少し離れたところから見ていた。
手を貸さなかった。
貸したいという気持ちが、なかったわけではなかった。でも、必要ではないと判断した。
芽衣には、自分でできる力があった。
時間をかけながら、繰り返しながら、少しずつできるようになっていく。
それを、見ていた。
七度目か八度目に、芽衣が立った。
一秒か二秒、立っていた。
それから、また転んだ。
でも、立った。
結は何も言わなかった。
でも、胸の中で何かが動いた。
小さく、でも確かに動いた。
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芽衣が十一ヶ月になった頃、根の先の膨らみが大きくなっていた。
産まれるまで、あと一ヶ月ほどだった。
結は地下で、膨らみを確認した。
膜の中に、羊水。
羊水の中に、丸くなった胎児が見えた。
頭があった。手があった。足があった。
よく動いていた。
最初の子の時より、動きが活発だった気がした。
性格が出ているのかもしれないと、思った。
「元気ですね」
根に話しかけた。
根が動いた。
「もう少しです」
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根の先の膨らみが産まれる三日前、結は記録帳を開いた。
今回は名前を、事前に考えていた。
男の子だと、十二週の時に分かっていた。
候補を書き出した。
> *湊。海に囲まれた島で産まれるから。*
> *樹。母体樹から産まれるから。*
> *遥。遠く広がっていくから。*
三つ書いて、読み返した。
どれも悪くなかった。
でも、顔を見てから決める、と最初の子の時に思った。
今回も、そうしようと思った。
記録帳を閉じた。
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産まれる日の朝、今回も目が覚めた瞬間に分かった。
でも今回は、芽衣を起こさないように、静かに動いた。
芽衣はまだ眠っていた。
マユに目配せした。
マユが頷いた。
芽衣を頼む、という意味だった。
マユが頷いたのは、分かった、という意味だった。
結は地下への入口へ向かった。
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地下の光が、今日も明るかった。
温かみのある光が、空間全体に満ちていた。
根の先の膨らみが、大きくなっていた。
膜の中に、はっきりとした形が見えた。
前回より、少し大きかった。
活発に動いていた。
結は膨らみの前に立った。
今回も、手が震えていた。
最初の子の時と同じだった。
慣れないものだと思った。でも、慣れなくていいとも思った。
これは慣れてはいけない瞬間かもしれなかった。
根と膜の繋ぎ目に、手を当てた。
ゆっくりと、丁寧に、切り離した。
膜が、やぶれた。
羊水が流れた。
声が響いた。
最初の子より、大きな声だった。
元気だった。
結は両手を差し伸べた。
その子が、来た。
重かった。
温かかった。
前回と同じだった。でも、重さが違った。少し重かった。
泣いていた。
大きな声で、元気よく泣いていた。
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結は、その子の顔を見た。
丸い顔だった。
芽衣より、少し丸い顔だった。
眉が、少し濃かった。
泣きながら、手を動かしていた。
力が強かった。
結の指を、その手が掴んだ。
小さな手が、結の指を、しっかりと掴んでいた。
離さなかった。
結は指を掴まれたまま、その子の顔を見た。
目が、少し開いた。
黒かった。
芽衣と同じ色だった。
でも、何か違った。
強さが、あった。
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地上に出ると、マユと芽衣がいた。
芽衣は起きていた。
マユに支えられながら、入口の前に立っていた。
結が出てくると、芽衣が顔を上げた。
結の腕の中にいる子を見た。
しばらく見ていた。
それから、手を伸ばした。
触れたかったのだと、分かった。
結は芽衣の高さに合わせて、少し屈んだ。
芽衣の手が、その子の頬に触れた。
そっと触れた。
芽衣の顔が、不思議そうだった。
この子は何だろう、という顔だった。
「あなたの弟です」
結が言った。
芽衣は結を見た。意味は分からなかっただろう。
でも、また弟の顔を見た。
興味があるようだった。
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その夜、囲炉裏の前で、二人を見ていた。
芽衣は眠っていた。
弟は、まだ眠らなかった。
目を開けて、天井を見ていた。
炎の光を、見ていた。
オレンジ色の光が、その子の目に映っていた。
結はその子の顔を見た。
名前を考えた。
湊。樹。遥。
三つの候補が、頭にあった。
その子の顔を見た。
丸くて、眉が濃くて、手の力が強い顔を見た。
遥、ではなかった。
湊、でもなかった。
「樹」
声に出した。
その子が、結を見た。
名前を呼ばれた瞬間、目が結の方を向いた。
偶然かもしれなかった。
でも、そう見えた。
「樹」
もう一度呼んだ。
その子が、小さく声を出した。
泣き声ではなかった。
返事のような声だった。
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記録帳を開いた。
> *長男、産まれる。*
> *元気だった。声が大きかった。力が強かった。*
> *芽衣が弟の顔を触った。*
> *名前は、樹。*
書いてから、次の行を書いた。
> *これで、二人になった。*
それから、少し止まって、書いた。
> *島に、声が二つになった。*
ペンを置いた。
樹が、眠り始めていた。
規則的な呼吸になっていた。
結はその呼吸を聞きながら、炎を見た。
二人の子が、ここで眠っている。
一年前、この場所には何もなかった。
自分一人と、マユだけがいた。
今は、芽衣がいて、樹がいた。
来年、また一人産まれる。
その次の年も。
百年後まで。
結は炎を見た。
揺れていた。
大きくなったり、小さくなったりしながら、でも消えずに揺れていた。
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深夜、芽衣が目を覚ました。
泣き声が上がった。
樹も起きた。
二人が、同時に泣き始めた。
結は一瞬、どちらから先に、と思った。
芽衣の方が泣き声が先だった。
芽衣を先に抱いた。
でも樹も泣いていた。
両腕に一人ずつ抱えることを、試みた。
できた。
左腕に芽衣、右腕に樹。
二人とも抱えた。
二人分の重さだった。
一人の時より、ずっと重かった。
でも、抱えられた。
二人の泣き声が、少しずつ落ち着いてきた。
体温が伝わると、落ち着いてくる。
それは最初の子の時から知っていた。
両腕に体温を伝えた。
二人が、少しずつ静かになった。
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夜が明けた。
朝の光が、障子に当たっていた。
結は座ったまま、芽衣と樹を腕に抱えていた。
一晩中、その姿勢でいた。
肩が痛かった。
腕が疲れていた。
でも、下ろせなかった。
眠っているから。
芽衣が、左腕で眠っていた。
樹が、右腕で眠っていた。
二人の呼吸が、微かにずれながら、聞こえていた。
結はその呼吸を聞いていた。
疲れていた。
でも、疲れていることを、後回しにしていた。
今は、この呼吸を聞いていた。
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マユが縁側から入ってきた。
結を見て、芽衣を見て、樹を見た。
マユから伝わってきた感触は、複雑だった。
心配と、安堵と、それに何か別のものが混じっていた。
別のものが何かは、すぐには分からなかった。
でもしばらくして、分かった。
温かさ、だった。
感情としての温かさが、マユから伝わってきた。
結はそれを受け取って、少し目を伏せた。
「ありがとう」
小声で言った。
芽衣と樹を、起こさないように。
マユが頭を下げた。
それから、縁側に出て、母体樹の方を向いて座った。
見守るように。
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朝の光が、少しずつ強くなった。
湖が光を受けて、輝き始めた。
母体樹の葉が、朝の風に揺れた。
芽衣が、目を覚ました。
結の顔を見た。
それから笑った。
今度は、反射ではない笑いだった。
結を見て、結だと分かって、笑った。
結はその笑いを受け取った。
何か言おうとした。
でも、言葉が出なかった。
言葉ではないものが、胸の中にあった。
言葉にならないものが。
芽衣が手を伸ばしてきた。
結の髪に触れた。
黒い長い髪を、小さな手でつかんだ。
痛かった。
でも、離させなかった。
つかんでいなさい、と思った。
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その日の記録帳には、こう書いた。
> *昨夜、二人が同時に泣いた。*
> *両腕で抱えた。できた。*
> *朝、芽衣が笑った。*
> *樹は眠っていた。*
それから、少し止まって、書いた。
> *島に二人いると、何かが変わる。*
> *一人の時とは、何かが違う。*
> *何が違うかは、まだ分からない。*
ペンを置いた。
窓の外で、芽衣の声がした。
マユと一緒に、縁側にいるのだろう。
何かに向かって、声を出していた。
言葉ではなかった。でも、楽しそうだった。
樹が、膝の上で眠っていた。
結はその重さを感じながら、窓の外の声を聞いた。
島が、少しずつ変わっていくのを感じた。
静かだった島が、少しずつ、賑やかになっていく。
これがあと九十八回続く。
子供が増えるたびに、島が変わる。
声が増える。
重さが増える。
温かさが増える。
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記録帳を、もう一度開いた。
最後に、一行だけ書いた。
> *私は、母になっているのかもしれない。*
> *まだ、分からない。*
> *でも、なっているのかもしれない。*
ペンを置いた。
炎が揺れた。
樹が眠っていた。
芽衣の声が、外から聞こえていた。
結はしばらく、その声を聞いていた。
目を閉じた。
島の空気を、吸った。
土の匂いがした。
草の匂いがした。
木の匂いがした。
母体樹の匂いかもしれなかった。
深く吸って、ゆっくりと吐いた。
また吸った。
この匂いが、この島の匂いだと思った。
子供たちが大きくなって、島を出る日が来る。
本土の空気を吸う。本土の匂いを知る。
でも、この島の匂いを、どこかで覚えているだろうか。
覚えていてほしいと思った。
思ってから、少し驚いた。
そういうことを、自分が思うとは、思っていなかった。
でも思った。
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夕方、島全体を見回った。
畑。果樹園。湖。山。母体樹。
全部が、静かにそこにあった。
結はしばらく、母体樹の前に立った。
根元の砂地に、夕日が当たっていた。
橙色の光が、砂地を染めていた。
母体樹の影が、長く伸びていた。
結はその影の中に立った。
上を見た。
枝が広がっていた。
葉が揺れていた。
「ありがとうございます」
言った。
木は答えなかった。
でも、葉が揺れた。
「これからも、よろしくお願いします」
また言った。
また、葉が揺れた。
風はなかった。
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居住区に戻ると、芽衣が待っていた。
マユの傍で、床に座っていた。
結が入ってくると、手を伸ばした。
結の方へ、体ごと向いた。
結は芽衣の前に屈んだ。
芽衣の手が、結の頬に触れた。
小さな手が、頬を触った。
温かかった。
柔らかかった。
結はその手を、自分の手で包んだ。
芽衣が笑った。
今度は声を出して笑った。
小さな声だったが、笑い声だった。
島に、笑い声があった。
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*終章へ続く*




