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あみだくじ  作者: 有寄之蟻
第一巻 「奇跡の数え方」
10/10

奇跡の数え方 終章

---


芽衣が一歳になった日、結は山に登った。


一人だった。


芽衣は居住区でマユと一緒にいた。樹は眠っていた。


山道は、結が作った時のままだった。細い道が、木々の間を縫って上へ続いていた。落ち葉が積もっていた。踏むたびに、乾いた音がした。


登りながら、一年を思った。


芽衣が産まれた朝のこと。


地下で膜を切り離した時の、手の震えのこと。


最初の夜、眠らずに炎を見ていたこと。


熱を出した芽衣を、一時間かけて異能で下げたこと。


月を見上げた夜のこと。


芽衣が初めて笑った瞬間のこと。


樹が産まれた朝のこと。


二人を同時に抱えた夜のこと。


一つ一つを、足で踏みしめながら、思い出した。


---


山頂に着いた。


広場だった。


平らな場所が広がっていた。


草が生えていた。風が吹いていた。


周りの木が、その風に揺れていた。


結は広場の中心に立って、下を見た。


島全体が見えた。


母体樹が、中心に立っていた。


砂地の広場が、その周りに広がっていた。


畑。果樹園。湖。居住区。


全部が見えた。


小さかった。上から見ると、全部が小さく見えた。


でも確かにあった。


居住区の縁側で、何かが動いた。


マユだった。


芽衣を連れて、縁側に出たのだろう。


小さな点が、二つ、縁側に見えた。


結はそれを、しばらく見ていた。


---


広場に座った。


草の上に、直接座った。


風が髪を揺らした。


空は青かった。


雲が一つ、ゆっくりと流れていた。


結は空を見た。


この広場を、最初に作った時のことを思った。


なぜ広場にしたのか、その時はまだ言葉にしなかった。


でも今は、分かっていた。


ここは、墓地になる場所だった。


いつか、この島で生涯を終える者が出る。


その者の骨を焼き固めて、丸いプレートにする。名前と生没年を刻んで、この広場の地面に埋め込む。


まだ、その時ではなかった。


でも、いつかはくる。


結は草の上に手をついて、地面に触れた。


冷たかった。


でも、土の感触があった。


ここに、いつか誰かが眠る。


自分の子供が、孫が、その先の誰かが、ここに眠る。


結はその冷たい土に触れながら、考えた。


百年後、この広場はどうなっているだろう。


プレートが並んでいる。


名前が刻まれたプレートが、地面を埋めていく。


それは悲しいことか。


しばらく考えた。


悲しい、とは少し違った。


命が積み重なっていく場所だと思った。


続いていく場所だと思った。


---


山を降りながら、結は三人目の父親のことを考えていた。


農業の技術書を書いた人の血は、まだ手の中にあった。


次の子、三人目は女の子になる。


芽衣の妹。樹の姉。


いや、順番からいえば樹の妹だった。


芽衣、樹、そして次の子。


三人が、この島で育つ。


結は道を降りながら、その場面を想像した。


三人が広場で走り回っている場面を。


母体樹の根元で遊んでいる場面を。


湖の縁に座っている場面を。


想像しながら、口の端が少し上がった。


気づいていなかった。


でも、上がっていた。


---


居住区に戻ると、芽衣が走ってきた。


正確には、走っているとはいえなかった。


よちよちと、でも速く、結に向かってきた。


転びそうになりながら、転ばずに来た。


結の足に、抱きついた。


小さな手が、結の足にしがみついていた。


結は下を見た。


芽衣が、上を見ていた。


黒い目が、結を見ていた。


「ただいま」


結が言った。


芽衣が声を出した。


言葉ではなかった。でも、返事のような音だった。


マユが縁側から見ていた。


マユから伝わってきた感触は、一言でいえばこうだった。


*ずっと待っていました。*


芽衣が、結の足から手を離した。


また走り出した。


どこへ行くのかと思ったら、縁側に向かった。


縁側に転がっていた何かを、持ってきた。


小石だった。


丸くて、白っぽい小石だった。


それを、結に差し出した。


小さな手を、精一杯伸ばして、差し出した。


結はそれを受け取った。


「ありがとう」


言った。


芽衣が笑った。


---


その夜。


樹が眠った後、芽衣もなかなか眠らなかった。


結の傍を離れなかった。


結が動けば付いてきた。


結が座れば膝に乗ろうとした。


「どうしましたか」


聞いた。


芽衣は答えなかった。


ただ、結の膝に乗って、炎を見ていた。


結は芽衣の背中に手を当てた。


小さな背中だった。


温かかった。


呼吸が、手のひらに伝わってきた。


規則的な呼吸が。


芽衣が、結の着物の袖を掴んだ。


ぎゅっと掴んだ。


離さなかった。


結は袖を掴まれたまま、炎を見た。


何も言わなかった。


言葉は必要なかった。


ただ、一緒にいた。


しばらくして、芽衣の呼吸が変わった。


眠ったのだと分かった。


袖を掴んだまま、眠った。


結は芽衣を抱いたまま、動かなかった。


袖を離させなかった。


掴んだままでいなさい、と思った。


---


深夜、芽衣を布団に下ろした。


袖を、そっと外した。


芽衣は目を覚まさなかった。


結は芽衣の顔を、少しの間見た。


眠っていた。


穏やかな顔だった。


結はその顔を見ながら、思った。


この子が十七、八になったら、島を出る。


高校に入る年齢になったら、本土で生活させる。


それが、決めていたことだった。


今は一歳だった。


まだ十六年以上、ある。


十六年。


長いようで、短いかもしれなかった。


芽衣が島を出る日のことを、今から考えることが、少し早すぎるかもしれなかった。


でも、考えた。


その日が来た時、自分はどうするか。


送り出せるか。


答えは出なかった。


ただ、その日が来た時に、ちゃんと送り出せる自分でいたいと思った。


---


翌朝、早く目が覚めた。


まだ夜が明けていなかった。


結は静かに起き上がった。


芽衣と樹が眠っているのを確認した。


マユが縁側で丸くなっていた。


音を立てずに、外に出た。


広場に向かった。


夜明け前の島は、暗かった。


でも、母体樹が微かに光っていた。


根元の方から、ぼんやりとした光が漏れていた。


地下の根の光が、幹を通して上まで届いているのかもしれなかった。


結はその光に向かって歩いた。


砂地に足が入った。


白い砂が、暗い中でも白かった。


母体樹の前に立った。


幹に手を当てた。


温かかった。


今日も、温かかった。


---


しばらく、何も言わなかった。


言葉を探していたわけではなかった。


ただ、ここにいたかった。


夜明け前の静けさの中で、木に手を当てて、立っていたかった。


東の空が、少しずつ明るくなってきた。


湖の方から、鳥の声がした。


朝が来る前の、最初の声だった。


結は空を見た。


暗い青から、少しずつ明るくなっていく空を見た。


一年前の今頃、東京の下宿で天井を見ていた。


あの夜から、全てが始まった。


家系図の線を見た夜から。


今は、この島に立っている。


子供が二人いる。


母体樹がある。


マユがいる。


山頂に、いつか誰かが眠る広場がある。


全部が、一年前にはなかったものだった。


---


空が明るくなった。


東の湖が、朝の光を受けた。


水面が輝き始めた。


結はその光を見た。


毎朝見る光だった。


でも、毎朝違って見えた。


今日の光は、今日だけの光だった。


明日の朝の光は、また別の光だった。


それが、当たり前のことだと分かっていた。


でも、そう思うようになったのは、最近のことだった。


芽衣が笑うたびに、思った。


この笑顔は、今日だけのものだと。


樹が声を出すたびに、思った。


この声は、今だけのものだと。


全部が、今この瞬間にしかないものだった。


それを積み重ねていくことが、百年になるのだと思った。


---


居住区の方から、声がした。


芽衣が目を覚ましたのだろう。


マユが起きた気配がした。


結は母体樹から手を離した。


居住区に向かって歩き始めた。


砂地を歩いた。


草の上を歩いた。


朝露が、草の葉に光っていた。


足元が、少し湿った。


居住区が見えてきた。


縁側に、マユがいた。


芽衣を抱えて、立っていた。


芽衣が、結を見た。


両手を伸ばした。


結の方へ、体ごと向いた。


マユが、芽衣を差し出すように傾いた。


結は縁側に上がって、芽衣を受け取った。


芽衣が、結の首に手を回した。


しがみついた。


温かかった。


重かった。


---


中に入ると、樹が目を覚ましていた。


泣いていなかった。


天井を見ていた。


結が顔を近づけると、結を見た。


それから、声を出した。


何かを伝えようとしているような声だった。


「おはよう、樹」


結が言った。


樹が、口を動かした。


音が出た。


言葉ではなかった。


でも、この子はいつか言葉を覚える。


いつか、母様、と呼ぶ。


その日が来た時、自分はどう感じるだろうと思った。


---


朝食を作りながら、結は今日やることを考えた。


地下に降りて、根の先を確認する。


畑の様子を見る。


本土に出る必要があるかどうか確かめる。


三人目の子を宿すための準備を、そろそろ始める。


やることが、あった。


毎日、やることがあった。


一年前、東京の下宿で一人でいた時は、やることは仕事だけだった。


今は、やることが増えた。


でも、嫌ではなかった。


増えた分だけ、ここに自分がいる理由が増えた気がした。


---


朝食を終えた後、記録帳を開いた。


今日の日付を書いた。


それから、芽衣の一歳の記録を書いた。


> *芽衣、一歳になった。*

> *昨日、山頂の広場に登った。*

> *島全体が見えた。*

> *芽衣が縁側で待っていた。*

> *小石をくれた。*


書いてから、少し止まった。


それから、別のページを開いた。


新しいページだった。


何も書いていないページだった。


ペンを持って、考えた。


書こうと思っていたことがあった。


一年間、ずっと書けなかったことが。


ゆっくりと、書き始めた。


---


> *一年経った。*

>

> *最初の夜、芽衣を抱いて、あと九十九人と思った。*

> *今もそれは変わっていない。*

> *九十九人が、まだいる。*

>

> *でも、今日気づいたことがある。*

>

> *九十九人ではなく、芽衣が一人いる。*

> *樹が一人いる。*

> *次に産まれる子が一人いる。*

> *その次の子が一人いる。*

>

> *百人が、百人いる。*

> *一人一人が、一人だ。*

>

> *そのことを、忘れてはならない。*


---


書き終えて、読み返した。


当たり前のことを書いた、と思った。


でも、当たり前のことを忘れそうになることがある。


百人という数を見ると、一人の重さが薄れる気がした。


それは、してはならないことだと思った。


百人産んでも、その一人一人が、一人だった。


芽衣が一人いる。


それだけで充分に重い。


---


記録帳を閉じた。


芽衣が、縁側で声を出していた。


マユに向かって、何かを伝えようとしていた。


マユが首を傾けて聞いていた。


芽衣の言葉にならない言葉を、一生懸命聞こうとしていた。


結はその様子を、少しの間見た。


マユが芽衣を見る目に、確かに何かがあった。


言葉では伝えられなかったが、それは愛情に近いものだった。


自分が作った存在が、子供を見てそういう目をしている。


結は少し、不思議な気持ちになった。


不思議で、でも悪くない気持ちだった。


---


昼過ぎ、地下に降りた。


根の先を確認した。


三人目の子を宿す場所は、まだ空だった。


でも、準備はできていた。


農業の技術書を書いた人の血を、自分の血と合わせて、根に渡した。


根が受け取った。


静かに、ゆっくりと受け取った。


「よろしくお願いします」


言った。


根が動いた。


今回も、温かかった。


今回も、肯定の感触が伝わってきた。


でも、今回は少し違うものも伝わってきた。


言葉にすれば、こうなるかもしれなかった。


*分かっています。*


信頼、という感触だった。


母体樹が、結を信頼していた。


結も、母体樹を信頼していた。


その相互の信頼が、この地下空間の中にあった。


---


地上に出ると、空が広かった。


冬の空だった。


青くて、高くて、雲がほとんどなかった。


結は空を見た。


一年前の冬も、こんな空だったかもしれなかった。


でも、一年前は島がなかった。


地下がなかった。


母体樹がなかった。


芽衣も、樹も、いなかった。


マユもいなかった。


全部が、この一年でできた。


---


夕方、砂地の広場に出た。


母体樹が、夕日を受けていた。


橙色の光が、幹に当たっていた。


葉が、その光の中で輝いていた。


結は砂地に座った。


広場の中心に、座った。


母体樹を見上げた。


大きかった。


最初に植えた時から、さらに大きくなっていた。


幹が太くなっていた。


根が、砂地の上にさらに広がっていた。


枝が、前より多くなっていた。


育っていた。


---


マユが来た。


芽衣を連れていた。


芽衣がよちよちと歩いて、砂地に入ってきた。


砂の感触が、足に伝わるのだろう。


立ち止まって、下を見た。


砂を触った。


手で掴もうとして、指の間からこぼれた。


不思議そうな顔をした。


また掴もうとした。


また、こぼれた。


それを繰り返していた。


結はその様子を見た。


飽きないのかと思った。


でも、飽きなかった。


何度も、掴もうとして、こぼれた。


---


芽衣が顔を上げた。


母体樹を見た。


大きな木を、見上げた。


しばらく見ていた。


それから、木に向かって歩き始めた。


よちよちと、でも真っすぐに。


幹の前まで来た。


手を伸ばした。


幹に、触れた。


小さな手が、大きな幹に触れた。


芽衣は手を当てたまま、幹を見た。


何を感じているか、分からなかった。


でも、離さなかった。


しばらく、そのまま触れていた。


結はその背中を見た。


---


芽衣が振り返った。


結を見た。


何か言おうとした。


言葉にはならなかった。


でも、目が言っていた。


温かい、と言っていた。


結には分かった。


母体樹が温かいことを、芽衣は感じた。


それを伝えたかったのだ。


結は頷いた。


「そうですね。温かいですね」


言った。


芽衣が笑った。


伝わった、という顔で、笑った。


---


夜、三人で囲炉裏の前にいた。


芽衣が眠る前、珍しく結の膝から離れなかった。


膝に乗って、炎を見ていた。


樹が隣で眠っていた。


マユが向かいに座っていた。


結は炎を見た。


芽衣の重さが、膝にあった。


樹の呼吸が、聞こえていた。


マユの気配が、向かいにあった。


---


炎が揺れた。


芽衣の呼吸が、変わってきた。


眠くなっている。


結は芽衣の背中に手を当てた。


小さな呼吸が、手のひらに伝わってきた。


眠れ、とは思わなかった。


眠りたい時に眠ればいい、と思った。


でも、自然に眠くなっていた。


炎が揺れた。


芽衣が、結の着物の袖を掴んだ。


昨日と同じだった。


ぎゅっと掴んで、離さなかった。


眠りながら、掴んでいた。


---


深夜になった。


芽衣を布団に下ろした。


樹の呼吸を確認した。


安定していた。


マユが縁側で丸くなっていた。


結は一人になった。


囲炉裏の前に、一人で座った。


炎を見た。


静かだった。


子供たちが眠ると、島が静かになった。


でも、最初の頃の静けさとは違った。


最初の静けさは、何もなかった。


今の静けさは、眠っているものがあった。


声が眠っていた。重さが眠っていた。温かさが眠っていた。


それが目覚めるのを、待っている静けさだった。


---


記録帳を開いた。


今日の最後の記録を書いた。


> *芽衣が母体樹に触れた。*

> *温かいと、目で言った。*

> *そうですね、と言った。*


書いてから、また少し止まった。


もう一行書いた。


> *この子は、この木を知っている。*

> *この木から産まれたから。*

> *だから、温かさが分かるのかもしれない。*


ペンを置いた。


炎を見た。


母体樹から産まれた子が、母体樹の温かさを知っている。


それは、当たり前のことのようで、とても深いことのような気がした。


自分を産んだものの温かさを、体が知っている。


人も、そうなのかもしれなかった。


母の体の温かさを、産まれる前から知っている。


だから、産まれた後も、その温かさを求める。


結は自分の母のことを、また思った。


顔を知らない母のことを。


でも、確かにその体の温かさの中にいたはずの、自分のことを。


---


炎が、小さくなってきた。


夜が深かった。


結は立ち上がって、炎を消した。


暗くなった。


でも、暗さに慣れていた。


縁側に出た。


夜の島が広がっていた。


母体樹が、暗い中に立っていた。


根元から、微かな光が漏れていた。


地下の根の光だった。


今夜も、根の先に三人目の子が宿り始めているかもしれなかった。


まだ分からなかった。


でも、根に渡したものは、確かに受け取られた。


---


空を見た。


星が出ていた。


東京では見えなかった星が、ここでは見えた。


無数にあった。


どこまでも続いていた。


結は星を見た。


ずっと昔から、この星は上にあった。


ずっと先も、上にあるだろう。


自分が百年の実験を終えた後も、上にある。


百年後の子孫が空を見た時も、同じ星がある。


同じ星の下で、命が続いていく。


それが、あの夜に感じた奇跡だった。


家系図の線を見た夜に感じた奇跡だった。


途切れずに続いてきた命が、また続いていく。


---


結は縁側に座った。


夜の空気が冷たかった。


でも、すぐに立つつもりはなかった。


星を見ていたかった。


マユが出てきた。


縁側に出て、結の傍に座った。


二人で、星を見た。


マユから何も伝わってこなかった。


ただ、一緒にいた。


それでよかった。


しばらくして、マユから何かが伝わってきた。


言葉にすれば、こうなるかもしれなかった。


*きれいですね。*


結は少し、目を細めた。


「そうですね」


答えた。


二人で、また星を見た。


---


どのくらいそうしていたか、分からなかった。


夜が深くなっていた。


結は立ち上がった。


中に入った。


布団に横になった。


目を閉じた。


芽衣の呼吸が、聞こえた。


樹の呼吸が、聞こえた。


二つの呼吸が、少しずれながら、聞こえた。


結はその呼吸を聞きながら、目を閉じていた。


眠ろうとしていたのか、聞いていたかったのか、自分でも分からなかった。


---


眠る前に、最後に一度だけ思った。


百年後、この島はどうなっているだろう。


子供たちの子供の、そのまた子供たちが、この島にいるだろう。


母体樹がさらに大きくなっているだろう。


山頂の広場に、たくさんのプレートが埋まっているだろう。


居住区が、もっと広くなっているだろう。


自分は、変わらずここにいるだろう。


百年後も、この島にいる。


子供たちを送り出して、また送り出して、また送り出して。


それでもここにいる。


それが、自分の選んだことだった。


やると決めたことをやめない。


---


芽衣の呼吸が、聞こえていた。


樹の呼吸が、聞こえていた。


結はその音を聞きながら、眠りに落ちた。


---


翌朝、夜明け前に目が覚めた。


いつも通りだった。


静かに起き上がって、縁側に出た。


空が、少しずつ明るくなっていた。


東の空が、薄く染まっていた。


結はその空を見た。


湖が、朝の光を待っていた。


母体樹が、静かに立っていた。


根元の光が、今朝も微かに漏れていた。


マユが縁側の端で丸くなっていた。


目が覚めたのか、こちらを見た。


結を見て、頭を下げた。


おはよう、という意味だと、結には分かった。


「おはようございます」


結が言った。


---


白湯を沸かした。


湯呑みを両手で包んだ。


縁側に出て、空を見ながら飲んだ。


熱かった。


少しずつ、飲んだ。


これが今日の始まりだった。


明日も、これが始まりになるだろう。


明後日も。


百年後まで。


---


白湯を飲み終えた。


湯呑みを置いた。


立ち上がった。


地下への入口に向かって、歩き始めた。


今日も根の先を確認する。


三人目が宿っているかどうか。


砂地を踏んだ。


白い砂が、朝の光を受けていた。


母体樹の幹が、傍に来た。


手を当てた。


温かかった。


今日も温かかった。


結は手を当てたまま、少しの間立った。


それから、入口に向かって歩いた。


---


扉を開けた。


階段を降りた。


根の光が、今朝も満ちていた。


最後の段を降りた。


広い空間に出た。


根を見た。


太い根。細い根。縦横に走る根。


その先を探した。


あった。


米粒ほどの、小さな膨らみが、根の先に見えた。


結は近づいた。


屈んで、顔を近づけた。


中に、何かがあった。


まだ形はなかった。でも、確かにあった。


動いていた。


ほんのわずかに、でも動いていた。


---


結は根に手を当てた。


「いましたか」


言った。


根が動いた。


温かくなった。


結は屈んだまま、その膨らみを見た。


三人目だった。


芽衣の次。樹の次。


この子は、どんな子だろう。


どんな顔をしているだろう。


どんな性質を持つだろう。


十月十日後に、分かる。


---


ゆっくりと立ち上がった。


根に手を当てたまま、言った。


「よろしくお願いします」


根が動いた。


*分かっています。*


その感触が、伝わってきた。


結は手を離した。


地下を出た。


---


地上に出ると、空が明るくなっていた。


湖が光を受けて、輝いていた。


母体樹の葉が、朝の風に揺れていた。


居住区から、声がした。


芽衣が目を覚ましたのだろう。


マユが動く気配がした。


結は歩き出した。


砂地を抜けて、草の上を歩いた。


朝露が、足元を濡らした。


居住区が見えてきた。


縁側に、マユがいた。


芽衣を抱えて、結を見ていた。


芽衣が、結を見た。


両手を伸ばした。


---


結は縁側に上がった。


芽衣を受け取った。


重かった。


温かかった。


芽衣が、結の首に手を回した。


しがみついた。


結はその重さを感じながら、空を見た。


青くなってきた空を。


これが今日だった。


昨日と似ていて、でも今日だけの今日だった。


この子の今日だった。


自分の今日だった。


---


第一巻「奇跡の数え方」 了

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