奇跡の数え方 終章
---
芽衣が一歳になった日、結は山に登った。
一人だった。
芽衣は居住区でマユと一緒にいた。樹は眠っていた。
山道は、結が作った時のままだった。細い道が、木々の間を縫って上へ続いていた。落ち葉が積もっていた。踏むたびに、乾いた音がした。
登りながら、一年を思った。
芽衣が産まれた朝のこと。
地下で膜を切り離した時の、手の震えのこと。
最初の夜、眠らずに炎を見ていたこと。
熱を出した芽衣を、一時間かけて異能で下げたこと。
月を見上げた夜のこと。
芽衣が初めて笑った瞬間のこと。
樹が産まれた朝のこと。
二人を同時に抱えた夜のこと。
一つ一つを、足で踏みしめながら、思い出した。
---
山頂に着いた。
広場だった。
平らな場所が広がっていた。
草が生えていた。風が吹いていた。
周りの木が、その風に揺れていた。
結は広場の中心に立って、下を見た。
島全体が見えた。
母体樹が、中心に立っていた。
砂地の広場が、その周りに広がっていた。
畑。果樹園。湖。居住区。
全部が見えた。
小さかった。上から見ると、全部が小さく見えた。
でも確かにあった。
居住区の縁側で、何かが動いた。
マユだった。
芽衣を連れて、縁側に出たのだろう。
小さな点が、二つ、縁側に見えた。
結はそれを、しばらく見ていた。
---
広場に座った。
草の上に、直接座った。
風が髪を揺らした。
空は青かった。
雲が一つ、ゆっくりと流れていた。
結は空を見た。
この広場を、最初に作った時のことを思った。
なぜ広場にしたのか、その時はまだ言葉にしなかった。
でも今は、分かっていた。
ここは、墓地になる場所だった。
いつか、この島で生涯を終える者が出る。
その者の骨を焼き固めて、丸いプレートにする。名前と生没年を刻んで、この広場の地面に埋め込む。
まだ、その時ではなかった。
でも、いつかはくる。
結は草の上に手をついて、地面に触れた。
冷たかった。
でも、土の感触があった。
ここに、いつか誰かが眠る。
自分の子供が、孫が、その先の誰かが、ここに眠る。
結はその冷たい土に触れながら、考えた。
百年後、この広場はどうなっているだろう。
プレートが並んでいる。
名前が刻まれたプレートが、地面を埋めていく。
それは悲しいことか。
しばらく考えた。
悲しい、とは少し違った。
命が積み重なっていく場所だと思った。
続いていく場所だと思った。
---
山を降りながら、結は三人目の父親のことを考えていた。
農業の技術書を書いた人の血は、まだ手の中にあった。
次の子、三人目は女の子になる。
芽衣の妹。樹の姉。
いや、順番からいえば樹の妹だった。
芽衣、樹、そして次の子。
三人が、この島で育つ。
結は道を降りながら、その場面を想像した。
三人が広場で走り回っている場面を。
母体樹の根元で遊んでいる場面を。
湖の縁に座っている場面を。
想像しながら、口の端が少し上がった。
気づいていなかった。
でも、上がっていた。
---
居住区に戻ると、芽衣が走ってきた。
正確には、走っているとはいえなかった。
よちよちと、でも速く、結に向かってきた。
転びそうになりながら、転ばずに来た。
結の足に、抱きついた。
小さな手が、結の足にしがみついていた。
結は下を見た。
芽衣が、上を見ていた。
黒い目が、結を見ていた。
「ただいま」
結が言った。
芽衣が声を出した。
言葉ではなかった。でも、返事のような音だった。
マユが縁側から見ていた。
マユから伝わってきた感触は、一言でいえばこうだった。
*ずっと待っていました。*
芽衣が、結の足から手を離した。
また走り出した。
どこへ行くのかと思ったら、縁側に向かった。
縁側に転がっていた何かを、持ってきた。
小石だった。
丸くて、白っぽい小石だった。
それを、結に差し出した。
小さな手を、精一杯伸ばして、差し出した。
結はそれを受け取った。
「ありがとう」
言った。
芽衣が笑った。
---
その夜。
樹が眠った後、芽衣もなかなか眠らなかった。
結の傍を離れなかった。
結が動けば付いてきた。
結が座れば膝に乗ろうとした。
「どうしましたか」
聞いた。
芽衣は答えなかった。
ただ、結の膝に乗って、炎を見ていた。
結は芽衣の背中に手を当てた。
小さな背中だった。
温かかった。
呼吸が、手のひらに伝わってきた。
規則的な呼吸が。
芽衣が、結の着物の袖を掴んだ。
ぎゅっと掴んだ。
離さなかった。
結は袖を掴まれたまま、炎を見た。
何も言わなかった。
言葉は必要なかった。
ただ、一緒にいた。
しばらくして、芽衣の呼吸が変わった。
眠ったのだと分かった。
袖を掴んだまま、眠った。
結は芽衣を抱いたまま、動かなかった。
袖を離させなかった。
掴んだままでいなさい、と思った。
---
深夜、芽衣を布団に下ろした。
袖を、そっと外した。
芽衣は目を覚まさなかった。
結は芽衣の顔を、少しの間見た。
眠っていた。
穏やかな顔だった。
結はその顔を見ながら、思った。
この子が十七、八になったら、島を出る。
高校に入る年齢になったら、本土で生活させる。
それが、決めていたことだった。
今は一歳だった。
まだ十六年以上、ある。
十六年。
長いようで、短いかもしれなかった。
芽衣が島を出る日のことを、今から考えることが、少し早すぎるかもしれなかった。
でも、考えた。
その日が来た時、自分はどうするか。
送り出せるか。
答えは出なかった。
ただ、その日が来た時に、ちゃんと送り出せる自分でいたいと思った。
---
翌朝、早く目が覚めた。
まだ夜が明けていなかった。
結は静かに起き上がった。
芽衣と樹が眠っているのを確認した。
マユが縁側で丸くなっていた。
音を立てずに、外に出た。
広場に向かった。
夜明け前の島は、暗かった。
でも、母体樹が微かに光っていた。
根元の方から、ぼんやりとした光が漏れていた。
地下の根の光が、幹を通して上まで届いているのかもしれなかった。
結はその光に向かって歩いた。
砂地に足が入った。
白い砂が、暗い中でも白かった。
母体樹の前に立った。
幹に手を当てた。
温かかった。
今日も、温かかった。
---
しばらく、何も言わなかった。
言葉を探していたわけではなかった。
ただ、ここにいたかった。
夜明け前の静けさの中で、木に手を当てて、立っていたかった。
東の空が、少しずつ明るくなってきた。
湖の方から、鳥の声がした。
朝が来る前の、最初の声だった。
結は空を見た。
暗い青から、少しずつ明るくなっていく空を見た。
一年前の今頃、東京の下宿で天井を見ていた。
あの夜から、全てが始まった。
家系図の線を見た夜から。
今は、この島に立っている。
子供が二人いる。
母体樹がある。
マユがいる。
山頂に、いつか誰かが眠る広場がある。
全部が、一年前にはなかったものだった。
---
空が明るくなった。
東の湖が、朝の光を受けた。
水面が輝き始めた。
結はその光を見た。
毎朝見る光だった。
でも、毎朝違って見えた。
今日の光は、今日だけの光だった。
明日の朝の光は、また別の光だった。
それが、当たり前のことだと分かっていた。
でも、そう思うようになったのは、最近のことだった。
芽衣が笑うたびに、思った。
この笑顔は、今日だけのものだと。
樹が声を出すたびに、思った。
この声は、今だけのものだと。
全部が、今この瞬間にしかないものだった。
それを積み重ねていくことが、百年になるのだと思った。
---
居住区の方から、声がした。
芽衣が目を覚ましたのだろう。
マユが起きた気配がした。
結は母体樹から手を離した。
居住区に向かって歩き始めた。
砂地を歩いた。
草の上を歩いた。
朝露が、草の葉に光っていた。
足元が、少し湿った。
居住区が見えてきた。
縁側に、マユがいた。
芽衣を抱えて、立っていた。
芽衣が、結を見た。
両手を伸ばした。
結の方へ、体ごと向いた。
マユが、芽衣を差し出すように傾いた。
結は縁側に上がって、芽衣を受け取った。
芽衣が、結の首に手を回した。
しがみついた。
温かかった。
重かった。
---
中に入ると、樹が目を覚ましていた。
泣いていなかった。
天井を見ていた。
結が顔を近づけると、結を見た。
それから、声を出した。
何かを伝えようとしているような声だった。
「おはよう、樹」
結が言った。
樹が、口を動かした。
音が出た。
言葉ではなかった。
でも、この子はいつか言葉を覚える。
いつか、母様、と呼ぶ。
その日が来た時、自分はどう感じるだろうと思った。
---
朝食を作りながら、結は今日やることを考えた。
地下に降りて、根の先を確認する。
畑の様子を見る。
本土に出る必要があるかどうか確かめる。
三人目の子を宿すための準備を、そろそろ始める。
やることが、あった。
毎日、やることがあった。
一年前、東京の下宿で一人でいた時は、やることは仕事だけだった。
今は、やることが増えた。
でも、嫌ではなかった。
増えた分だけ、ここに自分がいる理由が増えた気がした。
---
朝食を終えた後、記録帳を開いた。
今日の日付を書いた。
それから、芽衣の一歳の記録を書いた。
> *芽衣、一歳になった。*
> *昨日、山頂の広場に登った。*
> *島全体が見えた。*
> *芽衣が縁側で待っていた。*
> *小石をくれた。*
書いてから、少し止まった。
それから、別のページを開いた。
新しいページだった。
何も書いていないページだった。
ペンを持って、考えた。
書こうと思っていたことがあった。
一年間、ずっと書けなかったことが。
ゆっくりと、書き始めた。
---
> *一年経った。*
>
> *最初の夜、芽衣を抱いて、あと九十九人と思った。*
> *今もそれは変わっていない。*
> *九十九人が、まだいる。*
>
> *でも、今日気づいたことがある。*
>
> *九十九人ではなく、芽衣が一人いる。*
> *樹が一人いる。*
> *次に産まれる子が一人いる。*
> *その次の子が一人いる。*
>
> *百人が、百人いる。*
> *一人一人が、一人だ。*
>
> *そのことを、忘れてはならない。*
---
書き終えて、読み返した。
当たり前のことを書いた、と思った。
でも、当たり前のことを忘れそうになることがある。
百人という数を見ると、一人の重さが薄れる気がした。
それは、してはならないことだと思った。
百人産んでも、その一人一人が、一人だった。
芽衣が一人いる。
それだけで充分に重い。
---
記録帳を閉じた。
芽衣が、縁側で声を出していた。
マユに向かって、何かを伝えようとしていた。
マユが首を傾けて聞いていた。
芽衣の言葉にならない言葉を、一生懸命聞こうとしていた。
結はその様子を、少しの間見た。
マユが芽衣を見る目に、確かに何かがあった。
言葉では伝えられなかったが、それは愛情に近いものだった。
自分が作った存在が、子供を見てそういう目をしている。
結は少し、不思議な気持ちになった。
不思議で、でも悪くない気持ちだった。
---
昼過ぎ、地下に降りた。
根の先を確認した。
三人目の子を宿す場所は、まだ空だった。
でも、準備はできていた。
農業の技術書を書いた人の血を、自分の血と合わせて、根に渡した。
根が受け取った。
静かに、ゆっくりと受け取った。
「よろしくお願いします」
言った。
根が動いた。
今回も、温かかった。
今回も、肯定の感触が伝わってきた。
でも、今回は少し違うものも伝わってきた。
言葉にすれば、こうなるかもしれなかった。
*分かっています。*
信頼、という感触だった。
母体樹が、結を信頼していた。
結も、母体樹を信頼していた。
その相互の信頼が、この地下空間の中にあった。
---
地上に出ると、空が広かった。
冬の空だった。
青くて、高くて、雲がほとんどなかった。
結は空を見た。
一年前の冬も、こんな空だったかもしれなかった。
でも、一年前は島がなかった。
地下がなかった。
母体樹がなかった。
芽衣も、樹も、いなかった。
マユもいなかった。
全部が、この一年でできた。
---
夕方、砂地の広場に出た。
母体樹が、夕日を受けていた。
橙色の光が、幹に当たっていた。
葉が、その光の中で輝いていた。
結は砂地に座った。
広場の中心に、座った。
母体樹を見上げた。
大きかった。
最初に植えた時から、さらに大きくなっていた。
幹が太くなっていた。
根が、砂地の上にさらに広がっていた。
枝が、前より多くなっていた。
育っていた。
---
マユが来た。
芽衣を連れていた。
芽衣がよちよちと歩いて、砂地に入ってきた。
砂の感触が、足に伝わるのだろう。
立ち止まって、下を見た。
砂を触った。
手で掴もうとして、指の間からこぼれた。
不思議そうな顔をした。
また掴もうとした。
また、こぼれた。
それを繰り返していた。
結はその様子を見た。
飽きないのかと思った。
でも、飽きなかった。
何度も、掴もうとして、こぼれた。
---
芽衣が顔を上げた。
母体樹を見た。
大きな木を、見上げた。
しばらく見ていた。
それから、木に向かって歩き始めた。
よちよちと、でも真っすぐに。
幹の前まで来た。
手を伸ばした。
幹に、触れた。
小さな手が、大きな幹に触れた。
芽衣は手を当てたまま、幹を見た。
何を感じているか、分からなかった。
でも、離さなかった。
しばらく、そのまま触れていた。
結はその背中を見た。
---
芽衣が振り返った。
結を見た。
何か言おうとした。
言葉にはならなかった。
でも、目が言っていた。
温かい、と言っていた。
結には分かった。
母体樹が温かいことを、芽衣は感じた。
それを伝えたかったのだ。
結は頷いた。
「そうですね。温かいですね」
言った。
芽衣が笑った。
伝わった、という顔で、笑った。
---
夜、三人で囲炉裏の前にいた。
芽衣が眠る前、珍しく結の膝から離れなかった。
膝に乗って、炎を見ていた。
樹が隣で眠っていた。
マユが向かいに座っていた。
結は炎を見た。
芽衣の重さが、膝にあった。
樹の呼吸が、聞こえていた。
マユの気配が、向かいにあった。
---
炎が揺れた。
芽衣の呼吸が、変わってきた。
眠くなっている。
結は芽衣の背中に手を当てた。
小さな呼吸が、手のひらに伝わってきた。
眠れ、とは思わなかった。
眠りたい時に眠ればいい、と思った。
でも、自然に眠くなっていた。
炎が揺れた。
芽衣が、結の着物の袖を掴んだ。
昨日と同じだった。
ぎゅっと掴んで、離さなかった。
眠りながら、掴んでいた。
---
深夜になった。
芽衣を布団に下ろした。
樹の呼吸を確認した。
安定していた。
マユが縁側で丸くなっていた。
結は一人になった。
囲炉裏の前に、一人で座った。
炎を見た。
静かだった。
子供たちが眠ると、島が静かになった。
でも、最初の頃の静けさとは違った。
最初の静けさは、何もなかった。
今の静けさは、眠っているものがあった。
声が眠っていた。重さが眠っていた。温かさが眠っていた。
それが目覚めるのを、待っている静けさだった。
---
記録帳を開いた。
今日の最後の記録を書いた。
> *芽衣が母体樹に触れた。*
> *温かいと、目で言った。*
> *そうですね、と言った。*
書いてから、また少し止まった。
もう一行書いた。
> *この子は、この木を知っている。*
> *この木から産まれたから。*
> *だから、温かさが分かるのかもしれない。*
ペンを置いた。
炎を見た。
母体樹から産まれた子が、母体樹の温かさを知っている。
それは、当たり前のことのようで、とても深いことのような気がした。
自分を産んだものの温かさを、体が知っている。
人も、そうなのかもしれなかった。
母の体の温かさを、産まれる前から知っている。
だから、産まれた後も、その温かさを求める。
結は自分の母のことを、また思った。
顔を知らない母のことを。
でも、確かにその体の温かさの中にいたはずの、自分のことを。
---
炎が、小さくなってきた。
夜が深かった。
結は立ち上がって、炎を消した。
暗くなった。
でも、暗さに慣れていた。
縁側に出た。
夜の島が広がっていた。
母体樹が、暗い中に立っていた。
根元から、微かな光が漏れていた。
地下の根の光だった。
今夜も、根の先に三人目の子が宿り始めているかもしれなかった。
まだ分からなかった。
でも、根に渡したものは、確かに受け取られた。
---
空を見た。
星が出ていた。
東京では見えなかった星が、ここでは見えた。
無数にあった。
どこまでも続いていた。
結は星を見た。
ずっと昔から、この星は上にあった。
ずっと先も、上にあるだろう。
自分が百年の実験を終えた後も、上にある。
百年後の子孫が空を見た時も、同じ星がある。
同じ星の下で、命が続いていく。
それが、あの夜に感じた奇跡だった。
家系図の線を見た夜に感じた奇跡だった。
途切れずに続いてきた命が、また続いていく。
---
結は縁側に座った。
夜の空気が冷たかった。
でも、すぐに立つつもりはなかった。
星を見ていたかった。
マユが出てきた。
縁側に出て、結の傍に座った。
二人で、星を見た。
マユから何も伝わってこなかった。
ただ、一緒にいた。
それでよかった。
しばらくして、マユから何かが伝わってきた。
言葉にすれば、こうなるかもしれなかった。
*きれいですね。*
結は少し、目を細めた。
「そうですね」
答えた。
二人で、また星を見た。
---
どのくらいそうしていたか、分からなかった。
夜が深くなっていた。
結は立ち上がった。
中に入った。
布団に横になった。
目を閉じた。
芽衣の呼吸が、聞こえた。
樹の呼吸が、聞こえた。
二つの呼吸が、少しずれながら、聞こえた。
結はその呼吸を聞きながら、目を閉じていた。
眠ろうとしていたのか、聞いていたかったのか、自分でも分からなかった。
---
眠る前に、最後に一度だけ思った。
百年後、この島はどうなっているだろう。
子供たちの子供の、そのまた子供たちが、この島にいるだろう。
母体樹がさらに大きくなっているだろう。
山頂の広場に、たくさんのプレートが埋まっているだろう。
居住区が、もっと広くなっているだろう。
自分は、変わらずここにいるだろう。
百年後も、この島にいる。
子供たちを送り出して、また送り出して、また送り出して。
それでもここにいる。
それが、自分の選んだことだった。
やると決めたことをやめない。
---
芽衣の呼吸が、聞こえていた。
樹の呼吸が、聞こえていた。
結はその音を聞きながら、眠りに落ちた。
---
翌朝、夜明け前に目が覚めた。
いつも通りだった。
静かに起き上がって、縁側に出た。
空が、少しずつ明るくなっていた。
東の空が、薄く染まっていた。
結はその空を見た。
湖が、朝の光を待っていた。
母体樹が、静かに立っていた。
根元の光が、今朝も微かに漏れていた。
マユが縁側の端で丸くなっていた。
目が覚めたのか、こちらを見た。
結を見て、頭を下げた。
おはよう、という意味だと、結には分かった。
「おはようございます」
結が言った。
---
白湯を沸かした。
湯呑みを両手で包んだ。
縁側に出て、空を見ながら飲んだ。
熱かった。
少しずつ、飲んだ。
これが今日の始まりだった。
明日も、これが始まりになるだろう。
明後日も。
百年後まで。
---
白湯を飲み終えた。
湯呑みを置いた。
立ち上がった。
地下への入口に向かって、歩き始めた。
今日も根の先を確認する。
三人目が宿っているかどうか。
砂地を踏んだ。
白い砂が、朝の光を受けていた。
母体樹の幹が、傍に来た。
手を当てた。
温かかった。
今日も温かかった。
結は手を当てたまま、少しの間立った。
それから、入口に向かって歩いた。
---
扉を開けた。
階段を降りた。
根の光が、今朝も満ちていた。
最後の段を降りた。
広い空間に出た。
根を見た。
太い根。細い根。縦横に走る根。
その先を探した。
あった。
米粒ほどの、小さな膨らみが、根の先に見えた。
結は近づいた。
屈んで、顔を近づけた。
中に、何かがあった。
まだ形はなかった。でも、確かにあった。
動いていた。
ほんのわずかに、でも動いていた。
---
結は根に手を当てた。
「いましたか」
言った。
根が動いた。
温かくなった。
結は屈んだまま、その膨らみを見た。
三人目だった。
芽衣の次。樹の次。
この子は、どんな子だろう。
どんな顔をしているだろう。
どんな性質を持つだろう。
十月十日後に、分かる。
---
ゆっくりと立ち上がった。
根に手を当てたまま、言った。
「よろしくお願いします」
根が動いた。
*分かっています。*
その感触が、伝わってきた。
結は手を離した。
地下を出た。
---
地上に出ると、空が明るくなっていた。
湖が光を受けて、輝いていた。
母体樹の葉が、朝の風に揺れていた。
居住区から、声がした。
芽衣が目を覚ましたのだろう。
マユが動く気配がした。
結は歩き出した。
砂地を抜けて、草の上を歩いた。
朝露が、足元を濡らした。
居住区が見えてきた。
縁側に、マユがいた。
芽衣を抱えて、結を見ていた。
芽衣が、結を見た。
両手を伸ばした。
---
結は縁側に上がった。
芽衣を受け取った。
重かった。
温かかった。
芽衣が、結の首に手を回した。
しがみついた。
結はその重さを感じながら、空を見た。
青くなってきた空を。
これが今日だった。
昨日と似ていて、でも今日だけの今日だった。
この子の今日だった。
自分の今日だった。
---
第一巻「奇跡の数え方」 了




