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あみだくじ  作者: 有寄之蟻
第一巻 「奇跡の数え方」
8/10

第七章 父親を選ぶ

---


根に膨らみができてから、結の日常は二つに分かれた。


一つは、本土での生活。


出版社の仕事。下宿での夜。図書館への往来。変わらない東京の日常。


もう一つは、島での生活。


毎朝地下に降りて、根の先を確認する。畑の様子を見る。果樹園の木の育ちを確かめる。マユと共に過ごす。そして夜、囲炉裏の前で記録帳を書く。


二つの生活が、自然に重なっていた。


不自然さはなかった。


ポータルがあるから、どちらへも瞬時に行き来できた。東京で目が覚めて、島で朝食を取ることもできた。島で夕方を過ごして、東京の下宿で眠ることもできた。


どちらが本当の生活か、という問いは意味をなさなかった。


どちらも、本当だった。


---


根の先の膨らみは、週を追うごとに大きくなった。


二週目。米粒から、小豆ほどの大きさになった。


三週目。丸みが増した。薄い膜の中に、微かな形の予感があった。


四週目。


結が地下に降りた朝、いつもと違うものがあった。


膨らみが、少し大きくなっていた。それだけではなかった。膜の中に、細かい動きがあった。


規則的な動きだった。


一定のリズムで、繰り返していた。


結は顔を近づけて、それを見た。


心臓だと、すぐに分かった。


図書館で読んだ本に書いてあった。四週頃、心臓が動き始める、と。


こんなに小さいのに、心臓があった。


こんなに小さいのに、すでに動いていた。


結は根の先の膨らみを、しばらく見た。


屈んだまま、動けなかった。


鼓動が見えていた。


肉眼では見えないくらい小さかったが、異能で感じると、確かに動いていた。


一定のリズムで、休まずに動いていた。


---


地上に戻ると、マユが扉の前にいた。


毎朝そこにいた。


「心臓が動いていました」


結が言った。


マユが顔を上げた。丸い目が、結を見た。


「四週です。予定通りです」


マユから、温かい感触が伝わってきた。


結はそれを受け取って、少し目を伏せた。


心臓が動いていた。


その事実が、地下にいる間よりも、地上に出てから重くなってきた。


一定のリズムで、あの小さな膨らみの中で、誰かの心臓が動いている。


誰かの、という言葉が、初めて浮かんだ。


まだ形もない。名前もない。性別も分からない。


でも、誰かの心臓が動いている。


---


その日の夜、囲炉裏の前で、結は長い時間考えた。


炎を見ながら、考えたことがあった。


次の子の父親を、そろそろ決める必要があった。


最初の子は、まだ四週だった。産まれるまでに六ヶ月以上ある。その間に、次の父親を選んでおく必要があった。一年に一人、交互に産む計画だったから、最初の子が産まれてから間をおかずに次を宿す必要がある。


でも、それより先に考えなければならないことがあった。


父親の選び方について、もう一度整理したかった。


記録帳を開いた。


最初に書いた条件を読んだ。


> *健康であること。*

> *知性があること。*

> *致命的な遺伝的疾患がないこと。*

> *本人が気づかない形で行うこと。*


四つの条件。


最初に書いた時と、今とで、考えが変わったことがあった。


四番目の条件についてだった。


---


本人が気づかない形で行うこと。


これが正しいかどうかを、ずっと考えていた。


相手は知らない。自分に子供がいることを、永遠に知らない。


それでいいのか。


結は記録帳を持ったまま、炎を見た。


知らせるべきか。


知らせれば、全てが変わる。島のことを話さなければならない。話せば、その人の人生が変わる。変えてしまうことへの責任が生じる。


知らせなければ、相手の人生は変わらない。でも自分の中に、後ろめたさが残る。


後ろめたさと、責任。


どちらが重いか。


答えを出そうとして、出なかった。


どちらも重かった。


でも、どちらかを選ばなければならなかった。


結はしばらく炎を見てから、記録帳に書いた。


> *知らせない。*

> *ただし、血筋の記録には必ず残す。*

> *子供が大きくなった時、父親が誰かは教える。*

> *それが、私にできる誠意の全てだ。*


書いてから、読み返した。


自分への言い訳のように見えた。


でも、これ以上の答えが出なかった。


炎が、揺れた。


---


翌日から、次の父親の候補を探し始めた。


探す、という行為が、結には慣れなかった。


人を評価する、という行為が好きではなかった。この人はいい、この人は違う、と判断することが。


でも、しなければならなかった。


子供を百人産む計画だった。百人の父親が必要だった。同じ父親を使うことはしないと決めていた。血筋の多様性のためだった。


百人。


百人の、それぞれ違う男性を、百年かけて選ぶ。


気が遠くなる数ではなかった。一年に一人だから、一年に一人選べばいい。今は二人目を選べばいいだけだった。


でも、基準が必要だった。


毎回、一から考えていては時間がかかった。


結は記録帳に、選ぶための基準を書き直した。


---


> *父親の条件(改訂版)*

>

> *一、健康な体を持つこと。*

> *慢性的な疾患がなく、日常生活に支障がないこと。*

>

> *二、知性があること。*

> *学歴ではなく、物事を考える力があること。*

> *本を読む人が望ましい。*

>

> *三、性質が穏やかであること。*

> *暴力的な気質を持たないこと。*

> *怒鳴る人、威圧する人は避ける。*

>

> *四、手仕事が丁寧な人。*

> *物の扱い方に、その人の性質が出ると思うから。*

>

> *五、できれば、異なる職業の人を選ぶ。*

> *子供たちの血に、様々な性質が混じるように。*


書き終えて、読み返した。


四番目が、自分らしいと思った。


手仕事が丁寧な人。


図書館の司書を最初に選んだのも、本の扱い方が丁寧だったからだった。物を大切に扱う人は、人も大切に扱う可能性が高いと、結は思っていた。


証明できることではなかった。


でも、そう思った。


---


二人目の候補を探すために、東京を歩いた。


仕事の帰り道、いつもと違う道を歩いた。


下宿への近道ではなく、遠回りの道を選んだ。


人の多い通りではなく、職人の多い路地を歩いた。


神田の裏通り。


小さな工房が並んでいた。


箪笥を作る職人。本の装丁をする職人。印章を彫る職人。


結は歩きながら、それとなく見た。


急がなかった。今日決める必要はなかった。見るだけでよかった。


印章店の前を通った時、中から音がした。


彫る音だった。


細かく、丁寧な音だった。


立ち止まって、中を見た。


老人が一人、小さな作業台の前に座っていた。老人の手が、細い彫刻刀を持って、小さな石を削っていた。


老人だった。


六十代か、それ以上か。


候補にはならなかった。条件の一つに、健康な体、があった。老人でもそれを満たすかもしれなかったが、子供に渡す血として、年齢が若い方が望ましいと思っていた。


でも、見てしまった。


その手の動きを。


細かく、丁寧に、一刻みずつ彫る手を。


老人は結が見ているのに気づいていなかった。ただ、石と向き合っていた。他のことは何もなかった。石と、手と、音だけがそこにあった。


結はしばらく見てから、また歩き始めた。


職人の路地を抜けて、川沿いに出た。


---


三日後。


出版社の近くの書店で、二人目の候補を見つけた。


三十代前半の男性だった。


背が高くて、細かった。眼鏡はかけていなかった。本を選んでいた。棚の前で、背表紙を読んで、一冊取り出して、少し読んで、また戻した。それを繰り返していた。


選び方が、丁寧だった。


急いでいなかった。


一冊一冊を、ちゃんと確かめていた。


結は棚の反対側から、その人を見た。


顔は見えにくかった。でも、手が見えた。


本を持つ手が、丁寧だった。


司書と同じだった。本を乱暴に扱わない人だった。


その人が一冊決めて、棚から抜いた。背表紙を見た。表紙を確かめた。それから、開いた。


開き方が丁寧だった。


本の背を無理に開かないように、そっと開いた。


それを見て、結は決めた。


---


レジに向かうその人の後ろを、結はゆっくりと歩いた。


距離は一メートルほどあった。


その人がレジで本を渡した瞬間に、異能を動かした。


慎重に。ごく微かに。指先一本分にも満たない量で。


血が来た。


その人は何も気づかなかった。


本の代金を払って、包んでもらって、書店を出ていった。


結は棚の前で、何でもいいから本を一冊取って、同じようにレジに向かった。


本の代金を払いながら、手の中にある血を感じた。


温度はなかった。見えなかった。でも、確かにあった。


「申し訳ありません」


店を出て、路地に入ってから、小声で言った。


「でも、大切にします」


---


島に帰って、記録帳に書いた。


> *二人目の父親、決定。*

> *書店で本を選んでいた人。職業は不明。*

> *本の扱い方が丁寧だった。*

> *手が、丁寧だった。*


それだけ書いた。


名前は書けなかった。知らなかったから。


知らなくていいと思っていた。


でも、書けないことが少し引っかかった。


何も知らない人から、血をもらっている。名前も知らない。何をしている人かも知らない。どこに住んでいるかも知らない。


でも、その人の血が、これから自分の子供の半分になる。


結は記録帳を閉じて、炎を見た。


罪悪感、という言葉が浮かんだ。


それを認めることが、少し難しかった。


でも、認めなければならないと思った。


記録帳を開いて、一行書いた。


> *後ろめたさはある。それでも続ける。*


書いてから、ペンを置いた。


マユが傍にいた。


炎を見ていた。


マユから何も伝わってこなかった。


ただ、一緒にいた。


それが、今の結には必要なものだった。


---


三人目の候補を探す前に、結は立ち止まった。


少し、考え方を変えようと思った。


毎回、街を歩いて偶然見つける方法は、非効率だった。百人を選ぶためには、もっと体系的に考える必要があった。


記録帳を開いた。


職業の多様性を考えた。


司書。書店の客。それ以外に、どんな職業の人がいるか。


書き出した。


> *医者。教師。農夫。漁師。職人。商人。*

> *役人。軍人。僧侶。芸術家。音楽家。*

> *研究者。技術者。*


書きながら、考えた。


百年間という長さを考えた。


最初の二十五年は、大正末期から昭和初期になる。その後、昭和が続く。百年後は、二十一世紀になる。


時代が変わる。職業が変わる。社会が変わる。


百年後の子供たちが生きる世界は、今とは全く違うはずだった。


だから、父親の選び方も、時代に合わせて変えていかなければならないかもしれなかった。


でも今は、今の時代の中で選ぶしかなかった。


---


三人目は、四ヶ月後に決まった。


最初の子が産まれる二ヶ月前のことだった。


きっかけは、仕事だった。


出版社に原稿を持ち込んできた男性がいた。


三十代前半。農業の技術書を書いた人だった。


結は直接会ったわけではなかった。廊下ですれ違っただけだった。


でも、その人が上司に原稿を渡す場面を、偶然見た。


渡し方が、丁寧だった。


両手で、慎重に渡した。


原稿を書いた人の、原稿への向き合い方だと思った。何ヶ月もかけて書いたものを、こうして両手で渡す。


農業の技術書を書く人だった。


土と向き合う人が、文字と向き合った。


その血が子供に渡れば、どんな性質が現れるだろうと思った。


廊下ですれ違う瞬間に、異能を動かした。


ごく微かに。気づかれないように。


「申し訳ありません。大切にします」


その人が廊下を曲がって見えなくなってから、小声で言った。


---


最初の子が産まれる一週間前、結は記録帳を開いた。


父親の記録のページを読み返した。


一人目。図書館の司書。本の扱い方が丁寧だった人。


二人目。書店で本を選んでいた人。本の開き方が丁寧だった人。


三人目。農業の技術書を書いた人。原稿の渡し方が丁寧だった人。


三人とも、丁寧な人だった。


偶然ではなかった。


結は自分が、丁寧さを持つ人を選んでいることに気づいていた。意識していなかったわけではなかった。でも、こうして並べると、はっきりした。


丁寧さが、結の中で何かを占めていた。


なぜだろうと思った。


炎を見ながら考えた。


丁寧さ、とは何か。


物を大切に扱うことだった。時間をかけることだった。急がないことだった。


自分が好きなものを、結は考えた。


白湯を一杯飲む朝。本を一頁ずつ読む夜。畑の土に手を入れる感触。母体樹の幹に手を当てる温かさ。


全部、丁寧なことだった。


急がないことだった。


そうか、と思った。


自分が好きなものを、子供たちにも渡したいのかもしれなかった。


意識していなかった。でも、そうだったかもしれなかった。


---


その夜、マユが結の隣に座っていた。


炎を見ていた。


結はマユを見た。


フワフワした体が、炎の光を受けて、橙色に見えていた。


「マユ」


呼んだ。


マユが結を見た。


「あなたに頼みたいことがあります」


マユは首を傾けた。


「私が本土に出ている間、地下の様子を確認してください。入ることはできませんが、扉の近くで、根の感触を感じてください。何か変だと思ったら、私に知らせてください」


マユから何かが伝わってきた。


分かった、という感触だった。


それと、もう一つ。


任せて、という感触が、混じっていた。


結はそれを受け取って、少し目を細めた。


「よろしくお願いします」


マユが頭を下げた。


小さく、ゆっくりと。


---


翌朝から、マユは毎朝、地下への扉の前に座るようになった。


結が島にいる日は、一緒に降りることはできなかった。でも、扉の前で待っていた。


結が本土に出ている日は、扉の前で一日中、静かに座っていた。


何かを感じ取ろうとするように。


耳を澄ませるように。


結が島に帰ると、マユは必ず報告した。


言葉ではなかった。感触だった。


*異常なし。*


そういう感触が、マユから伝わってきた。


毎日、それだけが伝わってきた。


結はそれを受け取るたびに、短く言った。


「ありがとう」


マユは頭を下げた。


それが、毎日の習慣になった。


---


最初の子が産まれる三日前、記録帳にこう書いた。


> *根の先の膨らみは、今日で九ヶ月と一週になる。*

> *膜の中で、よく動く。*

> *丸くなっている時間が増えた。*

> *産まれる準備をしているのかもしれない。*


それから、別のページを開いた。


白紙のページだった。


ペンを持って、少し止まった。


それから書いた。


> *名前を考える。*


女の子だと分かっていた。十二週の時に、根の先を異能で確認した時から。


女の子の名前を、考えていた。


候補はあった。


でも、決めていなかった。


産まれた顔を見てから決めたいと、思っていた。


顔を見てから、この子の名前を決める。


母が自分に名前をつけた時、そうしたのかもしれないと思った。


産まれてきた顔を見て、結、と言った。


繋ぐ、という名前を。


---


三日後の朝、目が覚めた瞬間に分かった。


今日だと思った。


体で分かるものではなかった。異能で感じた。


地下で、何かが変わっていた。


結は素早く起き上がった。


縁側に出ると、マユがそこにいた。


普段は扉の前にいるはずのマユが、縁側に来ていた。


結を見て、頭を下げた。


マユから伝わってきた感触は、一言で言えばこうだった。


*早く。*


「分かっています」


結は言って、地下への入口へ向かった。


足が速くなった。


走りはしなかった。でも、いつもより速かった。


扉を開けた。


階段を降りた。


根の光が、今日は明るかった。


いつもより明るく、温かみのある光が、空間全体に満ちていた。


最後の段を降りた。


根の先を見た。


膨らみが、大きくなっていた。


薄い透明な膜の中に、羊水。


羊水の中に、丸くなった胎児が見えた。


頭があった。手があった。足があった。


動いていた。


結は膨らみの前に立った。


手が震えていた。


気づかなかった。でも、震えていた。


根と膜の繋ぎ目に、手を当てた。


ゆっくりと、丁寧に、切り離した。


膜が、やぶれた。


羊水が流れた。


小さな声が、地下空間に響いた。


結は両手を差し伸べた。


その子が、手の中に来た。


温かかった。


重かった。


泣いていた。


元気な声で、泣いていた。


---


結は、その子を見た。


小さかった。


こんなに小さいものが、十月十日で産まれてくる。


泣きながら、手足を動かしていた。


顔を見た。


目は閉じていた。でも、少しだけ開いた瞬間があった。


その一瞬だけ、目が見えた。


黒かった。


---


しばらくして、階段を上がった。


腕の中に、その子を抱えていた。


扉を開けると、マユがいた。


結を見て、その子を見て、また結を見た。


マユから伝わってくる感触は、言葉にすれば一つだけだった。


喜び。


純粋な、まっすぐな喜び。


結はそれを受け取りながら、広場へ向かった。


母体樹の前に立った。


腕の中の子が、少し泣き声を落ち着かせていた。


結の体温に、慣れてきたのかもしれなかった。


結は母体樹を見上げた。


「産まれました」


言った。


木は答えなかった。


でも、葉が揺れた。


風はなかった。


---


その夜、囲炉裏の前で、子供を膝に乗せながら、結は記録帳を開いた。


日付を書いた。


それから書いた。


> *長女、産まれる。*

> *元気だった。泣き声が大きかった。*

> *目が黒かった。*


書いてから、次の行を考えた。


名前を書く行だった。


子供の顔を見た。


眠っていた。小さな顔で、静かに眠っていた。


産まれてきた顔を見て、名前を決める。


そう思っていた。


顔を見た。


何という名前か。


しばらく、顔を見た。


それから、ペンを動かした。


> *名前は、芽衣めい。*


書いてから、声に出した。


「芽衣」


その子は眠ったまま、動かなかった。


でも、名前を呼んだ瞬間、何かが確かになった気がした。


この子は、芽衣だった。


芽が出る、衣をまとう。


この島で最初に産まれた子に、ふさわしい名前だと思った。


---


記録帳の最後に、もう一行書いた。


> *これで、始まった。あと九十九人。*


ペンを置いた。


炎が揺れた。


芽衣が眠っていた。


マユが傍にいた。


島が静かだった。


結は炎を見た。


長い夜だった。


でも、怖くはなかった。


やると決めたことをやめない。


母から受け継いだかもしれない、その気質が、今もここにあった。


芽衣が、小さく息をした。


規則的な、穏やかな呼吸だった。


結はその呼吸を聞きながら、炎を見ていた。


百年が、今日から始まった。


---


*第八章「根に宿る」へ続く*

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