第六章 母体樹
---
図書館に通い始めたのは、地下空間で母体樹に話しかけた翌日からだった。
あの時、根から伝わった肯定の感触は、今も手のひらに残っていた。でも感触だけでは足りなかった。母体樹が子を宿すためには、何が必要かを、自分が正確に知らなければならなかった。
木に全てを任せるわけにはいかなかった。
設計するのは、自分だった。
---
神田の図書館に、また通った。
今度は産科の本だけではなかった。
植物の生理に関する本。根の構造に関する植物学の資料。胎児の発達を記録した医学書。助産の手引き書。民俗学の本の中に、胎盤や産育に関する記述があるものも探した。
一冊ずつ、丁寧に読んだ。
読みながら、頭の中で母体樹に置き換えた。
子宮が根の先の空間に対応する。胎盤が根そのものに対応する。へその緒が根と胎児を繋ぐ部分に対応する。羊水が必要で、薄い膜が必要で、適切な温度が必要で、栄養が必要で。
書き出した。
記録帳に、週ごとに何が形成されるかを整理した。
四週。心臓が動き始める。
八週。手足の芽が出る。顔の形ができる。
十二週。外から性別が分かる形になる。
十六週。動く。
二十週。音が聞こえ始める。
それ以降、週を追うごとに、人の形が完成に近づいていく。
書きながら、何度か手が止まった。
これが、人の始まりだと思った。
こんなに小さなところから、こんなに細かいところから、人は形を作っていく。
心臓が最初に動く。
それから全てが続く。
---
三日目に、止まった頁があった。
妊娠初期の胎児の脆弱性について書かれた章だった。
初期の胎児は、非常に繊細だった。温度の変化、栄養不足、外的な衝撃。それだけではなく、受精の段階で遺伝的な問題があれば、育つことができない場合がある。
結はその章を、二度読んだ。
遺伝的な問題については、父親の血を選ぶことで減らせるかもしれなかった。でも、完全に防げるとは書いていなかった。
それは、どうしようもない部分があるということだった。
結はその事実を、記録帳に書いた。
> *全てを制御することはできない。*
> *できることをする。残りは、木に任せる。*
書いてから、少し止まった。
それから、もう一行書いた。
> *もし宿らなかった時のことを、考えておく必要がある。*
感情的にはならなかった。でも、その一行を書く時、ペンの動きが少しだけ遅かった。
---
四日目。
難産と母体のリスクについての章を読んだ。
結は、この章を読むのが三度目だった。最初は図書館で最初に来た時。二度目は下宿で借りた本を読んだ時。そして今日。
三度読んでも、内容は変わらなかった。
出血。感染。難産。産後の肥立ち。
母が死んだ経緯に、どれが当てはまるかは知らなかった。父は詳しくは話さなかった。でも、これらのどれかだったことは間違いなかった。
結は頁を閉じた。
閉じてから、もう一度開いた。
目を背けてはならないと思った。
知っておかなければならないことだった。
自分が産まないからといって、これらのことを知らなくていい理由にはならなかった。母体樹が産む。でも、その過程を設計するのは自分だった。
危険を最小にする設計を、しなければならなかった。
読み直した。
今度は最後まで読んだ。
読み終えてから、記録帳にメモをした。
必要な条件を書いた。温度。清潔さ。栄養の安定。衝撃からの保護。根の先の空間を、できる限り安全な状態に保つこと。
書き終えて、最後に一行書いた。
> *母は、大変だったと思う。*
最初に図書館で書いたのと、同じ一行だった。
二度目に書いても、同じ言葉しか出てこなかった。
---
五日目の夜、下宿の部屋で、結は記録帳を全て読み返した。
最初の一行から。
> *何かが、変わった。*
それから始まって、島の記録、母体樹の記録、図書館で得た知識の記録。
全部で十頁を超えていた。
読みながら、足りないものがないかを確認した。
一つ、気になることがあった。
十月十日の間、誰かが母体樹の様子を見なければならない。結が島にいる時は自分が見られる。でも、本土に仕事に出ている間は、誰もいない。
誰か、見てくれる者が必要だった。
でも、島のことは誰にも話せなかった。
人間を連れてくることは、この段階ではできなかった。
結は考えた。
人間でなければ、いいのではないか。
島には、すでに鳥が一羽来ていた。でも鳥では、何かあっても結に伝えられない。
何かが必要だった。
見守る者が。
---
翌朝、島に飛んだ。
広場に降り立つと、鳥がまだ母体樹の枝にいた。昨日と同じ枝に、同じように止まっていた。
結はその鳥を見た。
小さかった。可愛らしかった。でも、この鳥に頼めることには限界があった。
広場に座った。
母体樹を見上げながら、考えた。
自分が作ればいい。
見守る者を、自分が作ればいい。
どんな形がいいか。
大きすぎてはいけない。子供たちが怖がらない形がいい。柔らかい方がいい。人語を理解できる方がいい。でも、話すことはできなくていい。その代わり、自分には伝えられるようにしたい。
テレパシーのように。
異能で作るなら、自分と繋がった存在にできるかもしれなかった。
結は目を閉じた。
どんな形を想像するか。
繭、という言葉が浮かんだ。
繭は、命を包むものだった。中に何かを守るものだった。柔らかくて、白くて、丸い。
その形を、少し変えた。
もっと温かみのある色にした。生き物らしい質感にした。大きさは、猫くらいにした。
それを、砂地の上に想像した。
---
何かが、砂地の上に現れた。
最初は霞のようなものだった。
でも少しずつ、形になっていった。
丸かった。フワフワしていた。色は薄い白に近い生成り色で、耳のような突起が二つあった。目は丸くて黒かった。手足のような部分が短くあって、それでゆっくりと砂地の上を動いた。
完全に形になった時、それは結を見た。
丸い黒い目で、じっと見た。
結も見た。
しばらく、二つの目が見つめ合った。
結が先に口を開いた。
「あなたが、マユですか」
名前を呼んだのは、産まれる前に決めていたわけではなかった。でも、見た瞬間に、マユだと思った。
繭から来た名前。命を包む名前。
マユは答えなかった。
でも、頭を下げた。
小さな頭が、ゆっくりと前に傾いた。
それから、結を見た。
その目に、何かがあった。言葉ではなかった。でも結には伝わった。
*ここにいたかった。*
そういう感触が、結の中に入ってきた。
テレパシーだった。
結が異能で作った存在だから、繋がっていた。言葉ではなく、感触として、マユが感じることが結に届いた。
結は少し驚いた。
作ったものが、こんなに鮮明に伝わるとは思っていなかった。
「そうですか」
一呼吸おいて、言った。
「では、いなさい」
---
マユは、その日から島にいた。
最初は結の傍を離れなかった。
結が畑に行けば、後を付いてきた。居住区に入れば、縁側で待っていた。地下に降りようとすれば、入口の前で待っていた。
地下には入れなかった。
マユが入口の前で止まったのは、扉が開かなかったからだった。
結は振り返って、マユを見た。
「ここは、私と、後で来る両親だけが入れます。あなたには入れません」
マユは扉を見た。それから結を見た。
少し、残念そうだった。
それが伝わった。言葉ではなく、感触として。
「地上を、見ていてください。子供たちが来たら、一緒にいてあげてください」
マユはしばらく扉を見ていた。
それから、頷いた。
小さな頭が前に傾いた、あの動きで。
---
その夜、囲炉裏の前で、マユは結の傍に座っていた。
正確には、座っているというより、そこにいた。フワフワした体が、畳の上にふわりと乗っていた。
炎を見ていた。
結も炎を見ていた。
二人で、同じ炎を見ていた。
「明日、本土に行きます。父親を選びます」
独り言のようだった。でもマユに話しかけていた。
マユが結を見た。
聞いていた。
「初めての子だから、慎重に選びます。それから血を持ち帰って、根に渡します。うまくいけば、そこから十月十日です」
マユから、何かが伝わってきた。
期待に近い何かだった。それに、静かな応援のような感触が混じっていた。
結はマユを見た。
作ったものが、こんなに確かな感触を持つとは思っていなかった。
ただの見守り役のつもりだった。でも今、マユは確かにここにいた。炎を見て、結の言葉を聞いて、何かを感じていた。
命だと思った。
自分が作った命だったが、確かに命だった。
「よろしくお願いします」
結が言った。
マユが頭を下げた。
小さく、ゆっくりと。
---
翌朝、本土へ飛んだ。
東京の神田、図書館近くのポータルから出た。
仕事の前の時間に、図書館へ向かった。
でも今日は本を借りるためではなかった。
司書を見るためだった。
一ヶ月前から気になっていた人物だった。
結が家系図の仕事を受けた頃から、よく見かけていた。三十代半ばくらいの男性だった。眼鏡をかけていた。背は高くなかったが、姿勢がよかった。
動きが丁寧だった。本の扱い方が丁寧だった。棚に戻す時、必ず背表紙を揃えた。利用者から本を受け取る時、両手で受け取った。
穏やかそうだった。
知性がありそうだった。
それだけが理由だった。
恋愛的な感情ではなかった。その人の子供を産みたいという気持ちでもなかった。この人の持つ血を、子供に渡したいという、それだけだった。
---
図書館に入った。
司書は今日もいた。
カウンターの後ろで、返却された本を整理していた。
結は棚を見るふりをして、その人の動きを確認した。
今日は利用者が少なかった。
司書はカウンターから出て、棚の整理を始めた。
結は棚の間を歩いた。
司書が近くの棚に来た。
距離が、一メートルほどになった。
司書は本の背表紙を確認しながら、棚に差し込んでいた。結の存在に気づいていなかった。
結は棚を見るふりをしたまま、異能を動かした。
慎重にやった。
相手が気づかないように。傷つけないように。ほんの少し、指先に触れる程度の接触を想像した。
血が、ほんのわずか、結の中に来た。
指先一本分にも満たない、ごく僅かな量だった。
それだけで充分だった。
司書は何も気づかなかった。
本を棚に差し込んで、次の棚へ移った。
結は棚から一冊本を取った。読むつもりもない本を、何でもよかったから取った。
それを抱えて、図書館を出た。
---
外に出ると、冬の風が吹いていた。
結は立ち止まって、空を見た。
灰色の雲が流れていた。
手の中に、司書の血があった。
感触はなかった。見えなかった。でも、確かにあった。
「申し訳ありません」
小声で言った。
誰も聞いていなかった。通りを人が歩いていたが、誰も結に注意を払っていなかった。
「でも、あなたの血は大切にします」
言葉にしなければならなかった。
誰にも聞こえなくていい。伝わらなくていい。ただ、自分が言わなければならなかった。
それが結の誠意の出し方だった。
通りを歩き始めた。
ポータルへ向かった。
島へ帰る。根に渡す。
---
島に飛んだ瞬間、マユがいた。
広場の端で、待っていたように立っていた。
結を見て、小さく頭を傾けた。
「帰りました」
マユから、安堵のような感触が伝わってきた。
結は少し、意外だと思った。
心配していたのか、と思った。
「地下に行きます。来なくていいです」
マユは頷いた。でも、扉の近くまでは付いてきた。
扉の前で止まって、結を見た。
その目に、何かがあった。
何も言わなかった。言えなかった。でも確かに何かがあった。
応援、だったかもしれなかった。
---
地下に降りた。
根の光が、今日は少し明るく感じた。
気のせいかもしれなかった。
でも、そう感じた。
広い空間の中心に立って、根を見た。
太い根が、天井から広がっていた。細い根が、その間を縫っていた。
結はゆっくりと、一番太い根に近づいた。
手を当てた。
温かかった。
「持ってきました」
言った。
「最初の子の父親の血です。私の血と、合わせて渡します」
結は自分の左手に、細い傷をつけた。
少しだけ血が滲んだ。
その血と、手の中にあった司書の血を、合わせた。
根に、渡した。
根が動いた。
ゆっくりと、でも確かに動いた。
細い根の一本が、二つの血を受け取るように伸びた。
受け取った。
結は手を引いた。
根の先を見た。
まだ何もなかった。膨らみもなかった。ただの根の先があるだけだった。
でも、今渡したものがそこにある、という感触があった。
「よろしくお願いします」
言った。
根が微かに動いた。
---
地上に戻った。
扉を開けると、マユが待っていた。
結を見て、首を傾けた。
「渡しました」
マユから何かが伝わってきた。
言葉にすれば、どうだったか、に近い感触だった。
「うまくいったと思います。あとは時間が必要です」
マユはしばらく結を見た。
それから、広場の方へ歩いていった。
母体樹の根元まで行って、そこに座った。
木の根元で、丸くなって、座っていた。
見守るように。
結はその後ろ姿を見た。
小さかった。フワフワしていた。でも確かにそこにいた。
---
その夜、囲炉裏の前で、結は記録帳を開いた。
日付を書いた。
それから書いた。
> *父親の血を根に渡した。*
> *これで、始まる。*
書いてから、少し止まった。
それから続けた。
> *根が受け取った。*
> *確かに受け取った。*
ペンを持ったまま、炎を見た。
揺れていた。
今夜から、地下で何かが始まっている。
根の先に、二つの血が渡された。それがどうなるか。うまく宿るかどうか。
分からなかった。
でも、できることはした。
残りは、木に任せるしかなかった。
記録帳に最後の一行を書いた。
> *信じて、待つ。*
炎が、少し大きく揺れた。
風はなかった。
でも、揺れた。
---
それから七日後の朝、地下に降りた。
根の先を確認するために。
階段を降りながら、鼓動が少し速くなっていることに気づいた。
自分でも気づかなかった。でも、最後の段を降りた時に気づいた。
落ち着け、と自分に言った。
根の光の中に立った。
太い根を見た。細い根を見た。
根の先を探した。
あった。
米粒ほどの、小さな膨らみが、根の先にあった。
薄く透明だった。中に、何かがあった。
結はその膨らみに近づいた。
屈んで、顔を近づけた。
膨らみの中に、細胞の集まりのようなものがあった。まだ形はなかった。でも、確かにそこにある何かがあった。
動いていた。
ほんのわずかに、でも動いていた。
結はしばらく、それを見た。
立ち上がれなかった。
屈んだまま、根の先の小さな膨らみを、見ていた。
何を感じているかが、分からなかった。
感動とは違った。安堵とも違った。
もっと静かで、もっと深いところから来るものだった。
灯りの届かない場所で、水が湧いているような。
音もなく、でも確かにそこにある水が。
しばらくして、ゆっくりと立ち上がった。
根に手を当てた。
「ありがとうございます」
言った。
根が動いた。
今日は少し速く動いた気がした。
いつもよりも確かに、温かかった。
---
地上に出ると、マユがいた。
扉の前で待っていた。
結を見て、首を傾けた。
「いました」
マユに言った。
「小さかったですが、いました。確かに」
マユから何かが伝わってきた。
それは、結がこれまで受け取ったどの感触とも少し違った。
喜び、に近かった。
純粋な喜び。混じりけのない、そのままの喜びが、マユから伝わってきた。
結はその感触を受け取って、少しの間動かなかった。
自分はどうだったか、と思った。
喜んでいるか。
分からなかった。
でも、マユの喜びが伝わってきて、それを受け取った時、何かが胸の中で動いた。
小さく。でも確かに。
---
その日の記録帳には、こう書いた。
> *根の先に、膨らみができていた。*
> *小さかった。でも、あった。*
> *動いていた。*
それから、最後に一行。
> *マユが喜んでいた。*
書いてから、少し考えた。
それからもう一行書いた。
> *私も、そうだったかもしれない。*
---
*第七章「父親を選ぶ」へ続く*




