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あみだくじ  作者: ふらう
第一巻 「奇跡の数え方」
7/10

第六章 母体樹

---


図書館に通い始めたのは、地下空間で母体樹に話しかけた翌日からだった。


あの時、根から伝わった肯定の感触は、今も手のひらに残っていた。でも感触だけでは足りなかった。母体樹が子を宿すためには、何が必要かを、自分が正確に知らなければならなかった。


木に全てを任せるわけにはいかなかった。


設計するのは、自分だった。


---


神田の図書館に、また通った。


今度は産科の本だけではなかった。


植物の生理に関する本。根の構造に関する植物学の資料。胎児の発達を記録した医学書。助産の手引き書。民俗学の本の中に、胎盤や産育に関する記述があるものも探した。


一冊ずつ、丁寧に読んだ。


読みながら、頭の中で母体樹に置き換えた。


子宮が根の先の空間に対応する。胎盤が根そのものに対応する。へその緒が根と胎児を繋ぐ部分に対応する。羊水が必要で、薄い膜が必要で、適切な温度が必要で、栄養が必要で。


書き出した。


記録帳に、週ごとに何が形成されるかを整理した。


四週。心臓が動き始める。


八週。手足の芽が出る。顔の形ができる。


十二週。外から性別が分かる形になる。


十六週。動く。


二十週。音が聞こえ始める。


それ以降、週を追うごとに、人の形が完成に近づいていく。


書きながら、何度か手が止まった。


これが、人の始まりだと思った。


こんなに小さなところから、こんなに細かいところから、人は形を作っていく。


心臓が最初に動く。


それから全てが続く。


---


三日目に、止まった頁があった。


妊娠初期の胎児の脆弱性について書かれた章だった。


初期の胎児は、非常に繊細だった。温度の変化、栄養不足、外的な衝撃。それだけではなく、受精の段階で遺伝的な問題があれば、育つことができない場合がある。


結はその章を、二度読んだ。


遺伝的な問題については、父親の血を選ぶことで減らせるかもしれなかった。でも、完全に防げるとは書いていなかった。


それは、どうしようもない部分があるということだった。


結はその事実を、記録帳に書いた。


> *全てを制御することはできない。*

> *できることをする。残りは、木に任せる。*


書いてから、少し止まった。


それから、もう一行書いた。


> *もし宿らなかった時のことを、考えておく必要がある。*


感情的にはならなかった。でも、その一行を書く時、ペンの動きが少しだけ遅かった。


---


四日目。


難産と母体のリスクについての章を読んだ。


結は、この章を読むのが三度目だった。最初は図書館で最初に来た時。二度目は下宿で借りた本を読んだ時。そして今日。


三度読んでも、内容は変わらなかった。


出血。感染。難産。産後の肥立ち。


母が死んだ経緯に、どれが当てはまるかは知らなかった。父は詳しくは話さなかった。でも、これらのどれかだったことは間違いなかった。


結は頁を閉じた。


閉じてから、もう一度開いた。


目を背けてはならないと思った。


知っておかなければならないことだった。


自分が産まないからといって、これらのことを知らなくていい理由にはならなかった。母体樹が産む。でも、その過程を設計するのは自分だった。


危険を最小にする設計を、しなければならなかった。


読み直した。


今度は最後まで読んだ。


読み終えてから、記録帳にメモをした。


必要な条件を書いた。温度。清潔さ。栄養の安定。衝撃からの保護。根の先の空間を、できる限り安全な状態に保つこと。


書き終えて、最後に一行書いた。


> *母は、大変だったと思う。*


最初に図書館で書いたのと、同じ一行だった。


二度目に書いても、同じ言葉しか出てこなかった。


---


五日目の夜、下宿の部屋で、結は記録帳を全て読み返した。


最初の一行から。


> *何かが、変わった。*


それから始まって、島の記録、母体樹の記録、図書館で得た知識の記録。


全部で十頁を超えていた。


読みながら、足りないものがないかを確認した。


一つ、気になることがあった。


十月十日の間、誰かが母体樹の様子を見なければならない。結が島にいる時は自分が見られる。でも、本土に仕事に出ている間は、誰もいない。


誰か、見てくれる者が必要だった。


でも、島のことは誰にも話せなかった。


人間を連れてくることは、この段階ではできなかった。


結は考えた。


人間でなければ、いいのではないか。


島には、すでに鳥が一羽来ていた。でも鳥では、何かあっても結に伝えられない。


何かが必要だった。


見守る者が。


---


翌朝、島に飛んだ。


広場に降り立つと、鳥がまだ母体樹の枝にいた。昨日と同じ枝に、同じように止まっていた。


結はその鳥を見た。


小さかった。可愛らしかった。でも、この鳥に頼めることには限界があった。


広場に座った。


母体樹を見上げながら、考えた。


自分が作ればいい。


見守る者を、自分が作ればいい。


どんな形がいいか。


大きすぎてはいけない。子供たちが怖がらない形がいい。柔らかい方がいい。人語を理解できる方がいい。でも、話すことはできなくていい。その代わり、自分には伝えられるようにしたい。


テレパシーのように。


異能で作るなら、自分と繋がった存在にできるかもしれなかった。


結は目を閉じた。


どんな形を想像するか。


繭、という言葉が浮かんだ。


繭は、命を包むものだった。中に何かを守るものだった。柔らかくて、白くて、丸い。


その形を、少し変えた。


もっと温かみのある色にした。生き物らしい質感にした。大きさは、猫くらいにした。


それを、砂地の上に想像した。


---


何かが、砂地の上に現れた。


最初は霞のようなものだった。


でも少しずつ、形になっていった。


丸かった。フワフワしていた。色は薄い白に近い生成り色で、耳のような突起が二つあった。目は丸くて黒かった。手足のような部分が短くあって、それでゆっくりと砂地の上を動いた。


完全に形になった時、それは結を見た。


丸い黒い目で、じっと見た。


結も見た。


しばらく、二つの目が見つめ合った。


結が先に口を開いた。


「あなたが、マユですか」


名前を呼んだのは、産まれる前に決めていたわけではなかった。でも、見た瞬間に、マユだと思った。


繭から来た名前。命を包む名前。


マユは答えなかった。


でも、頭を下げた。


小さな頭が、ゆっくりと前に傾いた。


それから、結を見た。


その目に、何かがあった。言葉ではなかった。でも結には伝わった。


*ここにいたかった。*


そういう感触が、結の中に入ってきた。


テレパシーだった。


結が異能で作った存在だから、繋がっていた。言葉ではなく、感触として、マユが感じることが結に届いた。


結は少し驚いた。


作ったものが、こんなに鮮明に伝わるとは思っていなかった。


「そうですか」


一呼吸おいて、言った。


「では、いなさい」


---


マユは、その日から島にいた。


最初は結の傍を離れなかった。


結が畑に行けば、後を付いてきた。居住区に入れば、縁側で待っていた。地下に降りようとすれば、入口の前で待っていた。


地下には入れなかった。


マユが入口の前で止まったのは、扉が開かなかったからだった。


結は振り返って、マユを見た。


「ここは、私と、後で来る両親だけが入れます。あなたには入れません」


マユは扉を見た。それから結を見た。


少し、残念そうだった。


それが伝わった。言葉ではなく、感触として。


「地上を、見ていてください。子供たちが来たら、一緒にいてあげてください」


マユはしばらく扉を見ていた。


それから、頷いた。


小さな頭が前に傾いた、あの動きで。


---


その夜、囲炉裏の前で、マユは結の傍に座っていた。


正確には、座っているというより、そこにいた。フワフワした体が、畳の上にふわりと乗っていた。


炎を見ていた。


結も炎を見ていた。


二人で、同じ炎を見ていた。


「明日、本土に行きます。父親を選びます」


独り言のようだった。でもマユに話しかけていた。


マユが結を見た。


聞いていた。


「初めての子だから、慎重に選びます。それから血を持ち帰って、根に渡します。うまくいけば、そこから十月十日です」


マユから、何かが伝わってきた。


期待に近い何かだった。それに、静かな応援のような感触が混じっていた。


結はマユを見た。


作ったものが、こんなに確かな感触を持つとは思っていなかった。


ただの見守り役のつもりだった。でも今、マユは確かにここにいた。炎を見て、結の言葉を聞いて、何かを感じていた。


命だと思った。


自分が作った命だったが、確かに命だった。


「よろしくお願いします」


結が言った。


マユが頭を下げた。


小さく、ゆっくりと。


---


翌朝、本土へ飛んだ。


東京の神田、図書館近くのポータルから出た。


仕事の前の時間に、図書館へ向かった。


でも今日は本を借りるためではなかった。


司書を見るためだった。


一ヶ月前から気になっていた人物だった。


結が家系図の仕事を受けた頃から、よく見かけていた。三十代半ばくらいの男性だった。眼鏡をかけていた。背は高くなかったが、姿勢がよかった。


動きが丁寧だった。本の扱い方が丁寧だった。棚に戻す時、必ず背表紙を揃えた。利用者から本を受け取る時、両手で受け取った。


穏やかそうだった。


知性がありそうだった。


それだけが理由だった。


恋愛的な感情ではなかった。その人の子供を産みたいという気持ちでもなかった。この人の持つ血を、子供に渡したいという、それだけだった。


---


図書館に入った。


司書は今日もいた。


カウンターの後ろで、返却された本を整理していた。


結は棚を見るふりをして、その人の動きを確認した。


今日は利用者が少なかった。


司書はカウンターから出て、棚の整理を始めた。


結は棚の間を歩いた。


司書が近くの棚に来た。


距離が、一メートルほどになった。


司書は本の背表紙を確認しながら、棚に差し込んでいた。結の存在に気づいていなかった。


結は棚を見るふりをしたまま、異能を動かした。


慎重にやった。


相手が気づかないように。傷つけないように。ほんの少し、指先に触れる程度の接触を想像した。


血が、ほんのわずか、結の中に来た。


指先一本分にも満たない、ごく僅かな量だった。


それだけで充分だった。


司書は何も気づかなかった。


本を棚に差し込んで、次の棚へ移った。


結は棚から一冊本を取った。読むつもりもない本を、何でもよかったから取った。


それを抱えて、図書館を出た。


---


外に出ると、冬の風が吹いていた。


結は立ち止まって、空を見た。


灰色の雲が流れていた。


手の中に、司書の血があった。


感触はなかった。見えなかった。でも、確かにあった。


「申し訳ありません」


小声で言った。


誰も聞いていなかった。通りを人が歩いていたが、誰も結に注意を払っていなかった。


「でも、あなたの血は大切にします」


言葉にしなければならなかった。


誰にも聞こえなくていい。伝わらなくていい。ただ、自分が言わなければならなかった。


それが結の誠意の出し方だった。


通りを歩き始めた。


ポータルへ向かった。


島へ帰る。根に渡す。


---


島に飛んだ瞬間、マユがいた。


広場の端で、待っていたように立っていた。


結を見て、小さく頭を傾けた。


「帰りました」


マユから、安堵のような感触が伝わってきた。


結は少し、意外だと思った。


心配していたのか、と思った。


「地下に行きます。来なくていいです」


マユは頷いた。でも、扉の近くまでは付いてきた。


扉の前で止まって、結を見た。


その目に、何かがあった。


何も言わなかった。言えなかった。でも確かに何かがあった。


応援、だったかもしれなかった。


---


地下に降りた。


根の光が、今日は少し明るく感じた。


気のせいかもしれなかった。


でも、そう感じた。


広い空間の中心に立って、根を見た。


太い根が、天井から広がっていた。細い根が、その間を縫っていた。


結はゆっくりと、一番太い根に近づいた。


手を当てた。


温かかった。


「持ってきました」


言った。


「最初の子の父親の血です。私の血と、合わせて渡します」


結は自分の左手に、細い傷をつけた。


少しだけ血が滲んだ。


その血と、手の中にあった司書の血を、合わせた。


根に、渡した。


根が動いた。


ゆっくりと、でも確かに動いた。


細い根の一本が、二つの血を受け取るように伸びた。


受け取った。


結は手を引いた。


根の先を見た。


まだ何もなかった。膨らみもなかった。ただの根の先があるだけだった。


でも、今渡したものがそこにある、という感触があった。


「よろしくお願いします」


言った。


根が微かに動いた。


---


地上に戻った。


扉を開けると、マユが待っていた。


結を見て、首を傾けた。


「渡しました」


マユから何かが伝わってきた。


言葉にすれば、どうだったか、に近い感触だった。


「うまくいったと思います。あとは時間が必要です」


マユはしばらく結を見た。


それから、広場の方へ歩いていった。


母体樹の根元まで行って、そこに座った。


木の根元で、丸くなって、座っていた。


見守るように。


結はその後ろ姿を見た。


小さかった。フワフワしていた。でも確かにそこにいた。


---


その夜、囲炉裏の前で、結は記録帳を開いた。


日付を書いた。


それから書いた。


> *父親の血を根に渡した。*

> *これで、始まる。*


書いてから、少し止まった。


それから続けた。


> *根が受け取った。*

> *確かに受け取った。*


ペンを持ったまま、炎を見た。


揺れていた。


今夜から、地下で何かが始まっている。


根の先に、二つの血が渡された。それがどうなるか。うまく宿るかどうか。


分からなかった。


でも、できることはした。


残りは、木に任せるしかなかった。


記録帳に最後の一行を書いた。


> *信じて、待つ。*


炎が、少し大きく揺れた。


風はなかった。


でも、揺れた。


---


それから七日後の朝、地下に降りた。


根の先を確認するために。


階段を降りながら、鼓動が少し速くなっていることに気づいた。


自分でも気づかなかった。でも、最後の段を降りた時に気づいた。


落ち着け、と自分に言った。


根の光の中に立った。


太い根を見た。細い根を見た。


根の先を探した。


あった。


米粒ほどの、小さな膨らみが、根の先にあった。


薄く透明だった。中に、何かがあった。


結はその膨らみに近づいた。


屈んで、顔を近づけた。


膨らみの中に、細胞の集まりのようなものがあった。まだ形はなかった。でも、確かにそこにある何かがあった。


動いていた。


ほんのわずかに、でも動いていた。


結はしばらく、それを見た。


立ち上がれなかった。


屈んだまま、根の先の小さな膨らみを、見ていた。


何を感じているかが、分からなかった。


感動とは違った。安堵とも違った。


もっと静かで、もっと深いところから来るものだった。


灯りの届かない場所で、水が湧いているような。


音もなく、でも確かにそこにある水が。


しばらくして、ゆっくりと立ち上がった。


根に手を当てた。


「ありがとうございます」


言った。


根が動いた。


今日は少し速く動いた気がした。


いつもよりも確かに、温かかった。


---


地上に出ると、マユがいた。


扉の前で待っていた。


結を見て、首を傾けた。


「いました」


マユに言った。


「小さかったですが、いました。確かに」


マユから何かが伝わってきた。


それは、結がこれまで受け取ったどの感触とも少し違った。


喜び、に近かった。


純粋な喜び。混じりけのない、そのままの喜びが、マユから伝わってきた。


結はその感触を受け取って、少しの間動かなかった。


自分はどうだったか、と思った。


喜んでいるか。


分からなかった。


でも、マユの喜びが伝わってきて、それを受け取った時、何かが胸の中で動いた。


小さく。でも確かに。


---


その日の記録帳には、こう書いた。


> *根の先に、膨らみができていた。*

> *小さかった。でも、あった。*

> *動いていた。*


それから、最後に一行。


> *マユが喜んでいた。*


書いてから、少し考えた。


それからもう一行書いた。


> *私も、そうだったかもしれない。*


---


*第七章「父親を選ぶ」へ続く*

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