第五章 異空間
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翌朝、目が覚めた瞬間から、今日やることが分かっていた。
木を探す。
母体樹になる木を。
白湯を飲みながら、考えた。どんな木がいいか。大きな木がいい。太い木がいい。根が深く広く張る木がいい。長く生きる木がいい。
菩提樹、という言葉が浮かんだ。
仏陀が悟りを開いた木として知られている。釈迦が菩提樹の下で瞑想した。命と知恵に縁のある木だ。でも日本の菩提樹は、インドの菩提樹とは別の種だった。
結は湯呑みを置いて、少し考えた。
どちらでもよかった。
名前が重要なのではなかった。木そのものが、子供を宿せるものであればよかった。それは異能で作る木だから、既存の種とは別物になる。
でも名前はつけたかった。
母体樹。
読んで字の如く、母の体である木。
それが、この木の名前になると、自然に決まった。
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出版社には、今日も仕事があった。
結は午前中で仕事を片付けて、昼過ぎに出た。
向かったのは、植物園だった。
東京の郊外にある、小さな植物園だった。入場料を払って、中に入った。冬の植物園は人が少なかった。枯れた木が多く、葉を落とした枝が空に広がっていた。
でも、常緑の木々は緑を保っていた。
結は一本ずつ、木を見て回った。
触れた。幹に手を当てて、中から何かを感じようとした。
松は硬かった。椎は厚みがあった。楠は香りが強かった。
どれも、悪くなかった。
でも、これだという感触がなかった。
結は奥の区画へ進んだ。あまり手入れの行き届いていない区画で、古い木が何本か立っていた。案内板もなく、名前も分からない木が混じっていた。
その中の一本の前で、足が止まった。
太かった。
幹の周りを両腕で抱えようとして、届かなかった。それほど太かった。樹皮が深く刻まれていて、縦に割れ目が走っていた。根元を見ると、地面から盛り上がるように根が張り出していた。
上を見た。
枝が広がっていた。冬だから葉は少なかったが、それでも枝の広がり方が、他の木とは違った。伸び方が、中心から外へ、均等に、丁寧に広がっていた。
結は幹に手を当てた。
温かかった。
冬の冷たい空気の中で、木の幹が温かかった。体温がある、というわけではなかった。でも、石や金属の冷たさとは全く違った。生きているものの温かさがあった。
しばらく手を当てたまま、立っていた。
これだと思った。
この木ではなく、この感触を持つ木を、島に作ろうと思った。
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下宿に帰って、島へ飛んだ。
砂地の広場に降り立った。
中心の穴が、昨日のままあった。
結はその前に立って、目を閉じた。
植物園で触れた幹の感触を、思い出した。あの温かさ。あの太さ。あの根の張り方。
それを手の中に持つように想像した。
それから、穴の中に向かって、その想像を渡した。
異能が動いた。
穴の中で、土が動いた。
最初は小さかった。芽が出るような、細い緑が地面から現れた。
それが、ゆっくりと上へ伸びた。
茎が太くなった。幹になった。枝が出た。広がった。根が地面に潜っていった。幹が太くなり続けた。
結は目を開けて、それを見ていた。
時間をかけた。急かさなかった。木が自分のペースで育つのを、ただ見ていた。
一時間ほどかかった。
気がつくと、砂地の広場の中心に、大きな木が立っていた。
幹は太かった。植物園で見た木と同じくらいか、それ以上かもしれなかった。樹皮が深く刻まれていて、縦に割れ目が走っていた。根元から根が張り出して、砂地の上に広がっていた。上を見ると、枝が均等に広がっていた。
葉は、薄い緑色だった。常緑の葉。
冬の空の下で、その木だけが深い緑をしていた。
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結は木の前に立って、しばらく見上げた。
大きかった。
自分が作ったものとは思えなかった。木は、初めからそこにあったように立っていた。砂地の中心で、静かに、大きく立っていた。
幹に手を当てた。
温かかった。
植物園で感じた温かさと、同じだった。いや、それ以上かもしれなかった。生きているものの温かさが、手のひらから伝わってきた。
「ありがとう」
思わず言った。
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。木に言ったのか、自分の異能に言ったのか。
でも言った。
木は何も答えなかった。ただ、枝が少し揺れた。風はなかった。
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次の問題があった。
地下空間を作らなければならなかった。
母体樹の真下に、広い空間が必要だった。そこに根を張らせて、根の先に子供を宿す。そのためには、地下に降りられる場所が必要だった。
居住区と山の間に、入口を作ることにした。
昨日作った居住区の家から、少し離れた場所。山の手前の斜面に、入口を作った。
石の枠組みを作って、木の扉をつけた。
扉を開けると、階段が下へ続いていた。
結は一段ずつ降りた。
暗かった。でも完全な闇ではなかった。異能で、微かな光を壁に持たせていた。石の壁が、薄く青白く光っていた。
降りながら、地下の空間を広げていった。
母体樹の幹の直下まで、真っすぐ降りていく階段。
最後の段を降りると、広い空間に出た。
天井が高かった。人が十人集まっても、窮屈にならない広さがあった。
そして、根があった。
母体樹の根が、天井から降りていた。いや、正確には地面から上へ広がっていた。太い根が、いくつも走っていた。細い根が、その間を縫うように広がっていた。
根が、微かに光っていた。
青白い光ではなく、もっと温かみのある光だった。橙色と黄色の中間のような、柔らかい光だった。
結はその光の中に立って、見上げた。
根の広がりが、天井いっぱいに及んでいた。
壮観だった、という言葉は大げさかもしれなかった。でも、ここには確かに何かがあると思った。ただの根ではなかった。命を宿すための場所だと、目で見て感じた。
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地下空間を整えた。
床を平らにして、歩きやすくした。
壁の光を調整して、暗すぎず、明るすぎない光にした。
空気を通した。地上から清潔な空気が流れるように、細い通路を作った。
温度を一定に保つようにした。
それから、入口の扉に制限をつけた。
基本的に、立入禁止。
入れるのは、結と、子供を宿した両親だけ。それ以外の者は、扉が開かない。
扉に触れた瞬間に、その人間が誰かが分かる仕組みを作った。
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地上に戻ると、夕方になっていた。
広場に出て、母体樹を見上げた。
夕焼けの空を背景に、母体樹が立っていた。枝が広がって、葉が風に揺れていた。根元の砂地に、長い影が伸びていた。
結は少しの間、その景色を見た。
静かだった。
一日がかりで、島はずいぶん形になった。
でもまだ、生き物がいなかった。
鳥も、虫も、動物も。害虫や害獣は最初から排除するつもりだったが、全くの無音は寂しかった。
風の音だけがあった。
草が揺れる音。葉が揺れる音。
それだけだった。
子供たちが来れば、もっと賑やかになる。そう思いながら、結は居住区の家へ向かった。
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家に入った。
土間に立って、部屋を見回した。
昨日作った時のままだった。家具はなかった。畳だけがあった。囲炉裏は空だった。
作らなければならないものが、まだたくさんあると気づいた。
布団。食器。調理道具。ランプ。本棚。机。
子供が来るまでに、必要なものを揃えなければならなかった。
でも今日は疲れていた。
囲炉裏の前に座った。
火をつけた。思っただけで、囲炉裏に火が入った。
橙色の光が、部屋を照らした。
炎を見ていた。
ゆっくりと揺れる炎を。
東京の下宿では、蝋燭一本の光だった。ここでは囲炉裏の炎だった。どちらも橙色だった。でも大きさが全然違った。
暖かかった。
体の疲れが、少しずつ抜けていくような気がした。
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次の日から、細部を整えた。
畑の土を作り直した。
柔らかくて、栄養の豊かな土を。何を植えても育つような土を。根が深く張れるような土を。
それから、植物の育ち方を操作した。
普通より早く育つ。実が大きくなる。栄養価が高くなる。
これは慎重にやった。
無理に育てれば、植物が弱くなる。強く大きく育つのに、弱くなっては意味がなかった。
丁寧に、一つずつ調整した。
種を蒔いた。大根、芋、菜っ葉。
翌日には、もう芽が出ていた。
三日後には、食べられるほどに育った。
結はその大根を一本抜いて、見た。
大きかった。太くて、白かった。土の匂いがした。
齧ってみた。
甘かった。
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果樹園の苗木が育ち始めた。
梅の木が最初に花をつけた。
白い花が、冬の空の下に咲いた。
結はその花の前で、少し立ち止まった。
梅の花を見るのが好きだった。京都の家の庭に、父が植えた梅の木があった。毎年春先に白い花が咲いて、結はその花を縁側から見ていた。
ここの梅は、父の梅より早く咲いた。
でも花の形は同じだった。白くて、小さくて、香りのある花だった。
少しだけ、父のことを思った。
今頃、京都で同じ梅を見ているかもしれなかった。縁側で、一人で、お茶を飲みながら。
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布を作ることも始めた。
畑の一角に、綿と麻の種を蒔いた。
綿が育って、実がはじけた。白い綿が、畑の一角に広がった。
それを摘んで、糸に紡いだ。
最初は異能でやろうとした。でも途中で手を止めた。
子供たちに教えるためには、自分が手作業でできなければならない。異能に頼った方法を教えても、子供たちは同じようにできない。
道具を作った。
紡ぎ車を作った。機織りの道具を作った。
それから、一から手でやった。
綿を梳いて、糸に紡いだ。糸を織って、布にした。
時間がかかった。
三日かけて、一反の布ができた。
薄い生成りの色だった。不揃いな部分もあったが、布だった。ちゃんと、手で作った布だった。
結はその布を手に持って、広げた。
光に透かして見た。
糸が走っていた。不揃いで、でも確かに繋がっていた。
悪くなかった。
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ポータルを作ったのは、その翌日だった。
東京に、まず一つ。
神田の路地の奥、人目につかない壁の前に作った。見た目は何もなかった。でも、そこに触れながら島を思えば、島に飛べる。
それから、京都に一つ。
父の家の近くの、古い神社の裏手に作った。
大阪にも一つ。
横浜にも一つ。
全部で五つ作った。
将来的には増やすかもしれなかった。子供たちが島を出て、各地で暮らし始めたら、便利な場所に増やせばいい。
ポータルの場所を、記録帳に書いた。
地図を描いて、正確な位置を記した。
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十日が経った。
島は、ずいぶん形になった。
畑に野菜が育っていた。果樹園の木が大きくなっていた。居住区の家に家具が揃っていた。地下空間が整っていた。ポータルが五箇所できていた。
でも、まだ何かが足りなかった。
結は広場に立って、母体樹を見た。
木は大きく育っていた。最初に植えた時より、さらに太くなっていた。枝が広がって、砂地に影を作っていた。
葉が風に揺れていた。
静かだった。
ここで子供が育つ。ここで声がする。ここで誰かが笑う。
今はまだ、何もなかった。
結一人だけだった。
風の音と、葉の音と、遠くの波の音だけだった。
結はそれが、寂しいと思うかどうか、自分でも分からなかった。
ただ、次のことを考えていた。
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その夜、囲炉裏の前で、記録帳を開いた。
島の準備状況を書いた。
できていることと、できていないことを整理した。
できていないことは一つだけになっていた。
> *母体樹に、頼む。*
その一行が、次にやることだった。
どうやって頼むか。
木に話しかけるのか。何かを渡すのか。
木は言葉を持たない。でも、何かを伝える方法があるはずだと思った。
異能で作った木だから、自分と繋がっているはずだった。
明日、地下に降りて、直接伝えよう。
記録帳を閉じた。
囲炉裏の火が、少し弱くなっていた。
結は火を見た。
揺れる炎が、根の光に似ていると思った。あの橙色と黄色の中間の、柔らかい光に。
少しだけ、目を細めた。
それから、火を消した。
部屋が暗くなった。
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翌朝、島で目覚めた。
初めて、島で眠った夜だった。
布団から出て、縁側に立った。
朝の島が見えた。
朝靄が、母体樹の根元に漂っていた。湖が静かに光を受けていた。畑の葉が、朝露を帯びていた。山が、朝の光を受けて影を落としていた。
鳥が一羽、母体樹の枝に止まっていた。
いつの間にか、来ていた。
どこから来たのか分からなかった。異能で排除したつもりだったが、鳥は入れようと思っていた。害鳥でなければ、いてもいいと思っていた。
小さな鳥だった。灰色と茶色の、地味な色の鳥だった。
枝の上で、一声鳴いた。
その声が、静かな朝の島に響いた。
結はその声を聞いた。
目を細めた。
初めて、声がした。
人の声ではなかった。でも、確かに生き物の声だった。
少しだけ、島が生きているように感じた。
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白湯を飲んで、地下へ向かった。
居住区と山の間の入口。木の扉に手をかけた。
扉が、静かに開いた。
階段を降りた。
一段ずつ、丁寧に降りた。
下へ行くにつれて、根の光が増してきた。橙色の柔らかい光が、壁を照らしていた。
最後の段を降りた。
広い空間に出た。
根が天井から広がっていた。太い根、細い根、さらに細い根。縦横に走って、空間全体を覆っていた。
全体が、微かに光っていた。
結はその光の中に立った。
しばらく、何も言わなかった。
ただ、根を見た。
根が動いていた。
揺れる、というほどではなかった。でも、静止してもいなかった。生きている、という感じで、微かに動いていた。
結は一番近くにあった太い根に、手を当てた。
温かかった。
木の幹よりも、温かかった。
「お願いがあります」
声に出した。
地下空間に、自分の声が響いた。
「子供を、宿してほしいのです」
続けた。
「私の血と、父親の血を使います。十月十日、ここで育てていただけますか。産まれる時は、私が受け取ります」
根が動いた。
わずかに。でも確かに動いた。
結の手のひらに、何かが伝わった。
言葉ではなかった。温度でもなかった。
強いて言えば、肯定、だった。
拒絶でも疑問でもなく、ただ、そうしましょう、という感触が伝わった。
結は手を当てたまま、少しの間動かなかった。
目の奥が、少し熱くなった。
涙ではなかった。
でも、熱くなった。
何を感じているのか、自分でも正確には分からなかった。安堵か。感謝か。それとも、これからが始まるという緊張か。
全部が混じっていた。
しばらくして、手を離した。
「よろしくお願いします」
もう一度言った。
根が、また微かに動いた。
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地上に戻ると、空が明るくなっていた。
朝靄が晴れていた。湖が青く光っていた。
母体樹を見上げた。
地上から見ると、ただの大きな木だった。でも地下に、あの根が広がっていると知っていた。
結は砂地に立って、木を見た。
あとは父親を選ぶこと。
血を集めること。
根に渡すこと。
それだけだった。
やることが、はっきりとした。
結は踵を返して、居住区へ向かった。
歩きながら、頭の中で計算した。
最初の子は女の子にする。男の子と交互にする。百年で百人。
一年に一人。
百年。
長い時間だった。
でも、やると決めたことをやめない。
母から受け継いだかもしれないその気質が、今この瞬間、結の背中を真っすぐにしていた。
足元の砂地が、朝の光を受けて白く光っていた。
母体樹の影が、その白い砂地に長く伸びていた。
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*第六章「母体樹」へ続く*




