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あみだくじ  作者: 有寄之蟻
第一巻 「奇跡の数え方」
6/10

第五章 異空間

---


翌朝、目が覚めた瞬間から、今日やることが分かっていた。


木を探す。


母体樹になる木を。


白湯を飲みながら、考えた。どんな木がいいか。大きな木がいい。太い木がいい。根が深く広く張る木がいい。長く生きる木がいい。


菩提樹、という言葉が浮かんだ。


仏陀が悟りを開いた木として知られている。釈迦が菩提樹の下で瞑想した。命と知恵に縁のある木だ。でも日本の菩提樹は、インドの菩提樹とは別の種だった。


結は湯呑みを置いて、少し考えた。


どちらでもよかった。


名前が重要なのではなかった。木そのものが、子供を宿せるものであればよかった。それは異能で作る木だから、既存の種とは別物になる。


でも名前はつけたかった。


母体樹。


読んで字の如く、母の体である木。


それが、この木の名前になると、自然に決まった。


---


出版社には、今日も仕事があった。


結は午前中で仕事を片付けて、昼過ぎに出た。


向かったのは、植物園だった。


東京の郊外にある、小さな植物園だった。入場料を払って、中に入った。冬の植物園は人が少なかった。枯れた木が多く、葉を落とした枝が空に広がっていた。


でも、常緑の木々は緑を保っていた。


結は一本ずつ、木を見て回った。


触れた。幹に手を当てて、中から何かを感じようとした。


松は硬かった。椎は厚みがあった。楠は香りが強かった。


どれも、悪くなかった。


でも、これだという感触がなかった。


結は奥の区画へ進んだ。あまり手入れの行き届いていない区画で、古い木が何本か立っていた。案内板もなく、名前も分からない木が混じっていた。


その中の一本の前で、足が止まった。


太かった。


幹の周りを両腕で抱えようとして、届かなかった。それほど太かった。樹皮が深く刻まれていて、縦に割れ目が走っていた。根元を見ると、地面から盛り上がるように根が張り出していた。


上を見た。


枝が広がっていた。冬だから葉は少なかったが、それでも枝の広がり方が、他の木とは違った。伸び方が、中心から外へ、均等に、丁寧に広がっていた。


結は幹に手を当てた。


温かかった。


冬の冷たい空気の中で、木の幹が温かかった。体温がある、というわけではなかった。でも、石や金属の冷たさとは全く違った。生きているものの温かさがあった。


しばらく手を当てたまま、立っていた。


これだと思った。


この木ではなく、この感触を持つ木を、島に作ろうと思った。


---


下宿に帰って、島へ飛んだ。


砂地の広場に降り立った。


中心の穴が、昨日のままあった。


結はその前に立って、目を閉じた。


植物園で触れた幹の感触を、思い出した。あの温かさ。あの太さ。あの根の張り方。


それを手の中に持つように想像した。


それから、穴の中に向かって、その想像を渡した。


異能が動いた。


穴の中で、土が動いた。


最初は小さかった。芽が出るような、細い緑が地面から現れた。


それが、ゆっくりと上へ伸びた。


茎が太くなった。幹になった。枝が出た。広がった。根が地面に潜っていった。幹が太くなり続けた。


結は目を開けて、それを見ていた。


時間をかけた。急かさなかった。木が自分のペースで育つのを、ただ見ていた。


一時間ほどかかった。


気がつくと、砂地の広場の中心に、大きな木が立っていた。


幹は太かった。植物園で見た木と同じくらいか、それ以上かもしれなかった。樹皮が深く刻まれていて、縦に割れ目が走っていた。根元から根が張り出して、砂地の上に広がっていた。上を見ると、枝が均等に広がっていた。


葉は、薄い緑色だった。常緑の葉。


冬の空の下で、その木だけが深い緑をしていた。


---


結は木の前に立って、しばらく見上げた。


大きかった。


自分が作ったものとは思えなかった。木は、初めからそこにあったように立っていた。砂地の中心で、静かに、大きく立っていた。


幹に手を当てた。


温かかった。


植物園で感じた温かさと、同じだった。いや、それ以上かもしれなかった。生きているものの温かさが、手のひらから伝わってきた。


「ありがとう」


思わず言った。


誰に言ったのか、自分でも分からなかった。木に言ったのか、自分の異能に言ったのか。


でも言った。


木は何も答えなかった。ただ、枝が少し揺れた。風はなかった。


---


次の問題があった。


地下空間を作らなければならなかった。


母体樹の真下に、広い空間が必要だった。そこに根を張らせて、根の先に子供を宿す。そのためには、地下に降りられる場所が必要だった。


居住区と山の間に、入口を作ることにした。


昨日作った居住区の家から、少し離れた場所。山の手前の斜面に、入口を作った。


石の枠組みを作って、木の扉をつけた。


扉を開けると、階段が下へ続いていた。


結は一段ずつ降りた。


暗かった。でも完全な闇ではなかった。異能で、微かな光を壁に持たせていた。石の壁が、薄く青白く光っていた。


降りながら、地下の空間を広げていった。


母体樹の幹の直下まで、真っすぐ降りていく階段。


最後の段を降りると、広い空間に出た。


天井が高かった。人が十人集まっても、窮屈にならない広さがあった。


そして、根があった。


母体樹の根が、天井から降りていた。いや、正確には地面から上へ広がっていた。太い根が、いくつも走っていた。細い根が、その間を縫うように広がっていた。


根が、微かに光っていた。


青白い光ではなく、もっと温かみのある光だった。橙色と黄色の中間のような、柔らかい光だった。


結はその光の中に立って、見上げた。


根の広がりが、天井いっぱいに及んでいた。


壮観だった、という言葉は大げさかもしれなかった。でも、ここには確かに何かがあると思った。ただの根ではなかった。命を宿すための場所だと、目で見て感じた。


---


地下空間を整えた。


床を平らにして、歩きやすくした。


壁の光を調整して、暗すぎず、明るすぎない光にした。


空気を通した。地上から清潔な空気が流れるように、細い通路を作った。


温度を一定に保つようにした。


それから、入口の扉に制限をつけた。


基本的に、立入禁止。


入れるのは、結と、子供を宿した両親だけ。それ以外の者は、扉が開かない。


扉に触れた瞬間に、その人間が誰かが分かる仕組みを作った。


---


地上に戻ると、夕方になっていた。


広場に出て、母体樹を見上げた。


夕焼けの空を背景に、母体樹が立っていた。枝が広がって、葉が風に揺れていた。根元の砂地に、長い影が伸びていた。


結は少しの間、その景色を見た。


静かだった。


一日がかりで、島はずいぶん形になった。


でもまだ、生き物がいなかった。


鳥も、虫も、動物も。害虫や害獣は最初から排除するつもりだったが、全くの無音は寂しかった。


風の音だけがあった。


草が揺れる音。葉が揺れる音。


それだけだった。


子供たちが来れば、もっと賑やかになる。そう思いながら、結は居住区の家へ向かった。


---


家に入った。


土間に立って、部屋を見回した。


昨日作った時のままだった。家具はなかった。畳だけがあった。囲炉裏は空だった。


作らなければならないものが、まだたくさんあると気づいた。


布団。食器。調理道具。ランプ。本棚。机。


子供が来るまでに、必要なものを揃えなければならなかった。


でも今日は疲れていた。


囲炉裏の前に座った。


火をつけた。思っただけで、囲炉裏に火が入った。


橙色の光が、部屋を照らした。


炎を見ていた。


ゆっくりと揺れる炎を。


東京の下宿では、蝋燭一本の光だった。ここでは囲炉裏の炎だった。どちらも橙色だった。でも大きさが全然違った。


暖かかった。


体の疲れが、少しずつ抜けていくような気がした。


---


次の日から、細部を整えた。


畑の土を作り直した。


柔らかくて、栄養の豊かな土を。何を植えても育つような土を。根が深く張れるような土を。


それから、植物の育ち方を操作した。


普通より早く育つ。実が大きくなる。栄養価が高くなる。


これは慎重にやった。


無理に育てれば、植物が弱くなる。強く大きく育つのに、弱くなっては意味がなかった。


丁寧に、一つずつ調整した。


種を蒔いた。大根、芋、菜っ葉。


翌日には、もう芽が出ていた。


三日後には、食べられるほどに育った。


結はその大根を一本抜いて、見た。


大きかった。太くて、白かった。土の匂いがした。


齧ってみた。


甘かった。


---


果樹園の苗木が育ち始めた。


梅の木が最初に花をつけた。


白い花が、冬の空の下に咲いた。


結はその花の前で、少し立ち止まった。


梅の花を見るのが好きだった。京都の家の庭に、父が植えた梅の木があった。毎年春先に白い花が咲いて、結はその花を縁側から見ていた。


ここの梅は、父の梅より早く咲いた。


でも花の形は同じだった。白くて、小さくて、香りのある花だった。


少しだけ、父のことを思った。


今頃、京都で同じ梅を見ているかもしれなかった。縁側で、一人で、お茶を飲みながら。


---


布を作ることも始めた。


畑の一角に、綿と麻の種を蒔いた。


綿が育って、実がはじけた。白い綿が、畑の一角に広がった。


それを摘んで、糸に紡いだ。


最初は異能でやろうとした。でも途中で手を止めた。


子供たちに教えるためには、自分が手作業でできなければならない。異能に頼った方法を教えても、子供たちは同じようにできない。


道具を作った。


紡ぎ車を作った。機織りの道具を作った。


それから、一から手でやった。


綿を梳いて、糸に紡いだ。糸を織って、布にした。


時間がかかった。


三日かけて、一反の布ができた。


薄い生成りの色だった。不揃いな部分もあったが、布だった。ちゃんと、手で作った布だった。


結はその布を手に持って、広げた。


光に透かして見た。


糸が走っていた。不揃いで、でも確かに繋がっていた。


悪くなかった。


---


ポータルを作ったのは、その翌日だった。


東京に、まず一つ。


神田の路地の奥、人目につかない壁の前に作った。見た目は何もなかった。でも、そこに触れながら島を思えば、島に飛べる。


それから、京都に一つ。


父の家の近くの、古い神社の裏手に作った。


大阪にも一つ。


横浜にも一つ。


全部で五つ作った。


将来的には増やすかもしれなかった。子供たちが島を出て、各地で暮らし始めたら、便利な場所に増やせばいい。


ポータルの場所を、記録帳に書いた。


地図を描いて、正確な位置を記した。


---


十日が経った。


島は、ずいぶん形になった。


畑に野菜が育っていた。果樹園の木が大きくなっていた。居住区の家に家具が揃っていた。地下空間が整っていた。ポータルが五箇所できていた。


でも、まだ何かが足りなかった。


結は広場に立って、母体樹を見た。


木は大きく育っていた。最初に植えた時より、さらに太くなっていた。枝が広がって、砂地に影を作っていた。


葉が風に揺れていた。


静かだった。


ここで子供が育つ。ここで声がする。ここで誰かが笑う。


今はまだ、何もなかった。


結一人だけだった。


風の音と、葉の音と、遠くの波の音だけだった。


結はそれが、寂しいと思うかどうか、自分でも分からなかった。


ただ、次のことを考えていた。


---


その夜、囲炉裏の前で、記録帳を開いた。


島の準備状況を書いた。


できていることと、できていないことを整理した。


できていないことは一つだけになっていた。


> *母体樹に、頼む。*


その一行が、次にやることだった。


どうやって頼むか。


木に話しかけるのか。何かを渡すのか。


木は言葉を持たない。でも、何かを伝える方法があるはずだと思った。


異能で作った木だから、自分と繋がっているはずだった。


明日、地下に降りて、直接伝えよう。


記録帳を閉じた。


囲炉裏の火が、少し弱くなっていた。


結は火を見た。


揺れる炎が、根の光に似ていると思った。あの橙色と黄色の中間の、柔らかい光に。


少しだけ、目を細めた。


それから、火を消した。


部屋が暗くなった。


---


翌朝、島で目覚めた。


初めて、島で眠った夜だった。


布団から出て、縁側に立った。


朝の島が見えた。


朝靄が、母体樹の根元に漂っていた。湖が静かに光を受けていた。畑の葉が、朝露を帯びていた。山が、朝の光を受けて影を落としていた。


鳥が一羽、母体樹の枝に止まっていた。


いつの間にか、来ていた。


どこから来たのか分からなかった。異能で排除したつもりだったが、鳥は入れようと思っていた。害鳥でなければ、いてもいいと思っていた。


小さな鳥だった。灰色と茶色の、地味な色の鳥だった。


枝の上で、一声鳴いた。


その声が、静かな朝の島に響いた。


結はその声を聞いた。


目を細めた。


初めて、声がした。


人の声ではなかった。でも、確かに生き物の声だった。


少しだけ、島が生きているように感じた。


---


白湯を飲んで、地下へ向かった。


居住区と山の間の入口。木の扉に手をかけた。


扉が、静かに開いた。


階段を降りた。


一段ずつ、丁寧に降りた。


下へ行くにつれて、根の光が増してきた。橙色の柔らかい光が、壁を照らしていた。


最後の段を降りた。


広い空間に出た。


根が天井から広がっていた。太い根、細い根、さらに細い根。縦横に走って、空間全体を覆っていた。


全体が、微かに光っていた。


結はその光の中に立った。


しばらく、何も言わなかった。


ただ、根を見た。


根が動いていた。


揺れる、というほどではなかった。でも、静止してもいなかった。生きている、という感じで、微かに動いていた。


結は一番近くにあった太い根に、手を当てた。


温かかった。


木の幹よりも、温かかった。


「お願いがあります」


声に出した。


地下空間に、自分の声が響いた。


「子供を、宿してほしいのです」


続けた。


「私の血と、父親の血を使います。十月十日、ここで育てていただけますか。産まれる時は、私が受け取ります」


根が動いた。


わずかに。でも確かに動いた。


結の手のひらに、何かが伝わった。


言葉ではなかった。温度でもなかった。


強いて言えば、肯定、だった。


拒絶でも疑問でもなく、ただ、そうしましょう、という感触が伝わった。


結は手を当てたまま、少しの間動かなかった。


目の奥が、少し熱くなった。


涙ではなかった。


でも、熱くなった。


何を感じているのか、自分でも正確には分からなかった。安堵か。感謝か。それとも、これからが始まるという緊張か。


全部が混じっていた。


しばらくして、手を離した。


「よろしくお願いします」


もう一度言った。


根が、また微かに動いた。


---


地上に戻ると、空が明るくなっていた。


朝靄が晴れていた。湖が青く光っていた。


母体樹を見上げた。


地上から見ると、ただの大きな木だった。でも地下に、あの根が広がっていると知っていた。


結は砂地に立って、木を見た。


あとは父親を選ぶこと。


血を集めること。


根に渡すこと。


それだけだった。


やることが、はっきりとした。


結は踵を返して、居住区へ向かった。


歩きながら、頭の中で計算した。


最初の子は女の子にする。男の子と交互にする。百年で百人。


一年に一人。


百年。


長い時間だった。


でも、やると決めたことをやめない。


母から受け継いだかもしれないその気質が、今この瞬間、結の背中を真っすぐにしていた。


足元の砂地が、朝の光を受けて白く光っていた。


母体樹の影が、その白い砂地に長く伸びていた。


---


*第六章「母体樹」へ続く*

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