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あみだくじ  作者: ふらう
第一巻 「奇跡の数え方」
5/10

第四章 島を探して

---


東京に戻った夜、結は記録帳を開いた。


新しい頁に、日付を書いた。それから、ペンを持ったまま少し考えて、書き始めた。


> *決めた。*

> *子供を産む。百年、続ける。*

> *そのために必要なことを、順番に整える。*


書いてから、読み返した。


三行だけだった。でもこの三行が、全ての始まりだった。


ペンを置いて、灯りを消した。


布団に入って、目を閉じた。


怖くはなかった。焦りもなかった。ただ、やることが決まった時の静かな落ち着きが、胸の中にあった。やると決めたことをやめない。それは母から受け継いだものかもしれなかったし、もともと自分の中にあったものかもしれなかった。


どちらでもよかった。


---


翌朝から、結は準備を始めた。


まず、条件を整理した。


記録帳の新しい頁に、必要なことを書き出した。


> *一、場所が必要。*

> *人が来ない。日本から離れすぎない。公式には無人。土台となる場所がある。*

> *二、その場所を、異空間にする。*

> *外からは見えない。内側は広く作る。*

> *三、子供が安全に育てられる環境を整える。*

> *食料、水、住む場所、教育。*

> *四、子供の父親を選ぶ方法を考える。*

> *五、出産について、知識を得る。*


五番目を書いてから、少し手が止まった。


知識を得る。


それが最初の課題だった。異能があっても、知らないことは知らなかった。母体樹というものを作ろうと、漠然とした構想はあった。木が子を宿す。それを自分が受け取る。でも、どうやって木に宿らせるのか。十月十日の間に、何が必要なのか。


まず、知らなければならなかった。


---


出版社の仕事を終えた後、結は図書館へ向かった。


神田の古い図書館だった。仕事柄、よく使っていた場所だった。


司書に声をかけずに、自分で棚を探した。医学の棚、産科の棚。当時の日本で手に入る資料は限られていたが、それでも何冊かあった。明治時代に翻訳された西洋の産科書、日本の医師が書いた解説書、助産に関する手引き書。


全部を棚から出して、机に並べた。


読み始めた。


最初の一冊は、難しい漢語が多かった。でも結は漢学の素養があった。父に習った読み方で、一語ずつ辿った。


妊娠の仕組みが書いてあった。


精子と卵子が結合して、受精卵になる。それが子宮の壁に着床して、胎盤を作る。胎盤を通じて、母体から栄養が届く。へその緒が繋がる。週を追うごとに、胎児が形を作っていく。


結は読みながら、頭の中で整理した。


木に置き換えた時、何が対応するか。


子宮が、根の先の空間に対応する。胎盤が、根そのものに対応する。へその緒が、根と胎児を繋ぐ部分に対応する。栄養は、根から届ける。


できる、という感触があった。


でも、次の頁を読んで、手が止まった。


妊娠初期の流産について書かれていた。


胎児が正常に育たない場合、自然に排出されることがある。原因は様々で、遺伝的な問題、母体の状態、外的な衝撃。


結はその頁を、時間をかけて読んだ。


木の根の中では、衝撃は防げる。でも遺伝的な問題は、どうするか。健康な血を選ぶこと。それだけでは防ぎきれないかもしれない。


続きを読んだ。


---


三冊目の本を読んでいた時、手が一度だけ止まった。


出産時の母体のリスクについて書かれた章だった。


難産。大量出血。産後の肥立ちの悪さ。


書いてある言葉は医学的で、淡々としていた。でも結は、その言葉の向こうに母の顔を探した。顔は知らなかった。でも、この本に書いてあることが、母の身に起きたのだ、と思った。


産後の肥立ちが悪く、という言葉を、父から聞いたことがあった。


頁をめくる手が、少し遅くなった。


感情的にはならなかった。泣くということは、なかった。ただ、手が少し遅くなった。


それだけだった。


読み終えて、本を閉じた。


記録帳を出して、メモを取った。必要な知識を、整理して書いた。感情は書かなかった。でもその日だけは、メモの最後に一行だけ書いた。


> *母は、大変だったと思う。*


---


図書館に通うこと、五日間。


結は手に入る資料を全て読んだ。


知識として、十月十日の過程がある程度分かった。週ごとに何が形成されるか。何が必要か。何が危険か。完全ではなかったが、設計するには充分だと判断した。


残りは、母体樹自身に任せる部分になると思った。


自分が作る。でも、育てるのは木だ。


そのためには、木が必要だった。


木のためには、場所が必要だった。


---


場所を探すことを、始めた。


結は仕事の合間に、地図を集めた。


日本近海の海図。沿岸部の地図。無人島の記録。官庁の出版した資料、古い航海記録、漁師の話をまとめた民俗誌。


読み込みながら、候補を絞っていった。


条件は記録帳に書いた通りだった。人が来ない。日本から離れすぎない。公式には無人。土台となる場所がある。


いくつかの島が候補に上がった。


地図の上で名前を確認して、場所を頭に入れた。それから、異能を使って一つずつ確かめた。


最初は地図の上から確かめた。


距離も方向も、大まかには分かった。次に、実際に飛んだ。


---


最初の島は、伊豆の沖にあった。


名前のない小島だった。地図には岩礁と記されていた。


結は異能で、東京の下宿からそこへ飛んだ。


初めて使う、遠距離への移動だった。


目を閉じて、その場所を想像した。地図で見た座標。海の上の、小さな岩。


次の瞬間、潮の匂いがした。


目を開けると、海の上にいた。


岩礁の端に立っていた。足の下は黒い岩で、波が打ちつけていた。周りは全て海だった。水平線が、どこまでも続いていた。風が強かった。


結はその岩の上に立って、周囲を見た。


小さすぎた。


岩礁の上に立てる面積は、畳数枚分ほどだった。異空間を作れば内側は広くできる。でも土台が小さすぎると、作り方が難しくなると感じた。


次へ行った。


---


二番目は、房総の沖だった。


こちらは少し大きかった。砂浜もあった。でも、漁船が近くを通っていた。見えない異空間にするとはいえ、人が近くを頻繁に通る場所は避けたかった。


三番目は、九州の西の沖だった。


大きさはよかった。人も来なかった。でも本土から遠すぎた。ポータルを使えばどこへでも行けるが、距離が遠いということは、それだけ異空間を維持する負荷が変わるかもしれないと思った。


四番目は、四国の南の沖だった。


着いた瞬間に、何かが違うと感じた。


岩が多くて、足場が悪かった。植物が生えるような土が、ほとんどなかった。ここでは、畑を作るのが難しいと思った。


四つとも、違った。


---


五番目の候補を探すために、もう一度地図に戻った。


もっと細かく見た。名前のない岩、記録の薄い小島、漁師も寄り付かない海域。


一つ、目に留まるところがあった。


地図には、何も書いていなかった。岩の記号が一つあるだけだった。近くに名前はなかった。どの航路からも外れていた。


結はその場所の座標を、記録帳に書いた。


翌日の朝、仕事の前に飛んだ。


---


目を開けると、風があった。


でも前の島たちよりは、穏やかだった。


足の下は、灰色の岩だった。でも表面に、薄く土が積もっていた。植物の根が張れる程度の土が、岩の隙間にあった。


結は一歩踏み出した。


岩の上を歩いた。大きさを確かめた。歩いて回るのに、数分かかった。小さくはなかった。大きくもなかった。


周りを見た。


海だけだった。どの方向にも、陸地は見えなかった。船も見えなかった。波の音だけがあった。


空を見た。


曇っていた。雲が低く、厚かった。冬の空だった。鳥が一羽、遠くを飛んでいた。


結は岩の真ん中に立って、しばらく動かなかった。


風が髪を揺らした。黒い髪が、顔にかかった。結はそれを、一本指で耳の後ろに戻した。


何かがあった。


言葉にするのが難しかった。この岩に、何かがあるとは言えなかった。でも、他の四つの島にはなかった何かが、ここにはあった。


静けさ、とは少し違った。


距離、とも違った。


強いて言えば。


余白、だった。


何もない岩島。何も決まっていない場所。ここに来た人間は、ほとんどいないだろう。誰かの歴史が積み重なっていない場所。


ここなら、自分が最初から作れる。


「ここでいい」


声に出した。


波の音に、すぐに消えた。


でも、言った。


それで充分だった。


---


その日の夕方、出版社から戻って、結は記録帳に書いた。


> *島、見つけた。*

> *何もない岩島。それでいい。*

> *これから作る。*


三行書いて、その下に小さく付け加えた。


> *静かな場所だった。*


---


翌日の休みの日、結は島に戻った。


今度は荷物を持っていかなかった。何かを持っていく段階ではなかった。


岩の上に立って、目を閉じた。


異空間を作る、ということを、頭の中で整理した。


外からは岩島のままに見える。中は、広い。


どのくらい広くすべきか。


最初は小さくていいと思った。子供が増えるにつれて、広げていけばいい。異空間は後から拡張できるはずだった。


まず、どんな場所にするか。


中心に、広場。そこに、木を植える場所。


北側に、居住区。山があるといい。背後に山があると、風が遮られる。居住区の後ろに山を作る。


南側に、畑。日当たりのいい場所。


東側に、湖。


東側を考えた時、少し止まった。


湖が欲しかった。水のある場所が好きだった。子供たちも、水の近くで育った方がいいと思った。それだけではなく、ただ、水が見える場所にいたかった。


それでいいと思った。自分がいい場所にする。そこに子供たちが育つのだから。


西側に、果樹園。


畑から海岸に降りる道も作る。砂浜がある方がいい。子供たちが走れる場所。


居住区と山の間に、地下への入口。


山の頂上は、広場にする。


なぜ広場か、とはまだ考えなかった。


でも、後になって必要になると、この時すでに感じていた。


---


目を開けた。


岩の上に立って、深く息を吸った。


冷たい海の空気が、肺に入った。


始める、と思った。


異能が動き始めた。


最初は、外側から始めた。


この岩島を、異空間で包む。外からは何も変わらない。岩島のまま。でも内側は、別の空間になる。


それを、ゆっくりと広げた。


目には見えなかった。でも手応えがあった。空気が変わる感触。岩の上にいながら、内側の空間が広がっていく感触。


時間をかけた。急がなかった。


異空間が安定したのを感じた。


次に、地面を作った。


岩の上に、土を重ねた。薄い土ではなく、根が深く張れる、豊かな土を。柔らかく、湿り気のある土を。


土の匂いがした。


海の岩の匂いが、土の匂いに変わっていった。


それから、草を生やした。


細い草が、足の下から伸びてきた。緑が広がった。


結はその草の上に立って、下を見た。


緑だった。


さっきまで灰色の岩だったところに、緑があった。


---


次に、山を作った。


北側の後方に、ゆっくりと隆起させた。


土が盛り上がって、岩が走って、木が生えた。高くなっていった。大きな山ではなかった。でも、居住区の後ろに立つには充分な高さだった。


山に木を植えた。


常緑の木が好みだったから、常緑の木を多くした。松、椎、楠。葉を落とさない木。どの季節でも緑がある。


山頂は、平らにした。広場にした。


なぜここを広場にしたいのか、まだ言葉にしなかった。ただ、平らにしておいた。


湖を作った。


東側に、窪みを掘った。地下水を引いた。水が溜まった。


水面が、空を映した。


結はその水面を見た。


きれいだった。何もない湖だったが、空の色を映して、静かに揺れていた。


少しだけ、表情が緩んだ。


気づかないほどの変化だったが、確かに緩んだ。


---


畑を南側に作った。


土を耕して、畝を立てた。何を植えるかは後で決める。まず土台だけ。


果樹園を西側に作った。


苗木を植えた。梅、柿、栗、橘。実のなる木を選んだ。育つまでに時間がかかる木もあったが、異能で育ちを早められるかもしれなかった。


居住区を北側に作った。


山の手前に、家を建てた。


最初は一軒だけでよかった。自分が住む場所と、子供たちの部屋。小さくてよかった。後で広げればいい。


木の壁、土間、囲炉裏。畳の部屋が二つ。縁側。


縁側を作りながら、父の家の縁側を思い出した。


庭に面した縁側で、二人で茶を飲んだ。その場所が、好きだった。


だから縁側を作った。


---


中心の広場を、最後に整えた。


円形に、砂地を作った。砂は白くした。細かくて、柔らかい砂を。


その中心に、穴を掘った。


木を植える場所だった。


母体樹を植える場所だった。


まだ木はなかった。穴だけがあった。


結はその穴の前に、しゃがんだ。


手で土に触れた。柔らかかった。湿っていた。


ここに木を植える。その木に、子供を宿してもらう。


まだ木がないのに、穴の前でそれを思うと、不思議な感覚があった。


ここから始まる、という感覚。


まだ何もない。でも、場所はできた。


---


日が傾いてきた。


異空間の中は、外の空よりも明るかった。でも時間の経過は同じだった。一日かけて、島の土台を作った。


結は砂地の広場に座った。


まだ中心の穴には何もなかった。でも周りには、山があって、湖があって、畑があって、家があった。草が生えていた。鳥の声はまだなかった。虫の声もなかった。静かだった。


とても静かだった。


結はその静けさの中で、少しの間だけ、何も考えなかった。


考えなかったのではなく、考えることが一時間なかった。


疲れていた。


異能を一日中使い続けることは、初めての経験だった。体が疲れるというより、意識が薄くなるような疲れ方だった。


結は砂の上に手をついて、空を見上げた。


異空間の空は、外の空と同じ色だった。冬の夕方の、薄いオレンジ色。


きれいだった。


声には出さなかった。でも、きれいだと思った。


---


立ち上がって、砂を払った。


今日できたことを確認した。


異空間。地面。山。湖。畑。果樹園。居住区の家。砂地の広場。


できていないことを確認した。


母体樹。ポータル。細部の整備。


明日以降、続ける。


結は東京の下宿への帰り方を想像した。


次の瞬間、下宿の部屋にいた。


畳の上に立って、部屋を見回した。


机があった。本棚があった。蝋燭があった。


全部、同じだった。


でも今日から、この部屋の他に、もう一つの場所が自分にはあった。


結は机の前に座って、記録帳を開いた。


日付を書いた。


それから、今日作ったものを、順番に書いた。感情は書かなかった。


でも最後の行だけ、事実ではないことを書いた。


> *空がきれいだった。*


記録帳を閉じた。


灯りを消した。


布団に入った。


目を閉じると、今日作った島が見えた。


まだ木のない砂地の広場。穴だけが開いた、真ん中。


そこに、木が育つ。


その木に、子供が宿る。


結は目を閉じたまま、その場面を想像した。


まだ遠い先の話だった。でも、確かに続く話だった。


眠りに落ちる前に、最後に一つだけ思った。


明日は、木を探しに行こう。


---


*第五章「異空間」へ続く*

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