表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あみだくじ  作者: 有寄之蟻
第一巻 「奇跡の数え方」
4/10

第三章 京都

---


出版社に休みを申し出たのは、八日目の朝だった。


「少し用がありまして。三日、いただけますか」


上司の田中は、書類から顔を上げて結を見た。結が休みを申し出るのは、珍しいことだった。


「急な話だな。差し支えなければ、理由を聞かせてもらえるか」


「京都に帰ります。父の顔を見てこようと思いまして」


田中は少し間を置いてから、頷いた。


「そうか。校正の件は、戻ってから続きを頼む」


「はい。ありがとうございます」


それだけだった。


結は席に戻って、今日の分の仕事を午前中に片付けた。引き継ぎの必要なものは、簡潔に書き置きをした。余計なことは書かなかった。


昼過ぎに、出版社を出た。


---


東京駅は混んでいた。


師走が近い時期で、荷物を抱えた人々が行き交っていた。結は改札を抜けて、ホームへ向かった。汽車の煙の匂いが、遠くから漂ってきた。


京都までは、急行で数時間かかった。


窓側の席を取った。向かいの席に、中年の夫婦が座った。二人は時々小声で話し合いながら、弁当を広げていた。結は窓の外を見た。


東京の街が、ゆっくりと後ろへ流れていった。


街が途切れると、田畑が広がった。枯れた田んぼが、灰色の空の下に続いていた。十一月の風景は、色が少なかった。茶色と灰色と、時々常緑の松の緑。


結は景色を見るともなく見ながら、考えていた。


父に何を話すかは、決めていなかった。


異能のことは話さないつもりだった。話す必要がなかった。父を心配させることもなかったし、話したところで何かが変わるわけでもなかった。


ただ、会いたかった。


それ以上の理由は、うまく言えなかった。七日間、一人で異能と向き合って、記録帳に事実だけを書き続けた。その間、誰とも話さなかった。村田と蕎麦を食べたが、肝心なことは何も話さなかった。


父の顔が、見たかった。


それだけだった。


---


京都に着いたのは、夕方だった。


駅を出ると、空気が違った。


東京より冷たかった。乾いていた。石畳の古い通りを歩くと、足音の響き方まで違う気がした。


結は幼い頃から、この街で育った。


でも今は、少し遠い場所のような感覚があった。自分が変わったせいか、それとも久しぶりに来たせいか、判断できなかった。


父の家は、街の外れにある古い町家だった。


木戸を開けると、玄関の灯りがついていた。


「父様」


声をかけると、奥から物音がした。廊下に父が現れた。


綾瀬惟之は、娘の顔を見て少し目を細めた。それが父の、感情の出し方だった。大げさに喜ぶことはしない。でも、嬉しいということは、目の細め方で分かった。


「帰ったか」


「はい。急に済みません」


「上がれ。飯はまだか」


「まだです」


「そうか」


それだけで、父は台所へ向かった。


結は荷物を下ろして、手を洗った。台所から、出汁の匂いがしてきた。


---


夕飯は、豆腐と青菜の煮物と、焼いた塩鮭だった。


父は料理が得意ではなかったが、不味くはなかった。結が幼い頃から、父が作る飯はいつもこういう感じだった。手間をかけない。でも、ちゃんと食べられる。


二人で食卓を挟んで、黙って食べた。


「仕事は」


「続いています」


「体は」


「問題ありません」


「そうか」


それだけで、父は飯を食べ続けた。


結も食べた。豆腐が柔らかかった。出汁の味が染みていた。東京の蕎麦屋の味より、こちらの方が好きだと思った。


食べ終えると、父が茶を淹れた。二人で縁側に移った。


庭は暗かった。枯れた木が、黒いシルエットになって立っていた。遠くで、虫の声が一つ、小さく鳴いていた。十一月に虫が鳴くのは珍しかった。


二人は茶を飲んで、黙っていた。


この沈黙が、結は嫌いではなかった。


話さなければならないと感じない沈黙だった。それぞれが自分の時間を持ちながら、同じ場所にいる。それだけでいい、という沈黙だった。


---


しばらくして、父が口を開いた。


「何かあったか」


結は茶碗を持ったまま、少し考えた。


「何かあったというわけでは」


「そうか」


父はそれ以上聞かなかった。


結は庭の暗がりを見た。


「少し、考えていることがあって」


「うん」


「まだ、はっきりとした形ではないのですが」


「うん」


父は急かさなかった。結が言葉を探す時間を、黙って待った。


「人が産まれるということについて」


言ってから、続きを探した。


「一人の命が産まれるまでに、どれだけの命が繋がってきたか、ということを考えていました」


父は少し間を置いてから言った。


「家系図でも見たか」


結は少し目を上げた。


「仕事で」


「そうか」


父は庭を見た。それから、ゆっくりと話し始めた。


「お前が産まれた時、わしは家系図を出した。お前の曾祖父が書いたものだ。どこまで遡れるか、確かめたくてな」


「知りませんでした」


「話したことはなかった。わしが一人で出して、一人で眺めた。それだけのことだから」


父は茶を一口飲んだ。


「何代遡れたと思う」


「分かりません」


「七代だ。それより前は、記録が残っていない。七代で、何十人という名前があった」


結は聞いていた。


「その全員が繋がって、お前が産まれた。そう思ったら」


父は少し止まった。


「妙な気持ちになった。嬉しいとも、重いとも違う。ただ、妙な気持ちだった」


結は父の顔を見た。父は庭を見ていた。


「私も、同じ気持ちになりました」


父は少し頷いた。それだけだった。


---


その夜は、父の家に泊まった。


客間に布団を敷いて、横になった。


天井が、東京の下宿と違った。古い木の天井だった。節が一つあって、子供の頃からその節をよく見ていた。形が、何かの顔に見えた。何の顔かは分からなかった。でも、いつも見るたびに同じ顔に見えた。


久しぶりに見た。やはり同じ顔だった。


目を閉じた。


---


翌日は、父と二人で過ごした。


午前中は、父が本を読み、結も本を読んだ。同じ部屋で、別々のことをしていた。時々、どちらかが茶を淹れた。


昼は、近くの蕎麦屋で食べた。


父は蕎麦屋の主人と顔見知りだった。簡単な挨拶をして、席に座った。結はせいろを頼んだ。父はかけを頼んだ。


「お前の母親も、ここの蕎麦が好きだったよ」


父が言った。


結は箸を持ったまま、父を見た。


父が母の話をするのは、珍しかった。年に一度あるかないかだった。


「そうですか」


「ここへよく来た。二人で。結婚した頃の話だが」


父は蕎麦を食べながら、特に感情的なふうでもなく話した。


「どんな人でしたか」


結が聞いたのは、初めてに近かった。


父は少し考えてから、答えた。


「静かな人だった。でも、笑う時はよく笑った。本が好きで、声に出して読む癖があった。夜中でも構わず読んでいたから、やめさせようとしたが、聞かなかった」


結は蕎麦を一口食べた。


「私に似ていますか」


「静かなところは似ている。声に出さないところは違う。お前は黙って読む」


「そうですね」


「あとは」


父は少し止まった。


「頑固なところが似ている。やると決めたことをやめない」


結は少し目を伏せた。


自分では、頑固だとは思っていなかった。ただ、途中でやめることが好きでないだけだった。でも父から見ればそう見えるのか、と思った。


「母は、頑固だったのですか」


「お前を産む時もそうだった」


父の声が、少しだけ変わった。変わった、というほどでもなかった。でも結には分かった。


「難産だったと聞きました」


「うん」


父は蕎麦を食べた。


「怖くなかったのかと、後で思った。産む前から、危ないかもしれないと分かっていた。医者にも言われていた。でも、やめなかった」


結は父の顔を見た。父は蕎麦の器を見ていた。


「やめさせようとは」


「したよ。でも聞かなかった」


父は短く笑った。笑い、というより、息を一つ吐いたような音だった。


「頑固だから」


結は黙っていた。


蕎麦屋の中は静かだった。厨房から、出汁の匂いがしていた。


---


夜、また縁側に座った。


昨夜より風が強かった。庭の木が、枝を揺らしていた。


父が珍しく、先に口を開いた。


「産まれてきたお前を見た時、あの人はとても嬉しそうだった。疲れ果てていたのに、笑っていた」


結は庭を見たまま、聞いていた。


「何て言いましたか」


「結、と言った。名前を付けたのはあの人だ。お前が産まれてすぐ、わしに向かって言った。結、という名前にしたい、と」


「なぜ結という名前に」


「聞いたが、教えてくれなかった。笑って、いい名前でしょう、とだけ言った」


結は自分の名前を、頭の中で一度呼んだ。


結。


繋ぐ、という意味がある。結ぶ、という意味がある。


母が、何を思ってこの名前をつけたのか。もう聞くことができなかった。でも、この瞬間、何となく分かるような気がした。確かめるすべはなかった。でも、そういう気がした。


「その後すぐ、眠った。そのまま」


父の声は静かだった。責めるような色も、嘆くような色もなかった。ただ、事実として話していた。


「疲れていたから」


「うん。疲れていたから」


二人は黙った。


風が、庭の枯れ葉を転がした。


結は茶碗を両手で包んで、温かさを感じた。母のことを、悲劇だと思ったことは何度もあった。自分を産んで死んだ人。顔も声も知らない人。でも今夜初めて、それが悲劇ではなく、選択だったのかもしれないと思った。


やめなかった、と父は言った。


危ないと分かっていて、やめなかった。


頑固だから、と父は笑った。


でも結には、頑固とは少し違う気がした。


やると決めたことだったから、やったのだと思った。


どんな結果になるとしても。


---


翌朝、帰る支度をしながら、結は父に言った。


「父様。私、少し遠いところへ行くかもしれません」


父は縁側で茶を飲んでいた。結の言葉を聞いて、茶碗を持ったまま娘を見た。


「遠い、とはどのくらい」


「はっきりとは言えません。でも、大丈夫です」


父はしばらく結の顔を見た。


結は父の視線を、真っすぐ受けた。何かを隠しているわけではなかった。説明できないことがある、というだけだった。


父は茶碗を縁側に置いた。


「そうか」


一言だけ言って、庭を見た。それから、また結を見た。


「お前は昔から、普通の生き方には収まらないと思っていた」


「そうですか」


「お前の母親もそうだった。だからお前もそうなのだろうと、ずっと思っていた」


結は少し目を伏せた。


「気をつけて行け」


父はそれだけ言って、また庭を見た。


止めなかった。理由を聞かなかった。心配するな、とも言わなかった。ただ、気をつけて行け、と言った。


それが、父の愛情の出し方だった。


結には、充分だった。


「はい」


短く答えて、結は荷物を持った。


玄関で草履を履いて、振り返った。父は縁側から、こちらを見ていた。


「また来ます」


「うん」


木戸を開けて、外に出た。


振り返らなかった。振り返る必要がなかった。


---


京都駅へ向かう道を歩きながら、結は考えていた。


やると決めたことをやめない。


母の話を聞いた時から、何かが固まりつつあった。七日間考え続けた問いが、答えの輪郭を帯び始めていた。


まだ決めてはいなかった。


でも、決めるために必要なものが、この三日間で揃ったような気がした。


父の顔を見て、母の話を聞いて、自分の名前の意味を考えた。


結、という名前。


繋ぐ、という名前。


汽車に乗って、東京へ向かった。車窓の外を、冬の景色が流れていった。


結は窓に額を近づけて、流れる景色を見た。田畑、山、川、集落、また田畑。


どこへ行っても、人の痕跡があった。


誰かが耕した田。誰かが建てた家。誰かが渡った橋。全部、人が作ったものだった。その人たちも、何百年も続いた命の先にいた。


汽車の揺れが、一定のリズムで続いた。


結は目を閉じた。


頭の中で、家系図の線が広がった。どこまでも広がる、枝分かれした線が。


その線を、自分が引いていく場面を、初めて具体的に想像した。


目を開けた。


窓の外は、もう田畑ではなかった。山が続いていた。晩秋の山が、葉を落として、黒い枝だけを空に広げていた。


結は山を見た。


決めた。


声には出さなかった。誰かに告げるわけでもなかった。ただ、静かに、自分の中で決まった。それだけだった。


汽車は東京へ向かって走り続けた。


---


*第四章「島を探して」へ続く*

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ