第三章 京都
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出版社に休みを申し出たのは、八日目の朝だった。
「少し用がありまして。三日、いただけますか」
上司の田中は、書類から顔を上げて結を見た。結が休みを申し出るのは、珍しいことだった。
「急な話だな。差し支えなければ、理由を聞かせてもらえるか」
「京都に帰ります。父の顔を見てこようと思いまして」
田中は少し間を置いてから、頷いた。
「そうか。校正の件は、戻ってから続きを頼む」
「はい。ありがとうございます」
それだけだった。
結は席に戻って、今日の分の仕事を午前中に片付けた。引き継ぎの必要なものは、簡潔に書き置きをした。余計なことは書かなかった。
昼過ぎに、出版社を出た。
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東京駅は混んでいた。
師走が近い時期で、荷物を抱えた人々が行き交っていた。結は改札を抜けて、ホームへ向かった。汽車の煙の匂いが、遠くから漂ってきた。
京都までは、急行で数時間かかった。
窓側の席を取った。向かいの席に、中年の夫婦が座った。二人は時々小声で話し合いながら、弁当を広げていた。結は窓の外を見た。
東京の街が、ゆっくりと後ろへ流れていった。
街が途切れると、田畑が広がった。枯れた田んぼが、灰色の空の下に続いていた。十一月の風景は、色が少なかった。茶色と灰色と、時々常緑の松の緑。
結は景色を見るともなく見ながら、考えていた。
父に何を話すかは、決めていなかった。
異能のことは話さないつもりだった。話す必要がなかった。父を心配させることもなかったし、話したところで何かが変わるわけでもなかった。
ただ、会いたかった。
それ以上の理由は、うまく言えなかった。七日間、一人で異能と向き合って、記録帳に事実だけを書き続けた。その間、誰とも話さなかった。村田と蕎麦を食べたが、肝心なことは何も話さなかった。
父の顔が、見たかった。
それだけだった。
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京都に着いたのは、夕方だった。
駅を出ると、空気が違った。
東京より冷たかった。乾いていた。石畳の古い通りを歩くと、足音の響き方まで違う気がした。
結は幼い頃から、この街で育った。
でも今は、少し遠い場所のような感覚があった。自分が変わったせいか、それとも久しぶりに来たせいか、判断できなかった。
父の家は、街の外れにある古い町家だった。
木戸を開けると、玄関の灯りがついていた。
「父様」
声をかけると、奥から物音がした。廊下に父が現れた。
綾瀬惟之は、娘の顔を見て少し目を細めた。それが父の、感情の出し方だった。大げさに喜ぶことはしない。でも、嬉しいということは、目の細め方で分かった。
「帰ったか」
「はい。急に済みません」
「上がれ。飯はまだか」
「まだです」
「そうか」
それだけで、父は台所へ向かった。
結は荷物を下ろして、手を洗った。台所から、出汁の匂いがしてきた。
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夕飯は、豆腐と青菜の煮物と、焼いた塩鮭だった。
父は料理が得意ではなかったが、不味くはなかった。結が幼い頃から、父が作る飯はいつもこういう感じだった。手間をかけない。でも、ちゃんと食べられる。
二人で食卓を挟んで、黙って食べた。
「仕事は」
「続いています」
「体は」
「問題ありません」
「そうか」
それだけで、父は飯を食べ続けた。
結も食べた。豆腐が柔らかかった。出汁の味が染みていた。東京の蕎麦屋の味より、こちらの方が好きだと思った。
食べ終えると、父が茶を淹れた。二人で縁側に移った。
庭は暗かった。枯れた木が、黒いシルエットになって立っていた。遠くで、虫の声が一つ、小さく鳴いていた。十一月に虫が鳴くのは珍しかった。
二人は茶を飲んで、黙っていた。
この沈黙が、結は嫌いではなかった。
話さなければならないと感じない沈黙だった。それぞれが自分の時間を持ちながら、同じ場所にいる。それだけでいい、という沈黙だった。
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しばらくして、父が口を開いた。
「何かあったか」
結は茶碗を持ったまま、少し考えた。
「何かあったというわけでは」
「そうか」
父はそれ以上聞かなかった。
結は庭の暗がりを見た。
「少し、考えていることがあって」
「うん」
「まだ、はっきりとした形ではないのですが」
「うん」
父は急かさなかった。結が言葉を探す時間を、黙って待った。
「人が産まれるということについて」
言ってから、続きを探した。
「一人の命が産まれるまでに、どれだけの命が繋がってきたか、ということを考えていました」
父は少し間を置いてから言った。
「家系図でも見たか」
結は少し目を上げた。
「仕事で」
「そうか」
父は庭を見た。それから、ゆっくりと話し始めた。
「お前が産まれた時、わしは家系図を出した。お前の曾祖父が書いたものだ。どこまで遡れるか、確かめたくてな」
「知りませんでした」
「話したことはなかった。わしが一人で出して、一人で眺めた。それだけのことだから」
父は茶を一口飲んだ。
「何代遡れたと思う」
「分かりません」
「七代だ。それより前は、記録が残っていない。七代で、何十人という名前があった」
結は聞いていた。
「その全員が繋がって、お前が産まれた。そう思ったら」
父は少し止まった。
「妙な気持ちになった。嬉しいとも、重いとも違う。ただ、妙な気持ちだった」
結は父の顔を見た。父は庭を見ていた。
「私も、同じ気持ちになりました」
父は少し頷いた。それだけだった。
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その夜は、父の家に泊まった。
客間に布団を敷いて、横になった。
天井が、東京の下宿と違った。古い木の天井だった。節が一つあって、子供の頃からその節をよく見ていた。形が、何かの顔に見えた。何の顔かは分からなかった。でも、いつも見るたびに同じ顔に見えた。
久しぶりに見た。やはり同じ顔だった。
目を閉じた。
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翌日は、父と二人で過ごした。
午前中は、父が本を読み、結も本を読んだ。同じ部屋で、別々のことをしていた。時々、どちらかが茶を淹れた。
昼は、近くの蕎麦屋で食べた。
父は蕎麦屋の主人と顔見知りだった。簡単な挨拶をして、席に座った。結はせいろを頼んだ。父はかけを頼んだ。
「お前の母親も、ここの蕎麦が好きだったよ」
父が言った。
結は箸を持ったまま、父を見た。
父が母の話をするのは、珍しかった。年に一度あるかないかだった。
「そうですか」
「ここへよく来た。二人で。結婚した頃の話だが」
父は蕎麦を食べながら、特に感情的なふうでもなく話した。
「どんな人でしたか」
結が聞いたのは、初めてに近かった。
父は少し考えてから、答えた。
「静かな人だった。でも、笑う時はよく笑った。本が好きで、声に出して読む癖があった。夜中でも構わず読んでいたから、やめさせようとしたが、聞かなかった」
結は蕎麦を一口食べた。
「私に似ていますか」
「静かなところは似ている。声に出さないところは違う。お前は黙って読む」
「そうですね」
「あとは」
父は少し止まった。
「頑固なところが似ている。やると決めたことをやめない」
結は少し目を伏せた。
自分では、頑固だとは思っていなかった。ただ、途中でやめることが好きでないだけだった。でも父から見ればそう見えるのか、と思った。
「母は、頑固だったのですか」
「お前を産む時もそうだった」
父の声が、少しだけ変わった。変わった、というほどでもなかった。でも結には分かった。
「難産だったと聞きました」
「うん」
父は蕎麦を食べた。
「怖くなかったのかと、後で思った。産む前から、危ないかもしれないと分かっていた。医者にも言われていた。でも、やめなかった」
結は父の顔を見た。父は蕎麦の器を見ていた。
「やめさせようとは」
「したよ。でも聞かなかった」
父は短く笑った。笑い、というより、息を一つ吐いたような音だった。
「頑固だから」
結は黙っていた。
蕎麦屋の中は静かだった。厨房から、出汁の匂いがしていた。
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夜、また縁側に座った。
昨夜より風が強かった。庭の木が、枝を揺らしていた。
父が珍しく、先に口を開いた。
「産まれてきたお前を見た時、あの人はとても嬉しそうだった。疲れ果てていたのに、笑っていた」
結は庭を見たまま、聞いていた。
「何て言いましたか」
「結、と言った。名前を付けたのはあの人だ。お前が産まれてすぐ、わしに向かって言った。結、という名前にしたい、と」
「なぜ結という名前に」
「聞いたが、教えてくれなかった。笑って、いい名前でしょう、とだけ言った」
結は自分の名前を、頭の中で一度呼んだ。
結。
繋ぐ、という意味がある。結ぶ、という意味がある。
母が、何を思ってこの名前をつけたのか。もう聞くことができなかった。でも、この瞬間、何となく分かるような気がした。確かめるすべはなかった。でも、そういう気がした。
「その後すぐ、眠った。そのまま」
父の声は静かだった。責めるような色も、嘆くような色もなかった。ただ、事実として話していた。
「疲れていたから」
「うん。疲れていたから」
二人は黙った。
風が、庭の枯れ葉を転がした。
結は茶碗を両手で包んで、温かさを感じた。母のことを、悲劇だと思ったことは何度もあった。自分を産んで死んだ人。顔も声も知らない人。でも今夜初めて、それが悲劇ではなく、選択だったのかもしれないと思った。
やめなかった、と父は言った。
危ないと分かっていて、やめなかった。
頑固だから、と父は笑った。
でも結には、頑固とは少し違う気がした。
やると決めたことだったから、やったのだと思った。
どんな結果になるとしても。
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翌朝、帰る支度をしながら、結は父に言った。
「父様。私、少し遠いところへ行くかもしれません」
父は縁側で茶を飲んでいた。結の言葉を聞いて、茶碗を持ったまま娘を見た。
「遠い、とはどのくらい」
「はっきりとは言えません。でも、大丈夫です」
父はしばらく結の顔を見た。
結は父の視線を、真っすぐ受けた。何かを隠しているわけではなかった。説明できないことがある、というだけだった。
父は茶碗を縁側に置いた。
「そうか」
一言だけ言って、庭を見た。それから、また結を見た。
「お前は昔から、普通の生き方には収まらないと思っていた」
「そうですか」
「お前の母親もそうだった。だからお前もそうなのだろうと、ずっと思っていた」
結は少し目を伏せた。
「気をつけて行け」
父はそれだけ言って、また庭を見た。
止めなかった。理由を聞かなかった。心配するな、とも言わなかった。ただ、気をつけて行け、と言った。
それが、父の愛情の出し方だった。
結には、充分だった。
「はい」
短く答えて、結は荷物を持った。
玄関で草履を履いて、振り返った。父は縁側から、こちらを見ていた。
「また来ます」
「うん」
木戸を開けて、外に出た。
振り返らなかった。振り返る必要がなかった。
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京都駅へ向かう道を歩きながら、結は考えていた。
やると決めたことをやめない。
母の話を聞いた時から、何かが固まりつつあった。七日間考え続けた問いが、答えの輪郭を帯び始めていた。
まだ決めてはいなかった。
でも、決めるために必要なものが、この三日間で揃ったような気がした。
父の顔を見て、母の話を聞いて、自分の名前の意味を考えた。
結、という名前。
繋ぐ、という名前。
汽車に乗って、東京へ向かった。車窓の外を、冬の景色が流れていった。
結は窓に額を近づけて、流れる景色を見た。田畑、山、川、集落、また田畑。
どこへ行っても、人の痕跡があった。
誰かが耕した田。誰かが建てた家。誰かが渡った橋。全部、人が作ったものだった。その人たちも、何百年も続いた命の先にいた。
汽車の揺れが、一定のリズムで続いた。
結は目を閉じた。
頭の中で、家系図の線が広がった。どこまでも広がる、枝分かれした線が。
その線を、自分が引いていく場面を、初めて具体的に想像した。
目を開けた。
窓の外は、もう田畑ではなかった。山が続いていた。晩秋の山が、葉を落として、黒い枝だけを空に広げていた。
結は山を見た。
決めた。
声には出さなかった。誰かに告げるわけでもなかった。ただ、静かに、自分の中で決まった。それだけだった。
汽車は東京へ向かって走り続けた。
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*第四章「島を探して」へ続く*




