表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あみだくじ  作者: 有寄之蟻
第一巻 「奇跡の数え方」
3/10

第二章 目覚め

---


異変に気づいたのは、翌朝のことだった。


目が覚めた瞬間から、何かが違った。


違う、という言葉も正確ではなかった。部屋は昨日と同じだった。天井の染みも、窓の桟の歪みも、布団の重さも、何一つ変わっていなかった。


でも、空気が違った。


結は布団の中で天井を見たまま、しばらく動かなかった。違いを言葉にしようとした。冷たい、ではない。重い、でもない。何か、全てのものの輪郭が、昨日より少しはっきりしているような。自分の手の感触が、布団の綿の一本一本まで分かるような。


気のせいかもしれなかった。


結は起き上がった。


いつも通り顔を洗って、湯を沸かした。白湯を一杯飲むのが、毎朝の習慣だった。湯呑みを両手で包んで、窓の外を見た。曇り空だった。路地の向こうに、隣の家の屋根が見えた。どこかで雀が鳴いていた。


何も変わっていない。


結は白湯を飲み終えて、机に向かった。今日も仕事がある。昨日の家系図の続きと、新しく回ってきた原稿が一つ。


支度をして、コートを羽織った。


机の上の蝋燭に目が止まった。


昨夜、読書をしていて、灯りを消す前に吹き消した蝋燭だった。芯が黒く焦げて、燭台の上で冷えている。別に珍しいものではなかった。毎日見ているものだった。


結はそれを見ながら、ふと思った。


――灯れ。


思っただけだった。声には出していなかった。ただ、頭の中でそう思った。


蝋燭が、灯った。


---


結は動かなかった。


蝋燭の火が、静かに揺れていた。風はなかった。窓は閉まっていた。火をつけるものは、何も使っていなかった。ただ思っただけで、火がついた。


おかしい、とは思わなかった。


怖い、とも思わなかった。


驚いた、というのが一番近かったが、それも声を上げるような驚きではなかった。ただ、静かに、目の前の事実を受け取った。


蝋燭の火を、しばらく見た。


細い火が、ゆらゆらと揺れていた。橙色の光が、机の周りをぼんやりと照らしていた。結はその光の中で、座ったまま考えた。


今、何が起きたか。


自分が思っただけで、火がついた。


偶然ではない。たまたまでもない。自分が、そうしたのだ。


結は一度、火を消した。


頭の中で、消えろ、と思った。


火が消えた。


また灯れ、と思った。


火がついた。


---


三度繰り返した。


三度とも、同じことが起きた。


結は燭台から少し離れて、椅子に座り直した。背筋を伸ばして、膝の上に手を置いて、蝋燭を見た。今は消えていた。


何が変わったのか。


昨日まで、こんなことはできなかった。少なくとも、気づいていなかった。いつから変わったのか。昨夜眠っている間か。それとも、もっと前から少しずつ変わっていたのか。


家系図を見たことと、関係があるかどうかは分からなかった。


でも、あの夜から何かが変わったという感覚は、確かにあった。


結は記録帳を引き寄せた。日付を書いた。それから、短く書いた。


> *何かが、変わった。*


ペンを置いた。


仕事に行く時間だった。


結はコートの釦を留めて、部屋を出た。蝋燭は消えたままにしておいた。


---


出版社での仕事中、結は普段と変わらなかった。


家系図の残りを片付けて、新しい原稿の校正に入った。村田が昼に蕎麦を誘ってきたので、一緒に行った。村田が喋り、結は時々相槌を打った。それだけだった。


ただ、頭の奥で、朝のことをずっと考えていた。


あれは何だったのか。


蝋燭一本を灯すだけなら、気のせいで片付けることもできた。でも三度試した。三度とも同じだった。偶然の重なりとは言えなかった。


他のことも、できるのだろうか。


午後、一人で便所に立った時、廊下の窓から外を見た。中庭に枯れ葉が一枚落ちていた。


――動け。


思った瞬間、枯れ葉が風もないのに滑った。


結は窓から離れて、廊下を歩いた。表情は変わらなかった。誰かに見られていたとしても、気づかれなかっただろう。


でも胸の中で、何かがひっそりと動いていた。


火事の熱のような激しさではなかった。もっと静かな、深いところから来るものだった。灯りの届かない場所で、水が湧いているような。


---


帰り道、川沿いを歩きながら、結は試し続けた。


人目のないところで、小石を浮かせた。


水面の波紋を、動かした。


消えかけた街灯の光を、明るくした。


どれも、思っただけで起きた。


力んだわけではなかった。大きく息を吸ったわけでもなかった。ただ、こうなればいい、と思った瞬間に、そうなった。まるで、思うこと自体が何かに届いているような感覚だった。


どこかへ届いている。


世界の、どこかへ。


結はそれをしばらく考えながら歩いた。怖くなかった。気が大きくなることもなかった。ただ、静かに、この事実と一緒に歩いた。


下宿が近づいてきた。


木戸をくぐると、今日は大家の老婆が縁側にいなかった。結は自室に上がり、コートを脱いで、灯りをつけた。


灯りは、手で紐を引いた。


それが自然だと思ったから。


---


夕飯を食べながら、結は考えた。


できることと、できないことを、確かめなければならない。


感情的になる必要はなかった。騒ぐ必要もなかった。誰かに話す必要も、今はなかった。まず自分で、ちゃんと知る必要があった。


それが結のやり方だった。


知らないまま動くことが、結は好きではなかった。


食べ終えて、茶を淹れて、机に向かった。記録帳を開いて、新しい頁に書き始めた。


> *確認すること。*

> *一、できることの範囲。*

> *二、できないことの範囲。*

> *三、限界があるかどうか。*

> *四、他人に影響を与えることができるか。*

> *五、命に関わることは、慎重に。*


最後の一行を書いてから、少し止まった。


命に関わること。


蝋燭を灯すことと、命に関わることの間には、大きな距離があった。でも、どこかで繋がっているかもしれなかった。慎重にしなければならないと、書く前から思っていた。


だから書いた。自分への戒めとして。


記録帳を閉じた。


---


翌日から、結は静かに試し始めた。


仕事の合間ではなく、朝と夜に時間を作った。


下宿の部屋で、人目のないところで、一つずつ確かめた。


物を動かすことは、できた。大きさに限界はあるかと思って、試してみたが、思った以上に大きなものも動いた。部屋の箪笥を動かすことができた時、結は少しだけ眉を上げた。それだけだった。


物を作ることは、できるかどうか試した。


机の上に、何もないところから、石を一つ作ろうと思った。


できた。


小さな黒い石が、机の上に現れた。結はそれを手に取って、確かめた。重さがあった。硬かった。表面がざらついていた。本物の石と変わらなかった。


結はその石を、しばらく見た。


それから窓を開けて、外に捨てた。


作れるなら、壊せるかどうかも試した。


できた。


作ることと壊すことが、同じくらい容易にできるということを、結は記録帳に書いた。それから、壊すことについては慎重にする、と書き添えた。


---


四日目の夜、結は庭に出た。


下宿の小さな庭に、枯れた鉢植えがあった。大家が放っておいた菊の鉢で、すっかり茶色くなっていた。


結はその前に屈んで、しばらく見た。


土が乾いていた。茎が枯れていた。葉は縮んで、色を失っていた。


生き返らせることは、できるだろうか。


命に関わる、と書いたのを思い出した。これは植物だった。人間ではなかった。でも、命には違いなかった。


慎重に、と自分に言い聞かせて、試した。


生きろ、とは思わなかった。


ただ、この植物に必要なものを与えよう、と思った。水分、栄養、光。植物が生きるために必要なものを、丁寧に想像して、届けようとした。


鉢植えが、少しずつ変わっていった。


茎が、わずかに緑を取り戻した。葉の縁が、ほんの少し持ち上がった。土が湿ってきた。


一分ほどかかった。


完全には戻らなかった。でも、確かに生きる方へ向かっていた。


結は立ち上がって、鉢植えを見た。


できる、ということが分かった。


でも、何かが慎重にしなければならないと言っていた。植物でこれだけ時間がかかるなら、もっと複雑な命ならもっとかかる。そして、間違えた時に取り返しがつかない。


記録帳に書いた。


> *命に関わることは、十分に理解してからでないと動かない。*


---


一週間が経った。


結は、自分の異能について、ある程度のことを把握した。


できることは、広かった。想像できるものは、ほとんど何でも現実にできた。大きさにも距離にも、今のところ明確な限界は見えなかった。


できないことは、まだ分からなかった。


命については、できるが、慎重にしなければならないと判断した。


他人の意思を変えることは、試していなかった。試す気にならなかった。それは、してはいけないことだという感覚が、最初からあった。


---


七日目の夜、結は記録帳を開いて、長い時間考えた。


蝋燭を一本灯した。今度は手でマッチを擦って。


橙色の光の中で、結は記録帳の最初のページを読み返した。


> *何かが、変わった。*


一行だけの最初の記録。


それから七日分の記録を、順番に読んだ。できたこと、できなかったこと、気をつけなければならないこと。淡々と書かれた文字。


読み終えて、結は蝋燭の火を見た。


七日前から頭の奥にあり続けた問いが、また浮かんできた。


自分の子供が産まれて、百年経ったら。


今は、それが考えるだけの問いではなくなっていた。


できる、かもしれない。


結は蝋燭の火を、しばらく見た。揺れて、また静まる火を。


できる、ということと、すべきかどうか、は別の話だった。


でも。


あの家系図の線を思った。途切れずに続いた、何百年分の命の線を。


夭折した三歳の子の名前を思った。その子の線だけが、短く止まっていたことを。


自分の母を思った。自分を産んで死んだ人を。顔も知らない人を。


記録帳に、ゆっくりと書いた。


> *もし百年、試みることができるなら。*

> *どれだけの命が、世界に広がるだろう。*


ペンを止めた。


それから、もう一行書いた。


> *考える価値はある。*


蝋燭を吹き消した。


部屋が暗くなった。


結は暗い中で、しばらく座っていた。動く必要がなかった。何かを決める必要も、今夜はなかった。


ただ、何かが始まろうとしているという感覚が、静かに、確かにそこにあった。


火の消えた蝋燭から、細い煙が一筋、暗い空気の中へ昇っていった。


---


*第三章「京都」へ続く*

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ