第二章 目覚め
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異変に気づいたのは、翌朝のことだった。
目が覚めた瞬間から、何かが違った。
違う、という言葉も正確ではなかった。部屋は昨日と同じだった。天井の染みも、窓の桟の歪みも、布団の重さも、何一つ変わっていなかった。
でも、空気が違った。
結は布団の中で天井を見たまま、しばらく動かなかった。違いを言葉にしようとした。冷たい、ではない。重い、でもない。何か、全てのものの輪郭が、昨日より少しはっきりしているような。自分の手の感触が、布団の綿の一本一本まで分かるような。
気のせいかもしれなかった。
結は起き上がった。
いつも通り顔を洗って、湯を沸かした。白湯を一杯飲むのが、毎朝の習慣だった。湯呑みを両手で包んで、窓の外を見た。曇り空だった。路地の向こうに、隣の家の屋根が見えた。どこかで雀が鳴いていた。
何も変わっていない。
結は白湯を飲み終えて、机に向かった。今日も仕事がある。昨日の家系図の続きと、新しく回ってきた原稿が一つ。
支度をして、コートを羽織った。
机の上の蝋燭に目が止まった。
昨夜、読書をしていて、灯りを消す前に吹き消した蝋燭だった。芯が黒く焦げて、燭台の上で冷えている。別に珍しいものではなかった。毎日見ているものだった。
結はそれを見ながら、ふと思った。
――灯れ。
思っただけだった。声には出していなかった。ただ、頭の中でそう思った。
蝋燭が、灯った。
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結は動かなかった。
蝋燭の火が、静かに揺れていた。風はなかった。窓は閉まっていた。火をつけるものは、何も使っていなかった。ただ思っただけで、火がついた。
おかしい、とは思わなかった。
怖い、とも思わなかった。
驚いた、というのが一番近かったが、それも声を上げるような驚きではなかった。ただ、静かに、目の前の事実を受け取った。
蝋燭の火を、しばらく見た。
細い火が、ゆらゆらと揺れていた。橙色の光が、机の周りをぼんやりと照らしていた。結はその光の中で、座ったまま考えた。
今、何が起きたか。
自分が思っただけで、火がついた。
偶然ではない。たまたまでもない。自分が、そうしたのだ。
結は一度、火を消した。
頭の中で、消えろ、と思った。
火が消えた。
また灯れ、と思った。
火がついた。
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三度繰り返した。
三度とも、同じことが起きた。
結は燭台から少し離れて、椅子に座り直した。背筋を伸ばして、膝の上に手を置いて、蝋燭を見た。今は消えていた。
何が変わったのか。
昨日まで、こんなことはできなかった。少なくとも、気づいていなかった。いつから変わったのか。昨夜眠っている間か。それとも、もっと前から少しずつ変わっていたのか。
家系図を見たことと、関係があるかどうかは分からなかった。
でも、あの夜から何かが変わったという感覚は、確かにあった。
結は記録帳を引き寄せた。日付を書いた。それから、短く書いた。
> *何かが、変わった。*
ペンを置いた。
仕事に行く時間だった。
結はコートの釦を留めて、部屋を出た。蝋燭は消えたままにしておいた。
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出版社での仕事中、結は普段と変わらなかった。
家系図の残りを片付けて、新しい原稿の校正に入った。村田が昼に蕎麦を誘ってきたので、一緒に行った。村田が喋り、結は時々相槌を打った。それだけだった。
ただ、頭の奥で、朝のことをずっと考えていた。
あれは何だったのか。
蝋燭一本を灯すだけなら、気のせいで片付けることもできた。でも三度試した。三度とも同じだった。偶然の重なりとは言えなかった。
他のことも、できるのだろうか。
午後、一人で便所に立った時、廊下の窓から外を見た。中庭に枯れ葉が一枚落ちていた。
――動け。
思った瞬間、枯れ葉が風もないのに滑った。
結は窓から離れて、廊下を歩いた。表情は変わらなかった。誰かに見られていたとしても、気づかれなかっただろう。
でも胸の中で、何かがひっそりと動いていた。
火事の熱のような激しさではなかった。もっと静かな、深いところから来るものだった。灯りの届かない場所で、水が湧いているような。
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帰り道、川沿いを歩きながら、結は試し続けた。
人目のないところで、小石を浮かせた。
水面の波紋を、動かした。
消えかけた街灯の光を、明るくした。
どれも、思っただけで起きた。
力んだわけではなかった。大きく息を吸ったわけでもなかった。ただ、こうなればいい、と思った瞬間に、そうなった。まるで、思うこと自体が何かに届いているような感覚だった。
どこかへ届いている。
世界の、どこかへ。
結はそれをしばらく考えながら歩いた。怖くなかった。気が大きくなることもなかった。ただ、静かに、この事実と一緒に歩いた。
下宿が近づいてきた。
木戸をくぐると、今日は大家の老婆が縁側にいなかった。結は自室に上がり、コートを脱いで、灯りをつけた。
灯りは、手で紐を引いた。
それが自然だと思ったから。
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夕飯を食べながら、結は考えた。
できることと、できないことを、確かめなければならない。
感情的になる必要はなかった。騒ぐ必要もなかった。誰かに話す必要も、今はなかった。まず自分で、ちゃんと知る必要があった。
それが結のやり方だった。
知らないまま動くことが、結は好きではなかった。
食べ終えて、茶を淹れて、机に向かった。記録帳を開いて、新しい頁に書き始めた。
> *確認すること。*
> *一、できることの範囲。*
> *二、できないことの範囲。*
> *三、限界があるかどうか。*
> *四、他人に影響を与えることができるか。*
> *五、命に関わることは、慎重に。*
最後の一行を書いてから、少し止まった。
命に関わること。
蝋燭を灯すことと、命に関わることの間には、大きな距離があった。でも、どこかで繋がっているかもしれなかった。慎重にしなければならないと、書く前から思っていた。
だから書いた。自分への戒めとして。
記録帳を閉じた。
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翌日から、結は静かに試し始めた。
仕事の合間ではなく、朝と夜に時間を作った。
下宿の部屋で、人目のないところで、一つずつ確かめた。
物を動かすことは、できた。大きさに限界はあるかと思って、試してみたが、思った以上に大きなものも動いた。部屋の箪笥を動かすことができた時、結は少しだけ眉を上げた。それだけだった。
物を作ることは、できるかどうか試した。
机の上に、何もないところから、石を一つ作ろうと思った。
できた。
小さな黒い石が、机の上に現れた。結はそれを手に取って、確かめた。重さがあった。硬かった。表面がざらついていた。本物の石と変わらなかった。
結はその石を、しばらく見た。
それから窓を開けて、外に捨てた。
作れるなら、壊せるかどうかも試した。
できた。
作ることと壊すことが、同じくらい容易にできるということを、結は記録帳に書いた。それから、壊すことについては慎重にする、と書き添えた。
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四日目の夜、結は庭に出た。
下宿の小さな庭に、枯れた鉢植えがあった。大家が放っておいた菊の鉢で、すっかり茶色くなっていた。
結はその前に屈んで、しばらく見た。
土が乾いていた。茎が枯れていた。葉は縮んで、色を失っていた。
生き返らせることは、できるだろうか。
命に関わる、と書いたのを思い出した。これは植物だった。人間ではなかった。でも、命には違いなかった。
慎重に、と自分に言い聞かせて、試した。
生きろ、とは思わなかった。
ただ、この植物に必要なものを与えよう、と思った。水分、栄養、光。植物が生きるために必要なものを、丁寧に想像して、届けようとした。
鉢植えが、少しずつ変わっていった。
茎が、わずかに緑を取り戻した。葉の縁が、ほんの少し持ち上がった。土が湿ってきた。
一分ほどかかった。
完全には戻らなかった。でも、確かに生きる方へ向かっていた。
結は立ち上がって、鉢植えを見た。
できる、ということが分かった。
でも、何かが慎重にしなければならないと言っていた。植物でこれだけ時間がかかるなら、もっと複雑な命ならもっとかかる。そして、間違えた時に取り返しがつかない。
記録帳に書いた。
> *命に関わることは、十分に理解してからでないと動かない。*
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一週間が経った。
結は、自分の異能について、ある程度のことを把握した。
できることは、広かった。想像できるものは、ほとんど何でも現実にできた。大きさにも距離にも、今のところ明確な限界は見えなかった。
できないことは、まだ分からなかった。
命については、できるが、慎重にしなければならないと判断した。
他人の意思を変えることは、試していなかった。試す気にならなかった。それは、してはいけないことだという感覚が、最初からあった。
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七日目の夜、結は記録帳を開いて、長い時間考えた。
蝋燭を一本灯した。今度は手でマッチを擦って。
橙色の光の中で、結は記録帳の最初のページを読み返した。
> *何かが、変わった。*
一行だけの最初の記録。
それから七日分の記録を、順番に読んだ。できたこと、できなかったこと、気をつけなければならないこと。淡々と書かれた文字。
読み終えて、結は蝋燭の火を見た。
七日前から頭の奥にあり続けた問いが、また浮かんできた。
自分の子供が産まれて、百年経ったら。
今は、それが考えるだけの問いではなくなっていた。
できる、かもしれない。
結は蝋燭の火を、しばらく見た。揺れて、また静まる火を。
できる、ということと、すべきかどうか、は別の話だった。
でも。
あの家系図の線を思った。途切れずに続いた、何百年分の命の線を。
夭折した三歳の子の名前を思った。その子の線だけが、短く止まっていたことを。
自分の母を思った。自分を産んで死んだ人を。顔も知らない人を。
記録帳に、ゆっくりと書いた。
> *もし百年、試みることができるなら。*
> *どれだけの命が、世界に広がるだろう。*
ペンを止めた。
それから、もう一行書いた。
> *考える価値はある。*
蝋燭を吹き消した。
部屋が暗くなった。
結は暗い中で、しばらく座っていた。動く必要がなかった。何かを決める必要も、今夜はなかった。
ただ、何かが始まろうとしているという感覚が、静かに、確かにそこにあった。
火の消えた蝋燭から、細い煙が一筋、暗い空気の中へ昇っていった。
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*第三章「京都」へ続く*




