第一章 家系図の夜
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翌朝、出版社に着くと、机の上に封筒が置いてあった。
差出人の名前はなく、宛名だけが几帳面な筆跡で書かれていた。綾瀬結様、と。封を開けると、中に一枚の紙と、薄い仕事の指示書が入っていた。
指示書にはこうあった。
*――依頼主より預かった家系図の写本につき、誤字脱字の確認および体裁の校正をお願いしたい。原本は別途保管のため、写本のみでの作業とすること。納期は三日後。*
紙を広げると、それは折りたたまれた大きな一枚だった。
펼치면、縦長に伸びた樹形図が現れた。一番上に、江戸時代と思われる年号と人名。そこから線が下へ伸び、枝分かれし、また枝分かれし、横へ広がり、縦へ伸び、気がつけば紙の端まで名前で埋まっていた。
結は少しの間、それを見た。
それから椅子を引いて、仕事を始めた。
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校正の作業は、丁寧さを要する仕事だった。
名前の誤字。年号のずれ。線の繋がりの誤り。細かいところを一つずつ確認していく。虫眼鏡を使うほどではないが、字の小さいところは顔を近づけて読んだ。
同僚の村田が、通りがかりに声をかけてきた。
「綾瀬さん、また難しそうなの引き受けてるね」
「難しくはないです。手間がかかるだけで」
「それが難しいって言うんじゃないの」
村田は笑って、自分の席に戻った。
結は視線を家系図に戻した。
作業は順調だった。上から順に、名前と年号を確認していく。誤字が二つ、線の引き違いが一つ。それを書き留めながら、ゆっくりと下へ進んだ。
午前中は特に何もなかった。
昼に、近くの蕎麦屋で一人で飯を食べた。かけ蕎麦を頼んで、静かに食べた。隣の席で男たちが何か言い合って笑っていた。内容は聞こえたが、頭には入らなかった。
午後、席に戻って作業を再開した。
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手が止まったのは、三時を過ぎた頃だった。
家系図の中ほどまで進んだところで、一つの線に目が留まった。
明治初期と思われる年号のあたり。ある男の名前から、女の名前へ線が伸びていた。その下に子供が三人。長男、次男、長女。長男からまた線が伸びて、その下に孫が四人。次男の線は途中で止まっていた。欄外に小さく、*夭折*と書き添えてあった。長女の線は別の家名へ繋がり、その先でまた枝が広がっていた。
結は赤鉛筆を持ったまま、動かなかった。
何かに気づいたわけではなかった。ただ、線が止まっていた。次男の、その細い線の先が。
夭折。
幼くして死んだ、ということだ。名前はあった。読みにくい字だったが、男の子の名前だった。生年はあったが、没年の横に年齢が書いてあった。三歳、と。
結はその名前をしばらく見た。
それから視線を上に戻した。この子の父親。その父親。さらにその上。何代も遡れば、江戸の年号になる。何十人もの名前が、線で繋がっていた。
ふと思った。
この線の一本一本が、全部、人だ。
当たり前のことだった。家系図とは、そういうものだ。分かっていたことだった。でも、その瞬間に初めて、本当の意味で分かった気がした。
紙の上の線ではない。
名前の羅列でもない。
これは全部、生きた人間の話だ。
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赤鉛筆を置いた。
家系図の一番上を見た。江戸時代の人名。読み方も分からない古い字で書かれた名前。この人が子を産んで、その子がまた子を産んで、何代も何代も繋がって、紙の一番下の名前まで来た。
一本でも途切れていたら。
結は、その考えを頭の中で追った。
一番上の夫婦のどちらかが、もし別の人と結ばれていたら。あるいは、子が産まれなかったら。あるいは、産まれた子が早くに死んでいたら。
その一つが違うだけで、下に続く名前の全てが、存在しなかった。
一つではない。何十という分岐点が、それぞれにそうだった。どれか一つが違えば、その先は全部変わる。家系図の下半分は、全員いなかったことになる。
結は紙を眺めながら、静かに計算した。
自分の前に両親がいる。その前に祖父母が四人。その前に曾祖父母が八人。十六人、三十二人、六十四人。十代遡れば千人を超える。二十代なら百万を超える計算になる。
何百年も前から、一本も途切れずに繋がってきた命が、今の自分を作っている。
それは知識として知っていた。
でも今、家系図を前にして、初めてその重さが、手のひらに乗るような感覚で分かった。
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窓の外を、鳥が一羽横切った。
結は我に返って、赤鉛筆を拾った。
仕事を再開した。名前を確認して、年号を確認して、線を確認した。淡々と進めた。表情は変わらなかった。隣の席の村田が時々話しかけてきたが、結はいつも通り短く答えた。
でも、頭の奥で、さっきの感覚がまだ残っていた。
消えなかった。
仕事を終えて、家系図を封筒に戻す時、結は最後にもう一度だけ全体を見た。
線が、網のように広がっていた。
人と人が繋がって、また繋がって、広がり続けている。それが今もどこかで続いている。この家系図の一番下の名前の先に、今も続いている。
封筒を閉じた。
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帰り道、神田川の傍を歩いた。
昨日と同じ道だった。同じ川の音がして、同じ街灯が水面を照らしていた。でも結の歩き方は、昨日より少しだけ遅かった。
考えていた。
自分の子供が産まれて、その子がまた子を産んで、百年経ったら。
それは、突然浮かんだ問いだった。
どこから来た問いかは分からなかった。家系図を見ていたから、という説明では足りない気がした。もっと別の場所から来た問いのような気がした。でも、どこかとは言えなかった。
百年で、どれくらいの命が生まれるだろう。
どこへ広がるだろう。
どんな顔をしているだろう。
川が暗い中で動いていた。結はしばらく、欄干に手を置いて、水面を見た。水は黙って流れていた。どこから来て、どこへ行くかを主張しない。ただ流れている。
結は手を離して、歩き始めた。
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下宿に着いてから、夕飯を食べた。
今日は大根の煮物と、昨日の残りの芋だった。黙って食べた。味は分かったが、あまり集中していなかった。
食べ終えて、茶を淹れた。
机の前に座って、記録帳を開いた。
日付を書いた。それから、今日の仕事の記録を書いた。家系図の校正、誤字二箇所、線の誤り一箇所。簡潔に書いた。
ペンを持ったまま、少し止まった。
今日感じたことを、書こうとした。
でも、言葉にならなかった。
感動とは少し違った。発見とも違う。もっと静かな、もっと深いところから来る感覚だった。それを文字にしようとすると、するりと逃げた。
結は少し考えてから、ペンを動かした。
> *線の一本一本が、全部、命だった。*
それだけ書いた。
それ以上は書かなかった。書けなかったのではなく、それ以上は必要ないと思った。
記録帳を閉じた。
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布団に入って、灯りを消した。
暗い天井を見た。
百年、という言葉がまだ頭の中にあった。百年で、どれだけの命が生まれるか。どこへ広がるか。どんな顔をしているか。
自分の子供が、というところで、結の思考は少し止まった。
自分の子供。
その言葉が、奇妙な感触を持っていた。遠い話のような気もしたし、突然近い話のような気もした。
母のことを、少し考えた。
出産で死んだと聞いた。結が四歳の頃のことだ。記憶はほとんどない。柔らかい布の感触と、低い声で何かを歌っていたこと。それだけ。顔も思い出せない。
自分を産んで、死んだ人。
その人も、家系図に線を引けば、何百年も続く命の先にいた人だったはずだ。
目を閉じた。
答えのない問いを、抱えたまま眠るのは、結には珍しくないことだった。急がなくていいと思っていた。いつかどこかで、答えが来るか来ないか、どちらでもよかった。
でも。
その夜に限って、目を閉じても、家系図の線が見えた。
広がる線。伸びる線。途切れた線。続く線。
しばらくそれを見てから、結は眠った。
夢は見なかった。
翌朝、目が覚めた時に最初に思ったことを、結は後の記録帳には書いていない。
ただ、その翌日から結の様子が少し変わったことに、村田は気がついていた。何かが違う、とは思った。でも何がとは言えなかった。いつも通り静かで、いつも通り仕事をしていた。
ただ、窓の外を見る時間が、少しだけ増えた。
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*第二章「目覚め」へ続く*




