奇跡の数え方 序章
第一巻「奇跡の数え方」
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東京は、夜になっても騒がしかった。
神田の通りを歩きながら、綾瀬結はコートの前を合わせた。十一月の風は冷たく、街灯の光が濡れた石畳に細長く伸びていた。路面電車が向こうの交差点を曲がっていく。鉄輪が線路を擦る音が、夜気の中を転がるように遠ざかった。
出版社を出たのは、八時を少し過ぎた頃だった。
今日の仕事は校正が三件。いずれも急ぎではなかったが、結は定時より遅くまで残った。急いでいなくても、終わらせておきたかっただけだ。残業代のためでも、上司に見せるためでもない。ただ、中途半端なまま帰るのが好みではなかった。
通りを歩く人々は、皆どこかへ急いでいた。洋装の男が傘を持ったまま駆けていく。和服の女が二人、笑いながら角を曲がる。自動車が一台、クラクションを鳴らしながら荷車を追い越していった。
結はそのどれにも目を留めなかった。
人が多いところが苦手なわけではない。ただ、自分がその中に混じろうという気が、あまり起きなかった。川の中に石があるように、流れに逆らうわけでも乗るわけでもなく、ただそこにある。結の歩き方は、いつもそういう歩き方だった。
下宿まで、徒歩で十五分ほどの道のり。
結はこの道が好きだった。神田川沿いに少し歩いて、路地を一本入ると、急に静かになる。大通りの喧騒が壁の向こうへ消えて、自分の足音だけが聞こえるようになる。その瞬間が、一日の中で一番息のしやすい時間だった。
川沿いに出ると、水の匂いがした。
暗い川面が、街灯の光を揺らしながら映していた。結は少しだけ歩調を緩めた。急ぐ理由は何もなかった。下宿に帰っても、待っている人は誰もいない。夕飯の支度をして、本を読んで、眠る。それだけの夜だった。
それだけで、充分だった。
路地に入ると、音が変わった。遠くで誰かが笑う声。どこかの家から、三味線の音が漏れていた。下宿の建ち並ぶ静かな通り。結は自分の足音を聞きながら歩いた。
下宿の木戸をくぐると、大家の老婆が縁側に出ていた。
「おかえり、綾瀬さん。遅かったね」
「ただいま戻りました」
「夕飯、残してあるよ。お芋の煮たの」
「ありがとうございます」
言葉は少なかったが、それで充分だった。大家の老婆も、結がそういう人間だと分かっていた。だから余計なことを聞かない。それが、この下宿を選んだ理由の一つでもあった。
自室に入って、コートを脱いだ。
六畳一間。窓が一つ。机と本棚と、小さな箪笥。床の間に花は飾っていないが、掃除は行き届いている。物は少ない。必要なものだけを、必要な場所に置く。それが結の部屋の作り方だった。
机の上に、今日借りてきた本を一冊置いた。
大家から預かった夕飯を食べた。芋の煮物と、冷えた飯。黙って食べた。味は悪くなかった。食べ終えると茶を一杯淹れて、机に向かった。
本を開く前に、窓の外を少し見た。
隣の屋根の向こうに、空が見えた。曇っていて、星はなかった。東京の夜は明るいから、晴れていても星はよく見えない。京都にいた頃は、もう少し見えたような気がした。もっとも、空を熱心に見上げる習慣が結にはなかったから、記憶は曖昧だった。
本を開いた。
トルストイの翻訳本だった。今年の春に出た新訳で、出版社の棚に回ってきたものを借り受けた。活字を目で追いながら、お茶を少しずつ飲んだ。部屋は静かだった。遠くの三味線は、いつの間にか止んでいた。
時計が九時を打った。
結は本を読み続けた。
特別な夜ではなかった。昨日と同じで、明日と同じになるはずの夜だった。
このあと何が起きるか、この時の結は知らなかった。
家系図の仕事が回ってくるのは、翌日のことだ。
ただその夜は、川の音と活字と、冷めかけたお茶と一緒に、静かに更けていった。
結は最後のページを閉じると、灯りを消した。
布団の中で少し考えてから、目を閉じた。
何を考えていたかは、記録帳には書かれていない。
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*第一章「家系図の夜」へ続く*




