表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あみだくじ  作者: 有寄之蟻
第一巻 「奇跡の数え方」
1/10

奇跡の数え方 序章

第一巻「奇跡の数え方」

---


東京は、夜になっても騒がしかった。


神田の通りを歩きながら、綾瀬結はコートの前を合わせた。十一月の風は冷たく、街灯の光が濡れた石畳に細長く伸びていた。路面電車が向こうの交差点を曲がっていく。鉄輪が線路を擦る音が、夜気の中を転がるように遠ざかった。


出版社を出たのは、八時を少し過ぎた頃だった。


今日の仕事は校正が三件。いずれも急ぎではなかったが、結は定時より遅くまで残った。急いでいなくても、終わらせておきたかっただけだ。残業代のためでも、上司に見せるためでもない。ただ、中途半端なまま帰るのが好みではなかった。


通りを歩く人々は、皆どこかへ急いでいた。洋装の男が傘を持ったまま駆けていく。和服の女が二人、笑いながら角を曲がる。自動車が一台、クラクションを鳴らしながら荷車を追い越していった。


結はそのどれにも目を留めなかった。


人が多いところが苦手なわけではない。ただ、自分がその中に混じろうという気が、あまり起きなかった。川の中に石があるように、流れに逆らうわけでも乗るわけでもなく、ただそこにある。結の歩き方は、いつもそういう歩き方だった。


下宿まで、徒歩で十五分ほどの道のり。


結はこの道が好きだった。神田川沿いに少し歩いて、路地を一本入ると、急に静かになる。大通りの喧騒が壁の向こうへ消えて、自分の足音だけが聞こえるようになる。その瞬間が、一日の中で一番息のしやすい時間だった。


川沿いに出ると、水の匂いがした。


暗い川面が、街灯の光を揺らしながら映していた。結は少しだけ歩調を緩めた。急ぐ理由は何もなかった。下宿に帰っても、待っている人は誰もいない。夕飯の支度をして、本を読んで、眠る。それだけの夜だった。


それだけで、充分だった。


路地に入ると、音が変わった。遠くで誰かが笑う声。どこかの家から、三味線の音が漏れていた。下宿の建ち並ぶ静かな通り。結は自分の足音を聞きながら歩いた。


下宿の木戸をくぐると、大家の老婆が縁側に出ていた。


「おかえり、綾瀬さん。遅かったね」


「ただいま戻りました」


「夕飯、残してあるよ。お芋の煮たの」


「ありがとうございます」


言葉は少なかったが、それで充分だった。大家の老婆も、結がそういう人間だと分かっていた。だから余計なことを聞かない。それが、この下宿を選んだ理由の一つでもあった。


自室に入って、コートを脱いだ。


六畳一間。窓が一つ。机と本棚と、小さな箪笥。床の間に花は飾っていないが、掃除は行き届いている。物は少ない。必要なものだけを、必要な場所に置く。それが結の部屋の作り方だった。


机の上に、今日借りてきた本を一冊置いた。


大家から預かった夕飯を食べた。芋の煮物と、冷えた飯。黙って食べた。味は悪くなかった。食べ終えると茶を一杯淹れて、机に向かった。


本を開く前に、窓の外を少し見た。


隣の屋根の向こうに、空が見えた。曇っていて、星はなかった。東京の夜は明るいから、晴れていても星はよく見えない。京都にいた頃は、もう少し見えたような気がした。もっとも、空を熱心に見上げる習慣が結にはなかったから、記憶は曖昧だった。


本を開いた。


トルストイの翻訳本だった。今年の春に出た新訳で、出版社の棚に回ってきたものを借り受けた。活字を目で追いながら、お茶を少しずつ飲んだ。部屋は静かだった。遠くの三味線は、いつの間にか止んでいた。


時計が九時を打った。


結は本を読み続けた。


特別な夜ではなかった。昨日と同じで、明日と同じになるはずの夜だった。


このあと何が起きるか、この時の結は知らなかった。

家系図の仕事が回ってくるのは、翌日のことだ。


ただその夜は、川の音と活字と、冷めかけたお茶と一緒に、静かに更けていった。


結は最後のページを閉じると、灯りを消した。


布団の中で少し考えてから、目を閉じた。


何を考えていたかは、記録帳には書かれていない。


---


*第一章「家系図の夜」へ続く*

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ