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日が落ちかけ闇に包まれた堂から外に出て、信は二人を相手に杖を振るい続けた。燭台は重く、競り合いは不利と見て、受け流しつつ迷わず急所を狙いに行く。一人は振り上げた隙に懐から喉に突きを入れ、仰け反った顎を強打し昏倒させた。もう一人も突きをかわすと後頭部に杖を振り下ろし、鳩尾に柄を突き入れて転がした。全身汗だくで息は荒く、手足に震えまで走る。衰えぶりに一人自嘲した。
「ないご、て」
掠れた声が耳に障る。這いつくばった横家が、顔を必死にあげていた。
「塗職人なんか、やっちょっど。全部、嘘じゃらせんか。おはんの名前、生き様、語り方、全て偽りじゃ。なぜ許されちょる。おはんらは、賊軍じゃ」
卑下た笑いが土に零れる。
「暴露、してやっ。おはんの正体知ったや、あん問屋の連中は、何を思」
「知っているさ」
いまだ杖を刀として握りながら、信は言い放った。
「僕が野口の子でないことも、新選組隊士であることも。皆知っていてなお、黙って仕事を任せてくれるんだ」
足を引きずりながら如来堂から逃げた時、招き入れ手当をしてくれたのが、塗師である野口夫妻だった。旧幕府軍が次々に処罰を受ける中、「息子が戦から帰ってきた」と匿ってくれた。塗師の仕事を仕込み、本当の息子の代わりに、自分を後継にしてくれた。その恩を、託されたものの重みを、信は決して忘れない。
「それに、君たち薩摩の人間がここで女子に狼藉を働いたと知って、僕ら会津の人間がどうして黙っていられる?」
あの日も、攻めてきたのは薩摩兵だった。仲間の悲鳴を、命の消えた体の重みを、三郎は決して忘れない。
「もう一度言おう」
宵闇に眼を昏く光らせて、彼は刀を上段に振りかぶった。
「ここは、会津だ」
「そこまで!」
「信さん!」
低く鋭い声に、甲高い声が重なって響いた。ピタリと止まったその隙に、横家が這って逃げ出す。追おうとして古傷の痛みに膝をついた。その傍らを影が追い越すと、横家に追いつき蹴り倒す。縄で縛る手際を呆然とみていると、軽い足音と共にハルがふわりと横にしゃがんだ。
「信さん、大丈夫? あぁ、こんな汗だくになって!」
当てられた手の温かさに、不思議と痛みが引いていく。
「……ハルちゃんこそ、怪我はねぇか?」
「大丈夫よ、信さんと父様のおかげ」
「……んだら、良がった」
地面に転がっていた杖を引き寄せて立ち上がる。よろめきかけたところをハルに支えられ、礼を言って辺りを見回した。
「お父つぁんは?」
「警察を呼びに行ったわ。その人に言われて」
示された先、男二人を縛り上げ戻ってきた影のような男に、深々と頭を下げる。
「……ご無沙汰を、しております」
告げる声が震えていた。
「息災で何より」
「……貴方のおかげです」
声を聞いた瞬間、一気にあの日々に立ち返った。ずっと、この人の下で、この声を聞きながら、駆け抜けてきた。
「まことを名乗るとはな」
心なし柔らかくなった声音に思わず顔を上げると、信は困ったように笑った。
「怒られますかね?」
「いいや」
川からの風に着物の裾をなびかせて、かつて三番隊隊長と呼ばれたその男は、宵星輝く空を見上げた。
「武士の魂を貫くんなら、誰が掲げようが勝手だと、あの人なら笑って言うだろうよ」
二日後、庄助とハルは会津を後にした。郡山まで戻り汽車に乗ると、磐梯山は一気に遠くなった。
「次はいつ来られるかしら」
窓辺に頬をつき、ハルは右手の中でお椀を転がす。信が塗った朱の上に松竹梅と破魔矢の会津絵が飾られた、餞別。
「あんまり何度も足を運んでは、野口さんに呆れられるぞ」
笑いの混ざった庄助の指摘に頬を膨らませる。
『君が会津塗の中に見だものを、どうか、日本中、そっから世界中に、広めで欲しい。君はこっがら、きっとどこまでも高ぐ飛べる。そんだけの才能があり、輝きがある。世界さ知って日本さ知って、こっがらの時代を、気高く羽ばだいで生きて欲しい』
信が、縁起物のお椀と一緒にハルに託した想い。
彼は刹那何かを偲び、その名残を目元に残しながら、柔らかく笑って言ったのだ。
『それこそが、僕たちが抱いてきた想いを、願いを、守り繋いでいくことになるのだから』
指先で撫でた杖の柄に小さく彫られた文字を、ハルは知らない。
「次に会うときは、父様の付き添いじゃなくて私自身が商談に行くとき、ということね」
「そうだなぁ。ま、あいつがくたばる前に行ってやれ」
「ひっどい!」
遥か彼方の磐梯山、紅葉彩る猪苗代。その膝元に住む杖をついた塗師の男にそっと想いを馳せて、ハルは手にしたお椀の口縁に唇を寄せた。
参考文献:
・『伝統工芸の基本2 ぬりもの』伝統工芸の基本編集室/編 理論社
・『会津歴史読本』 新人物往来社
・『八重の桜』山本むつみ NHK出版
・『西郷どん!』林真理子 角川書店
・『福島県の歴史』丸井佳寿子他著 山川出版社
・『新選組全隊士徹底ガイド』前田政記 河出書房
他、会津塗白木屋漆器店、KOGEIJAPAN、会津漆器共同組合のHPなど。