第七話 十七番目の記録
第七話 十七番目の記録
数字の「17」は、翌朝になっても遥歩の頭から離れなかった。
父のファイルに挟まれていた、たった一枚の紙。
公表記録と原資料の記述が一致しない。
その下に、鉛筆で書かれた数字。
十七。
ページ番号か、資料番号か。それとも、父が独自につけた整理番号なのか。
手がかりが少なすぎた。
遥歩は朝食の席で、母に尋ねた。
「お父さんって、資料を整理するとき、番号をつけていた?」
母はトーストを皿に置いた。
「そうね。仕事の資料には、よく番号を書いていたわ」
「十七とか?」
「数字までは覚えていないわね」
母はコーヒーをひと口飲んだ。
「どうして?」
「ファイルに、数字だけ書かれた紙があったんだ」
「何かの資料番号かもしれないわね」
母の答えは、ごく普通のものだった。
遥歩は、それ以上尋ねなかった。
番号を見ただけで、母が何かを知っていると考えるのは早計だ。そう自分に言い聞かせる。
父が残したものを調べるなら、まずは父自身の整理方法を理解する必要がある。
「今日、大学の図書館に行ってくるよ」
「お昼は?」
「向こうで食べる」
「そう。じゃあ、パンを持っていく?」
母は立ち上がり、キッチンへ向かった。
「昨日のパンがまだあるから、サンドイッチにしてあげる」
「ありがとう」
遥歩は、その後ろ姿を見ながら、父もこんなふうに送り出されていたのだろうかと思った。
歴史の記録には、王の名前が残る。
戦争の勝者の名前が残る。
けれど、毎朝パンを焼いた人の名前は、たいてい残らない。
それでも、その人がいなければ、誰かの一日は始まらなかったのだ。
*
大学の図書館で、遥歩は父のファイルに挟まれていた資料の一覧を作った。
新聞記事の日付。
論文の発表年。
引用されている史料。
それぞれの出典。
ひとつずつ確認していく。
父が研究していた対象は、古代中国の歴史と、出土した文字資料に関係しているようだった。しかし、特定の遺跡や王朝だけに絞っていたわけではない。
複数の時代にまたがって、記録の成立過程そのものを調べていたらしい。
遥歩は、大学のデータベースから閲覧できる論文を開いた。
歴史書に引用された古い記録と、現存する原資料。
両者が一致しない場合、研究者はどう判断するのか。
単純に、どちらかが間違っているとは限らない。
写本の過程で誤記が生じることもある。後世の編者が、異なる資料を整理して一つの文章にまとめることもある。記録を作った側が、意図的に表現を変えた可能性だってある。
ただし、最後の可能性を採用するには、それを支える証拠が必要だった。
疑問を持つことと、結論を出すことは違う。
遥歩は父のメモを思い出した。
父は「改竄」とは書いていなかった。
ただ、不一致がある、と記していた。
その慎重さが、かえって気になった。
父は何を見て、何を疑い、なぜその先を記録に残さなかったのだろう。
遥歩は、資料の題名と出典を検索窓に入力し直した。
すると、ひとつの論文の参考文献欄に、見覚えのある番号があった。
資料番号ではない。
ページ番号でもない。
文献の整理番号だった。
十七番。
遥歩は画面を拡大した。
その文献は、一般向けの歴史書ではなく、海外の研究機関が公開した古い調査報告書だった。
題名には、文字資料の比較調査とある。
発行年は、父が残したメモの日付よりも、かなり前だった。
遥歩は、公開されている目録を確認した。
報告書の存在は確かめられた。
だが、本文はオンラインでは閲覧できない。
所蔵先は、海外の研究機関だった。
ここで初めて、父のメモにあった数字が、ひとつの資料につながった。
ただし、それが父の調べていた原資料そのものなのかは、まだわからない。
遥歩はノートに書いた。
――十七番の文献。要確認。
そして、もうひとつ。
――父がこの資料を知った経緯。
*
午後、遥歩は図書館のカフェテリアで昼食を取った。
母が持たせてくれたサンドイッチを包みから出す。
薄切りのパンに、ハム、チーズ、レタス。少しだけマスタードが塗ってあった。
ひと口食べる。
パンは、朝のうちに焼き直してくれたのだろう。表面が軽く香ばしく、中はまだ柔らかかった。
遥歩はスマートフォンを脇に置き、しばらく食べることに集中した。
研究者だからといって、食事まで資料のように扱う必要はない。
父のことを考えるのは、食べ終わってからでも遅くない。
そう思ったとき、スマートフォンが震えた。
母からだった。
『お昼、ちゃんと食べている?』
遥歩は笑ってしまった。
『今、食べてるよ。サンドイッチ、おいしい』
すぐに返信が来た。
『よかった。帰りに牛乳を買ってきてくれる?』
『了解』
それだけのやり取りだった。
何も怪しいところはない。
息子の昼食を気にかける母親と、買い物を頼まれる息子。
どこにでもある、普通の会話だった。
遥歩は残りのサンドイッチを食べた。
そして、食べ終わってから、もう一度スマートフォンを見た。
数日前、この端末には奇妙な通知が届いた。
――お母様から、何も聞いていないのですね。
送り主はわからず、履歴も残らなかった。
あの通知を送ったのは誰なのか。
何を知っていたのか。
なぜ、母について尋ねるような文面だったのか。
父の資料を調べ始めたことで、あの通知の意味がわかるわけではない。
それでも、別々に見えていた二つの疑問が、遥歩の中で少しずつ近づいていた。
父の記録。
母の沈黙。
そして、正体のわからないメッセージ。
遥歩はスマートフォンを伏せた。
まだ、結びつけるには証拠が足りない。
だからこそ、調べなければならなかった。
*
帰宅すると、母はキッチンで夕食の支度をしていた。
今日は魚を焼いているらしい。醤油と生姜の香りが、廊下まで漂ってきた。
「おかえりなさい。牛乳、買ってきてくれた?」
「うん。冷蔵庫に入れておいたよ」
「ありがとう」
母は魚を皿に盛りつけた。
食卓には、ご飯と味噌汁、焼き魚、それに青菜のおひたしが並んだ。
遥歩は箸を取った。
「今日、ひとつ見つかったよ」
「何が?」
「父さんが調べていた資料の手がかり。十七番っていう数字が、海外の研究機関の報告書につながったんだ」
母は味噌汁の椀を置いた。
「海外?」
「うん。本文はまだ見られないけど、所蔵先はわかった」
「そう」
母はそれ以上、何も尋ねなかった。
遥歩は魚の身をほぐした。
「お父さん、海外の研究者とも仕事をしていたの?」
「ええ。何人かとは連絡を取っていたと思うわ」
「名前、覚えてる?」
「昔のことだから、すぐには出てこないわね。書類を見れば、わかるかもしれない」
母は箸を動かしながら続けた。
「必要なら、探してみましょう」
その申し出は自然だった。
少なくとも、今のところは。
遥歩は、母が自分から協力すると言ったことを、素直に受け取ることにした。
「ありがとう。まずは、報告書の内容を確認してみる」
「そうね。順番に調べるのがいいわ」
母はそう言って、魚をひと口食べた。
「冷める前に食べてしまいましょう」
遥歩はうなずいた。
今夜の夕食は、いつもどおりだった。
温かい味噌汁があり、焼き魚があり、母と息子の会話があった。
その平穏を、遥歩は疑いたくなかった。
だが、父が残した紙のことを忘れることもできなかった。
*
寝る前に、遥歩はノートを開いた。
今日わかったことを書き出す。
一、父は、公表記録と原資料の不一致を調べていた。
二、父のメモにあった「17」は、海外の研究機関が公開した調査報告書の整理番号につながる可能性がある。
三、報告書の本文は、まだ確認できていない。
四、父が、その報告書を調べていた理由は不明。
最後に、もうひとつ書き加えた。
五、父の死と、この調査の関係は不明。
そこで、ペンを止めた。
関係があると決まったわけではない。
父が亡くなったことと、父が何かを調べていたこと。
その二つを、最初からひとつの事件として扱うべきではない。
遥歩は、父から研究の仕方を教わったわけではない。
それでも、父の残したメモから、ひとつだけ学べることがあった。
結論を急がない。
わからないことを、わかったふりをしない。
そして、記録が見つからないからといって、そこに何もなかったと決めつけない。
遥歩はノートを閉じた。
海外の研究機関に問い合わせれば、報告書を閲覧できるかもしれない。
父が誰と連絡を取っていたのかも、調べられるかもしれない。
その先に何があるのかは、まだわからない。
ただ、明日からやるべきことは決まった。
父が見つけた不一致を、自分の目で確かめる。
誰かの説明を、そのまま正しいと信じるのではなく。
誰かの説明を、最初から嘘だと決めつけるのでもなく。
遥歩は机の明かりを消した。
暗くなった部屋の中で、スマートフォンの画面が一瞬だけ光った。
通知はなかった。
画面には、時刻だけが表示されていた。




