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『正史審問/The False History of Turtle Shells(亀甲の擬史)』  作者: 東曌


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第八話 返信のない問い合わせ

第八話 返信のない問い合わせ


 翌朝、遥歩は朝食を食べ終えると、ノートパソコンを開いた。


 母が焼いてくれたトーストには、薄くバターが塗られていた。半熟の目玉焼きにナイフを入れると、黄色い黄身が白身の上をゆっくりと流れた。


「今日は早いのね」


 キッチンから母が声をかけた。


「昨日見つけた報告書、問い合わせてみようと思って」


「海外の研究機関?」


「うん。公開されている目録には載っているんだけど、本文が見られないんだ」


 遥歩は黄身をパンにつけて食べた。


「閲覧できるかどうか、聞いてみる。研究目的なら、複写を申請できるかもしれないし」


「そう。返事が来るといいわね」


 母はコーヒーを飲みながら、穏やかにうなずいた。


 遥歩は、母が父の研究について知っていることを、少しずつ聞いていけばいいと思った。


 焦る必要はない。


 父が何を調べていたのか。それを確かめることが、今の自分にできる最初の一歩だった。


     *


 海外の研究機関のウェブサイトは、英語で書かれていた。


 所蔵資料の目録を開き、該当する報告書を探す。七話目で見つけた整理番号を入力すると、書誌情報が表示された。


 報告書の題名。

 発行年。

 調査に参加した研究者。

 所蔵番号。


 そして、備考欄に短い記述があった。


 ――関連資料の一部は、別途保管。


 遥歩は、その一文を何度も読み返した。


 関連資料。


 何を指しているのだろう。


 調査時に撮影した写真かもしれない。原文の写しや翻訳文かもしれない。あるいは、報告書には収録されなかった比較資料かもしれない。


 それだけでは、何も判断できなかった。


 遥歩は問い合わせ用のフォームを開いた。


 自分の所属と研究分野を記入し、報告書の閲覧方法を尋ねる。さらに、備考欄に記された関連資料についても、公開されている範囲で情報を提供してほしいと書いた。


 最後に、父の名前を記した。


 父がこの資料を調べていた可能性があること。手元に残されたメモに、当該報告書と関係すると思われる番号が記されていたこと。


 ただし、父が実際に報告書を閲覧したという証拠はない。


 そのため、問い合わせの文面も慎重にした。


 遥歩は送信ボタンを押した。


 画面には、受付完了の表示が出た。


 それだけだった。


 すぐに答えが返ってくるわけではない。


 海外の機関なら、担当者が確認するまで数日かかることもあるだろう。


 遥歩は受付番号をノートに書き写した。


 その下に、もうひとつの疑問を書き加えた。


 ――父は、関連資料の存在を知っていたのか。


     *


 昼過ぎ、遥歩は大学の図書館で、報告書に関係する研究者の名前を調べた。


 すでに退職した研究者もいれば、別の大学へ移った人もいる。名前の綴りが同じでも、同一人物とは限らない。


 専門分野、所属機関、発表論文。


 ひとつずつ照合していく。


 その中に、日本語で書かれた論文があった。


 著者は、海外の調査に参加した研究者の一人だった。


 論文の主題は、古代の文字資料を比較する方法についてだった。


 遥歩は、引用文献を確認した。


 例の報告書が引用されている。


 さらに、論文の本文には、こんな趣旨の記述があった。


 現存する資料の内容と、後世に編纂された歴史書の記述が異なる場合、両者を単純に正誤で分類するだけでは、資料が成立した過程を見落とすおそれがある。


 遥歩は椅子の背にもたれた。


 父のメモと、考え方がよく似ていた。


 もちろん、同じ分野を研究していれば、似た問題意識を持つことは珍しくない。


 これだけで、父がこの研究者と知り合いだったとは言えない。


 それでも、手がかりは増えていた。


 遥歩は論文の著者名をノートに書いた。


 その横に、まだ確かめられていないことを記した。


 ――父との接点。


     *


 帰宅すると、母がキッチンで夕食を作っていた。


 鍋から、出汁のいい匂いがする。


「今日は何?」


「肉じゃがよ。じゃがいもが安かったから」


「いいね」


「それと、お味噌汁。お昼、ちゃんと食べた?」


「食べたよ」


「何を?」


 遥歩は少し考えた。


「図書館のカフェテリアで、カレー」


「またカレー?」


「またって?」


「昨日もカレーだったんじゃない?」


「昨日はサンドイッチだよ」


 母は、あら、と笑った。


「そうだったわね。お母さん、あなたの食事を全部把握しているわけじゃないものね」


 その言い方がおかしくて、遥歩も笑った。


 食卓に肉じゃがが並んだ。


 じゃがいもには煮汁がよく染みていて、玉ねぎは透き通り、牛肉は柔らかかった。


 遥歩はひと口食べた。


「おいしい」


「よかった。少し甘めにしたの」


「父さんも、こういう味が好きだった?」


「ええ。お父さんは、甘めの肉じゃがが好きだったわ」


 母はそう言って、自分の皿に箸を伸ばした。


「あなたのお父さん、食事のときはよく話をする人だったのよ。仕事の話も、研究の話もね」


「研究の話、どんなことを?」


「難しいことばかりだったわ。私にはわからない話も多かったから」


 母は笑った。


「でも、ひとつだけ覚えていることがあるわ」


「何?」


「お父さんは、古い記録を読むとき、書かれていることだけじゃなくて、どうしてその文章が書かれたのかを考えていたの」


 遥歩は箸を止めた。


「どうして?」


「誰が書いたのか。誰に読ませるつもりだったのか。何を伝えたかったのか。そういうことを、いつも気にしていたわ」


 父のメモにあった言葉が、頭をよぎった。


 記録がないことは、存在しなかったことの証明にはならない。


 父は、残された文章の外側に何があるのかを考えていたのかもしれない。


「お母さんは、その研究のこと、もっと聞いておけばよかったと思う?」


 遥歩が尋ねると、母は少しだけ黙った。


「そうね」


 それから、肉じゃがをひと口食べた。


「今になって、聞いておけばよかったと思うことはあるわ」


 その声は、静かだった。


 遥歩は、それ以上尋ねなかった。


 食卓には、まだ温かい味噌汁があった。


 今は、その温かさを大切にしたかった。


     *


 夜、遥歩は自分の部屋で、父の資料をもう一度並べた。


 六話目に見つけたメモ。

 七話目でたどり着いた報告書。

 八話目で見つけた、関連論文の著者。


 それぞれを線で結んでみる。


 しかし、まだ確かなつながりはなかった。


 父が報告書を読んだのか。

 著者と知り合いだったのか。

 関連資料を見たことがあるのか。


 どれも、可能性にすぎない。


 遥歩は、ノートの最後に書いた。


 ――資料の存在と、父がそれを知っていたことは別問題。


 研究では、そこを混同してはいけない。


 そのとき、パソコンのメール着信音が鳴った。


 海外の研究機関からだった。


 遥歩は、すぐにメールを開いた。


 問い合わせを受け付けたことへの自動返信かと思った。


 しかし、本文には担当者の名前が記されていた。


 問い合わせの内容について、所蔵目録を確認したところ、報告書に付随する関連資料の一部は、現在も保管されているという。


 ただし、閲覧の可否については、資料の状態と公開条件を確認する必要がある。


 そして、最後に一文があった。


 ――お問い合わせに記載されたお名前について、当館の旧記録にも同姓同名の研究者の記載があります。ご本人との関係を確認できる情報があれば、お知らせください。


 遥歩は、画面を見つめた。


 同姓同名。


 父の名前が、そこにあったのだろうか。


 メールには、まだ具体的な情報が書かれていない。


 同姓同名の別人かもしれない。


 父本人かもしれない。


 確認するまでは、何も決められなかった。


 遥歩は返信用の画面を開き、父の氏名と、生年を入力した。


 送信する前に、もう一度読み返す。


 それから、ボタンを押した。


 画面に、送信完了の表示が出た。


 遥歩は椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。


 父は、確かにどこかで、この資料と接点を持っていたのかもしれない。


 それが何を意味するのかは、まだわからない。


 父の死と関係があるのかどうかも。


 母が何かを知っているのかどうかも。


 ただひとつ、確かなことがあった。


 父の名前は、遥歩が知らなかった場所に残されていた。


 公表された歴史書の中ではなく、古い研究資料の目録の中に。


 遥歩は、ノートを開いた。


 そして、新しい項目を書き加えた。


 ――父の名前が残る記録。


 その下に、もう一行。


 ――誰が、何のために残したのか。


 窓の外では、夜の街が静かに光っていた。


 歴史の中に残された名前を見つけることはできる。


 けれど、その名前が何を意味するのかを知るには、まだ時間が必要だった。


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