第六話 記録にない空白
第六話 記録にない空白
朝食のあと、遥歩は父のことを考えていた。
父が好きだったパンの匂いは、まだ部屋のどこかに残っていた。
母は食器を洗い、遥歩はテーブルの上でノートパソコンを開いた。
「お父さんの資料、残っている?」
母の手が、一瞬だけ止まった。
「何の資料?」
「歴史関係のもの。古い文字とか、遺跡とか。お母さん、昨日、お父さんは古い記録を調べていたって言ったよね」
「ええ。そうね」
「どこにあるの?」
母は蛇口を閉めた。
「書斎の棚に、いくつか。だけど、あなたが探しているものがあるかどうかは、わからないわ」
「見てもいい?」
「もちろん。あなたのお父さんのものだもの」
その答えは自然だった。
自然すぎる、と感じたのは、遥歩自身が父について何も知らないからだろうか。
母はタオルで手を拭きながら、少し笑った。
「ただし、昼ごはんは食べてね。調べものを始めると、あなたのお父さんも時間を忘れる人だったから」
「僕も、そうなるかもしれない」
「似ているところがあるのね」
母はそう言って、冷蔵庫を開けた。
その横顔を見ながら、遥歩は思った。
母は父を懐かしんでいる。
それは、嘘ではないのだろう。
けれど、人を懐かしむことと、その人についてすべてを話すことは、同じではない。
*
書斎と呼ぶには小さな部屋だった。
壁際の棚には、古代中国の文字史料、考古学の論文集、歴史地理の専門書が並んでいた。背表紙には日本語だけでなく、中国語や英語のものもある。
父は、ひとつの国の歴史だけを読んでいたわけではなさそうだった。
遥歩は棚の下段から、薄いファイルを取り出した。
表紙には、父の字でこう書かれていた。
――記録と、記録されなかったもの。
息が止まりそうになった。
昨日、母から聞いた言葉。
歴史に残らなかった人たちのことを、誰が覚えているんだろう。
父は、同じことを考えていたのだ。
ファイルを開くと、新聞記事の切り抜き、遺跡の写真、地図のコピー、手書きのメモが挟まっていた。
その多くは、遥歩にも理解できる内容だった。
歴史書に記された王の名前。
王朝の交代。
出土した文字資料。
ある時代の記録が、別の時代にはほとんど残っていないという問題。
そして、何枚かの紙には、同じ言葉が繰り返し書かれていた。
**記録がないことは、存在しなかったことの証明にはならない。**
遥歩は、その一文をノートに写した。
考古学でも、文献史学でも、よく知られた問題だ。
文字を持たなかった人々がいる。
文字を持っていても、記録を残す立場になかった人々がいる。
記録が作られても、戦乱や災害で失われることがある。
そして、残された記録が、後世に選別されることもある。
何が残ったかだけでなく、何が残らなかったのか。
父は、それを知ろうとしていた。
ファイルの最後に、折りたたまれた紙が一枚あった。
開いてみると、日付と短い文章が記されていた。
日付は、父が亡くなる少し前のものだった。
――照合結果に不一致。
――公表記録と、原資料の記述が一致しない。
――原因を特定できず。
――再確認が必要。
それだけだった。
対象となる資料の名前も、具体的な場所も書かれていない。
遥歩は紙を裏返した。
何もない。
余白に、鉛筆で小さく数字が書かれていた。
「17」
ページ番号だろうか。
資料番号だろうか。
それとも、何か別の意味があるのだろうか。
遥歩はファイルの中をもう一度探した。しかし、十七という数字に結びつくものは見つからなかった。
*
昼になり、母が声をかけた。
「遥歩、お昼にしましょう」
「あと少し」
「その言い方、お父さんとそっくり」
母は笑ったが、今度は遥歩も笑った。
テーブルには、温め直したトマトスープと、残っていたパン。それから、チーズと薄切りのハムが並んでいた。
「簡単なものでごめんなさいね」
「十分だよ」
遥歩はパンにハムとチーズを挟んだ。
ひと口食べると、チーズの塩気とパンの香りが口の中に広がった。
「おいしい」
「よかった」
母はスープを飲み、少し考えてから尋ねた。
「何か見つかった?」
遥歩は、すぐには答えなかった。
父のファイルにあった紙を見せるべきだろうか。
母なら、何かを知っているかもしれない。
だが、もし母が知っているなら、なぜ今まで話さなかったのだろう。
「父さん、何かの記録を調べていたみたいだ」
遥歩は、そう答えた。
「記録?」
「公表されている内容と、元の資料が一致しなかったらしい」
母はスプーンを置いた。
ほんの短い沈黙だった。
「そう」
それだけだった。
「お母さんは、何か知ってる?」
「お父さんが何かを調べていたことは知っているわ。でも、何をどこまで調べていたのか、全部は知らないの」
母は遥歩を見た。
「あなたには、知る権利がある。でも、わからないことを、わかったように話すことはできないわ」
昨日も聞いた言葉だった。
遥歩は、スープをひと口飲んだ。
「じゃあ、わかるところから調べてみるよ」
「そうね」
母はうなずいた。
「ただ、無理はしないでね」
その声には、研究を心配する母親の響きがあった。
同時に、遥歩には、別の意味が含まれているようにも聞こえた。
だが、それを確かめることはしなかった。
今はまだ、何もわかっていないのだから。
*
午後、遥歩は父のファイルを自分の部屋へ持っていった。
パソコンで、ファイルに挟まれていた資料の題名を検索する。関連する論文や公開データベースを調べ、父のメモと照らし合わせた。
だが、例の不一致について、手がかりは見つからなかった。
父が何を比較していたのかさえ、まだ特定できない。
ひとつだけ、気になることがあった。
ファイルに挟まれていた新聞記事は、どれも公表された情報をもとに書かれていた。父が疑問を抱いたという「原資料」が何なのか、それを説明する記事はなかった。
父は、公開された情報だけを見ていたのではない。
少なくとも、そう考えるのが自然だった。
では、父は何を見たのか。
そして、その資料は今どこにあるのか。
遥歩は、例の紙をもう一度取り出した。
照合結果に不一致。
公表記録と、原資料の記述が一致しない。
原因を特定できず。
再確認が必要。
その下に書かれた数字。
――17。
数字を見つめているうちに、遥歩は、あることに気づいた。
父は「記録が間違っている」とは書いていなかった。
ただ、「一致しない」と書いていたのだ。
公表記録が正しいのか。
原資料が正しいのか。
それとも、両方とも正しく、別の事情によって食い違っているのか。
まだ、何も決められない。
研究者として、最初にすべきことは、結論を急がないことだった。
遥歩はノートに三つの項目を書いた。
**確認できた事実。**
**考えられる仮説。**
**まだ確認できていないこと。**
父が残した紙を、それぞれの項目に照らし合わせる。
そして、最後の欄に書き加えた。
――原資料の所在。
窓の外では、湯島の街がいつもどおりに動いていた。
人々は買い物をし、仕事へ向かい、誰かと昼食を食べている。
その日常のどこにも、父の調べていた謎があるようには見えなかった。
けれど、記録というものは、いつも目の前にあるとは限らない。
残された紙の余白に。
公表された文章の省略に。
誰かが口にしなかった言葉の中に。
遥歩は、父のメモをファイルに戻した。
まだ、母を疑う理由はない。
父が殺されたと決まったわけでもない。
ただ、父は何かを見つけ、それを確かめようとしていた。
その途中で、記録が途切れている。
遥歩はノートを閉じた。
歴史を調べることと、父の死を調べること。
その二つが、いつか同じ場所につながるのか。
今はまだ、わからなかった。




