第五話 焼きたての、手作りパン
大五話 焼きたての、手作りパン
目が覚めたとき、遥歩は、自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。
見慣れない天井。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
そうだ。自分は日本に帰ってきたのだった。
昨日、羽田空港で母と再会した。
用意されていた住まいに入り、渡されたiPhoneに、正体のわからない通知が届いた。
――お母様から、何も聞いていないのですね。
あの言葉が、頭の片隅に引っかかっていた。
けれど、空腹には勝てなかった。
部屋を出ると、どこからか、パンの焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。
「起きたの?」
キッチンから母の声がした。
「うん。何か、いい匂いがする」
「朝ごはんよ。もう少しでできるから、座っていて」
ダイニングテーブルには、皿とカトラリーが並んでいた。
やがて母が運んできたのは、焼きたての手作りパンだった。
続いて、湯気の立つトマトスープ。フライパンで焼いた卵は、黄身が丸く、表面だけが白く固まっている。サラダには、色とりどりの野菜が盛られていた。
遥歩は、思わず笑った。
「ずいぶん、ちゃんとした朝ごはんだね」
「そう?」
母は少し照れたように、スープの器を置いた。
「あなたが何を好きなのか、聞いていなかったでしょう。何を作ったらいいのか、わからなくて」
「それで、これ?」
「お父さんが好きだったものよ」
遥歩の手が止まった。
母は、何でもないことのようにパンを切り分けていた。
「パンは自分で焼いてね。スープも、あの人はこれが好きだったの。卵は、黄身を崩さないで食べるのが好きだったわ」
「……そうだったんだ」
父の食卓の記憶は、ところどころ曖昧だった。
何を食べていたかより、父が何を話していたかのほうを覚えている。いや、それさえ、今となっては確かなのかどうかわからない。
母は、遥歩の向かいに座った。
「食べて。冷めてしまうわ」
遥歩はパンを手に取った。
外側は香ばしく、中は柔らかい。ひと口かじると、小麦の甘い香りが広がった。
「おいしい」
そう言うと、母はほっとしたように微笑んだ。
「よかった」
それだけの会話だった。
けれど、遥歩は不思議な気持ちになった。
昨日まで、自分は母親のことを、遠くにいる人だと思っていた。連絡を取り合っていても、同じ家で暮らすこととは違う。
今は、目の前にいる。
自分のために朝ごはんを作ってくれた。
それなのに、父親の話になると、母の表情には、何か言葉にできないものが混じる。
「母さん」
「なあに?」
「父さんって、どんな人だった?」
母はスープのスプーンを置いた。
「どんな人、って?」
「僕の知らない父さんのこと。研究のことでも、仕事のことでもいい。もっと知りたいんだ」
母はすぐには答えなかった。
窓の外で、小鳥が鳴いていた。
「あなたのお父さんはね、わからないことを、そのままにしておけない人だった」
「研究者だから?」
「それもあるわね。でも、研究だけじゃなかった。人の話を聞いていても、何かおかしいと思うと、ずっと考えていたの」
遥歩は、思わず顔を上げた。
それは、自分にも覚えがある性格だった。
「納得するまで?」
「ええ。ときどき、困るくらいに」
母は笑った。
その笑顔は自然だった。少なくとも、今の遥歩にはそう見えた。
「父さんは、何を調べていたの?」
母の笑顔が消えた。
ほんの一瞬だった。
けれど、遥歩は見逃さなかった。
「……昔のことよ」
「昔?」
「古い記録や、歴史に関係すること」
「甲骨文字も?」
母は、遥歩を見た。
「どうして、そう思うの?」
「僕が研究していることを、父さんも知っていたのかなと思って」
母は、すぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「お父さんは、あなたが文字に興味を持っていたことを、喜んでいたわ」
「僕が?」
「ええ。でも、あなたに何を研究してほしいとか、そういうことは言わなかった」
遥歩は、パンをちぎった。
父親が自分の研究を喜んでいた。
それは、初めて聞く話だった。
「母さん。父さんは、どうして亡くなったの?」
今度こそ、母は黙った。
食卓には、トマトスープの湯気が細く立ち上っていた。
やがて母は、息子の顔をまっすぐ見た。
「遥歩。あなたに、きちんと話さなければいけないことがあるわ」
「父さんのこと?」
「ええ。でも、今ここで、簡単に話せることではないの」
「僕には、知る権利がない?」
「違うわ」
母は、はっきりと言った。
「あなたには、知る権利がある。だからこそ、間違ったことを伝えたくないの」
遥歩は、母を見つめた。
母は嘘をついているのだろうか。
それとも、何かを話すことで、息子を危険にさらすことを恐れているのだろうか。
まだわからなかった。
「じゃあ、ひとつだけ教えて」
「何?」
「父さんは、自分が何を調べているのか、母さんに話していた?」
母は、テーブルの上に視線を落とした。
「全部ではないわ」
その答えは、意外なほど率直だった。
「どうして?」
「夫婦だからといって、何もかも話せるとは限らないでしょう」
遥歩は黙った。
母は顔を上げた。
「でも、ひとつだけ覚えていることがあるの」
「何?」
「あなたのお父さんは、ある日、私にこう言ったの。歴史に残らなかった人たちのことを、誰が覚えているんだろう、って」
遥歩は、息をのんだ。
それは、今、自分が考えていることと、どこかでつながっていた。
王の名は、石や文字に残る。
王朝の歴史は、書物に残る。
しかし、そこに登場しない人々は。
名も残さず、生きて、働き、笑い、誰かを愛し、そして死んでいった人々は。
いったい、どこにいるのだろう。
「父さんは、その答えを見つけたのかな」
母は答えなかった。
ただ、息子の皿にパンを一切れ置いた。
「食べなさい。まだ、たくさんあるから」
遥歩はパンを見つめた。
父親が好きだった朝ごはん。
母が覚えていた、家族の食卓。
それは歴史書にも、研究論文にも載らない。
けれど、確かにここに残っていた。
遥歩は、もう一度パンを口に運んだ。
父親が何を見つけたのかは、まだわからない。
母親が何を知っているのかも、わからない。
ただ、ひとつだけ思った。
歴史を調べるということは、記録に残されたものを読むだけではないのかもしれない。
記録に残らなかったものが、なぜ残らなかったのか。
そこにも、問いを立てる必要があるのではないか。
遥歩は、窓の外に目を向けた。
朝の光は、さっきよりも明るくなっていた。




