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『正史審問/The False History of Turtle Shells(亀甲の擬史)』  作者: 東曌


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第四話 母から渡されたもの 改訂版

第四話 母から渡されたもの



 羽田空港。


 飛行機を降りた二階堂遥歩は、入国審査場へ向かう案内表示を見上げた。


 日本に帰ってきた。


 そう思っても、まだ実感はなかった。


 入国審査場には、いくつもの列ができていた。旅行客たちはパスポートを手に、順番が来るのを待っている。


 遥歩も列に並んだ。


 やがて自分の番が来ると、パスポートを提示し、審査官の質問に答えた。必要な確認を終え、返されたパスポートを受け取る。


 これで、日本への入国手続きは終わった。


 荷物を受け取り、到着ロビーへ向かう。


 通路を抜けると、出迎えの人々が目に入った。


 家族の名前を書いた紙を掲げる人。スマートフォンを片手に、到着する相手を探している人。久しぶりの再会に、声を上げて手を振る人。


 そのなかに、母がいた。


 白い紙に、黒い文字。


 【  二階堂遥歩  】


 母は、その紙を胸の前に掲げていた。


 遥歩は足を止めた。


 中国では、蕭吾文と呼ばれている。


 けれど、母が掲げているのは、日本の名前だった。


 自分が日本で生きていた時間を、母は覚えている。


 そんな当たり前のことが、なぜか胸に迫った。


「お母さん」


 母が顔を上げた。


「遥歩?」


「うん。久しぶり」


 母は紙を下ろし、息子の前まで歩いてきた。


「おかえりなさい」


「ただいま」


 それだけの言葉を交わすのに、ずいぶん時間がかかった気がした。


 母は、遥歩の顔をじっと見た。


「少し大人になったわね」


「もう二十九だよ」


「母親にとっては、いつまでも子供よ」


 母は笑った。


 遥歩も笑った。


 再会したばかりの親子に、話したいことはいくらでもあった。けれど、何から話せばいいのか、二人ともわからなかった。


「荷物、それだけ?」


「うん」


「ずいぶん身軽なのね」


「研究者だからね」


「研究者は、荷物が少ないの?」


「少なくとも、僕はそうだよ」


 母はもう一度笑った。


 その笑顔は、昔と変わらなかった。


 だからこそ、次に母が取り出したものを見て、遥歩は戸惑った。


「じゃあ、これ」


 母が差し出したのは、一台のスマートフォンだった。


「iPhone?」


「そう。あなたに使ってほしいの」


 遥歩は端末を受け取り、表裏を確かめた。


「僕、Huaweiを持っているよ」


「知っているわ」


「じゃあ、どうして?」


「これからは、こちらを使って」


 母の声は穏やかだった。


 だが、説明はそれだけだった。


 遥歩は、手のなかのiPhoneを見つめた。


「お母さん。何かあったの?」


「いいえ」


「じゃあ、なぜ?」


 母は、ほんの一瞬だけ周囲に目を向けた。


 到着ロビーでは、旅行客が家族と抱き合い、スーツケースを引き、待ち合わせの相手を探していた。誰も、こちらを気にしている様子はない。


 それでも母は、声を落とした。


「お願い。今は、理由を聞かないで」


 遥歩は母の顔を見た。


 何かを隠している。


 それだけは、わかった。


 しかし、何を隠しているのかはわからなかった。


 彼は、ひとまずiPhoneを鞄にしまった。


     *


 二人は、到着ロビーの端にあるベンチへ移動した。


 母は鞄から、小さなケースを取り出した。


 ケースの内部には、電子機器らしいものが収められている。市販のスマートフォン用アクセサリーには見えなかった。


「それは?」


「古い端末を処分するためのものよ」


「処分?」


「ええ」


 母は、遥歩を見た。


「Huaweiを出してくれる?」


 遥歩は、少しためらってから端末を取り出した。


 中国で研究生活を送るあいだ、ずっと使ってきたスマートフォンだった。


 研究資料を調べ、友人と連絡を取り、思いついたことを記録する。何気ない風景を撮影し、あとで読み返すために記事や文献の情報を保存する。


 そこには、彼が中国で過ごした時間の一部が詰まっていた。


「データは?」


 母が尋ねた。


「必要なものは、別に保存してあるよ」


「連絡先も?」


「大事なものはね」


「そう」


 母は短く答えた。


 そして、Huaweiを受け取った。


「お母さん。まさか、それを壊すの?」


 母は答えなかった。


 端末をケースのなかに収める。


 小さな作動音がした。


 母は、何かを確認するようにケースを見つめていた。


 やがてHuaweiを取り出した。


 画面は暗いままだった。


 遥歩が電源ボタンを押す。


 反応はない。


 もう一度、長押しする。


 やはり、何も起こらなかった。


「壊れたの?」


「もう使わないほうがいいわ」


「お母さん、いったい何をしたの?」


 母は端末を見下ろした。


「これからは、新しいものを使いなさい」


「そういう問題じゃないよ」


 遥歩は、思わず声を強めた。


 母は息子を見た。


 その目に、怒りはなかった。


 ただ、何かを決めた人間の静けさがあった。


「ごめんなさい」


 母は言った。


 それから、Huaweiをベンチの端に置いた。


「行きましょう」


 遥歩は、置かれた端末を見た。


「これ、置いていくの?」


「ええ」


「どうして?」


 母は、息子を見つめた。


「誰かが見つけるかもしれないから」


 遥歩は、すぐには返事ができなかった。


 誰かが見つける。


 誰かに見つけさせる、と言っているようにも聞こえた。


「誰が?」


 母は答えなかった。


「何のために?」


 母は、もう一度だけベンチの上の端末を見た。


「行きましょう、遥歩」


 それ以上、説明するつもりはないらしかった。


 二人はベンチを離れ、人の流れに紛れて歩き始めた。


 遥歩は一度だけ振り返った。


 黒いスマートフォンが、ベンチの上に残されている。


 もう電源の入らない端末。


 母はそれを、ゴミ箱に捨てたわけでも、持ち帰ったわけでもなかった。


 壊して、残した。


 その二つの行動が、遥歩にはどうしても理解できなかった。


     *


 母が用意していた住まいは、東京の湯島にあった。


 大通りから少し入ったところにある、落ち着いた建物だった。


 上野にも本郷にも近い。大学や図書館へ通うには、都合のよい場所だ。


「ここで暮らせばいいの?」


「そうよ。あなたの研究にも便利でしょう?」


「よく調べてあるね」


「母親ですから」


 母は、何でもないことのように言った。


 部屋には机と本棚、ベッドが用意されていた。窓のそばには小さなテーブルがあり、研究資料を広げる余裕もある。


 生活を始めるには、申し分のない部屋だった。


 それだけに、遥歩は不思議に思った。


 母は、いつからこの部屋を用意していたのだろう。


「お母さん」


「なあに?」


「僕が日本に来ること、いつから知っていたの?」


 母は、鞄を置く手を止めた。


「あなたが帰ってくると決めたときからよ」


「それより前は?」


 短い沈黙があった。


 ほんの数秒だった。


 けれど、遥歩には、その沈黙が長く感じられた。


「お茶を淹れるわね」


 母はそう言って、台所へ向かった。


 質問には答えなかった。


 遥歩は、それ以上追及しなかった。


 母には、何か事情がある。


 それが息子に関わることなのか、母自身に関わることなのか。あるいは、二人とは別の誰かに関わることなのか。


 今の彼には、判断できなかった。


     *


 母が帰ったあと、遥歩は新しいiPhoneを机の上に置いた。


 初期設定の画面が表示されている。


 新しい端末。


 新しい電話番号。


 これから始まる、日本での生活。


 Huaweiに保存していた必要な研究資料は、別の場所にも保管してある。重要な連絡先も、すべて失ったわけではない。


 それでも、何かが失われた気がした。


 端末そのものは、単なる道具ではなかった。


 友人との何気ないやり取り。研究の途中で撮った写真。誰にも見せるつもりのなかった、思いつきのメモ。


 そこには、研究者としての自分だけではなく、ひとりの人間として過ごした時間も残っていた。


 ほかの場所に複製があったとしても、同じものがすべて残っているとは限らない。


 記録は、コピーできる。


 しかし、記録された時間そのものは、コピーできない。


 遥歩は窓の外を見た。


 湯島の街を、人々が行き交っている。


 誰もが自分の目的地へ向かい、誰かと連絡を取り、何かを記録しながら暮らしている。


 その一方で、誰にも知られないまま、消えていくものもある。


 古代の亀甲に刻まれた文字。


 歴史書に記された王の名。


 そして、スマートフォンに保存されていた個人の記録。


 時代も規模も違う。


 けれど、記録が残るかどうかによって、後世から見える世界が変わることは同じだった。


 遥歩は、机に戻った。


 iPhoneの設定を進めようと、画面に触れる。


 そのときだった。


 見慣れない通知が表示された。


 差出人の名前はない。


 本文は、一行だけだった。


 「お母様から、何も聞いていないのですね」


 遥歩は、指を止めた。


 お母様。


 母のことだろう。


 だが、送り主は誰なのか。


 なぜ、自分が母から何も聞かされていないと知っているのか。


 そして、何について聞かされていないというのか。


 通知は、数秒後に消えた。


 画面を確認しても、履歴は残っていなかった。


 遥歩は、しばらくiPhoneを見つめていた。


 設定を終えたばかりの端末に、なぜこんな通知が届いたのだろう。


 母が送ったのか。


 それとも、母以外の誰かが。


 そもそも、この端末は本当に、新しい生活のためだけに渡されたものなのだろうか。


 答えはなかった。


 部屋は静かだった。


 机の上には、古代の甲骨文字について調べたノートが置かれている。


 遥歩はノートを開いた。


 最後のページには、昨夜、自分で書いた一文があった。


 ――記録が残っていることと、史実がすべて残っていることは、同じではない。


 遥歩は、その下に新しい一文を書き加えた。


 「消された記録は、本当に消えたのだろうか。」


 鉛筆を置いた。


 窓の外では、東京の夜が静かに深まっていた。


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