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『正史審問/The False History of Turtle Shells(亀甲の擬史)』  作者: 東曌


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第三話 母の書いた名前

第三話 母の書いた名前



 羽田空港の到着ロビーは、さまざまな言葉で満ちていた。


 日本語、英語、中国語。久しぶりの再会を喜ぶ声。到着した家族を探す声。スマートフォンを片手に、待ち合わせの場所を確認する人々。


 二階堂遥歩は、到着口を抜けたところで、足を止めた。


 日本に来た。


 そう思ったとき、ようやく実感が追いついてきた。


 これまで何度も、頭の中で想像していた場所だった。


 母に会う。


 ただ、それだけのことだ。


 それだけのことなのに、飛行機に乗るまで、ずいぶんと時間がかかった。


 遥歩は、待ち合わせ場所を見渡した。


 家族の名前を書いた紙を掲げる人がいる。花束を持った人もいる。何度も時計を見ながら、到着口を気にしている人もいた。


 その中に、一枚の紙を持った女性がいた。


 白い紙だった。


 そこに、黒い文字で、名前が書かれていた。


 **二階堂遥歩**


 遥歩は、息を止めた。


 見慣れた漢字だった。


 自分の名前なのだから、当然だ。


 けれど、その文字が、母の手によって書かれたものだと思った瞬間、急に見慣れないものになった。


 中国では、蕭吾文。


 シャオ・ウーウェン。


 それが、彼の名前だった。


 研究者として論文を書くときも、大学で紹介されるときも、友人と話すときも、その名前を使ってきた。


 二階堂遥歩という名前は、ずっと自分の中にあった。


 けれど、誰かに呼ばれる機会は、決して多くなかった。


 母は、紙を両手で持っていた。


 人の流れを見つめながら、ときどき背伸びをしている。


 遥歩は、すぐには歩き出せなかった。


 母の顔を覚えている。


 声も覚えている。


 それなのに、いま目の前にいる女性に向かって、どう声をかければいいのか、わからなかった。


 母が顔を上げた。


 視線が合った。


 女性は、持っていた紙を少し下げた。


 そして、何かを確かめるように、遥歩の顔を見つめた。


「……遥歩?」


 日本語だった。


 遥歩は、小さくうなずいた。


「お母さん」


 それだけだった。


 母は、紙を片手に持ち替えた。


 もう片方の手が、ゆっくりと伸びてきた。


 遥歩も手を伸ばした。


 母の手は、記憶にあったものより少し細くなっていた。


 年月が過ぎたのだ。


 自分だけが、時間の外にいたわけではない。


「大きくなったね」


 母はそう言って、笑った。


 遥歩は、返事をしようとした。


 けれど、何を言えばいいのか、すぐには見つからなかった。


 もう二十九歳だ。


 大きくなったどころではない。


 自分で研究をし、自分で判断し、自分の名前で論文を書く年齢になっている。


 それでも、母の目には、まだ成長の途中にいる息子として映っているのかもしれなかった。


「……うん」


 結局、それだけ答えた。


 母は、手に持った紙を見下ろした。


「これ、必要なかったかな」


「いや」


 遥歩は、首を横に振った。


「すぐ、わかったよ」


「そう?」


 母は、少し安心したように笑った。


「間違えたら困ると思って。漢字、これで合っているかしらって、何度も書き直したの」


 遥歩は、紙を見た。


 確かに、名前の一部には、書き直した跡があった。


 紙の端には、薄く鉛筆で下書きした線も残っていた。


 母は、自分の名前を書くために、何度も練習したのだろう。


 遥歩は、その紙を受け取った。


「ありがとう」


 母は、少し驚いたように息子を見た。


「どういたしまして」


 そして、二人は笑った。


 ほんの短い笑いだった。


 けれど、遥歩は、その瞬間になって初めて、ここへ来たのだと思った。


     *


 空港を出ると、東京の空気が頬に触れた。


 母は、遥歩の荷物を気にしながら、歩く速度を合わせていた。


「疲れたでしょう」


「大丈夫」


「飛行機、よく眠れた?」


「少しだけ」


「そう。何か食べる?」


「あとでいいよ」


 会話は、驚くほど普通だった。


 何年も離れていた母と息子が、ようやく再会したというのに、話題は飛行機の疲れや食事のことばかりだった。


 けれど、遥歩には、それがありがたかった。


 何から話せばいいのか、わからなかったのだ。


 なぜ、もっと早く会いに来なかったのか。


 父が亡くなってから、何を考えていたのか。


 これから、どうしたいのか。


 話さなければならないことは、いくらでもあった。


 しかし、到着ロビーで再会したばかりの二人に、すべてを語る必要はなかった。


 母が、ふと尋ねた。


「中国では、みんな、あなたのことを何て呼ぶの?」


「シャオ・ウーウェン」


「そう」


 母は、前を向いたままうなずいた。


「あなたのお父さんがつけた名前ね」


 遥歩は、母の横顔を見た。


「うん」


「いい名前だと思うわ」


 母は、少し間を置いて続けた。


「でも、私は遥歩って呼ぶわね」


 遥歩は、返事をしなかった。


 返事ができなかったのではない。


 何かを言ってしまうと、いま胸の中にあるものが、別の形に変わってしまう気がした。


 母は、そんな息子を急かさなかった。


 ただ、隣を歩いていた。


     *


 車窓から見える景色が、少しずつ変わっていく。


 遥歩は、母の横顔を見ながら、考えていた。


 二つの名前を持つことは、長いあいだ、自分にとって当たり前のことだった。


 中国名は、中国で生きる自分の名前。


 日本名は、母とつながる自分の名前。


 そう整理してしまえば、簡単だった。


 けれど、名前は、書類の上で二つに分けられていても、人間まで二つに分かれるわけではない。


 どちらも、自分だった。


 どちらか一方を選ばなければならない理由など、なかったのかもしれない。


 母が、窓の外を見ながら言った。


「日本にいるあいだ、ゆっくりしていきなさい」


「うん」


「話したいことも、たくさんあるでしょうし」


 遥歩は、うなずいた。


 話したいことは、たくさんあった。


 聞きたいこともあった。


 けれど、いまは、ひとつだけでよかった。


 母が自分の名前を書いて、待っていてくれたこと。


 その名前を見つけて、母のところまで歩いていけたこと。


 それだけで、今日ここへ来た意味はあった。


 遥歩は、膝の上に置いた紙を見た。


 母が書いた、自分の名前。


 二階堂遥歩。


 その文字は、少し不格好だった。


 けれど、何度も書き直した跡があって、紙の端には、消しゴムで消した鉛筆の線が残っていた。


 彼は、その紙を丁寧に折りたたんだ。


 捨てるつもりはなかった。


 これから先、何度も思い出すことになる気がした。


 母に会うための第一歩は、もう終わっていた。


 そして、次の一歩は、母の隣で、ゆっくりと踏み出せばよかった。


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