第二話 二つの名前
第二話 二つの名前
飛行機の窓から見下ろす成都の街は、薄い雲の向こうへ消えようとしていた。
蕭吾文は、シートベルトを締め直した。
二十九歳。中国古代史を研究する大学の研究者。
そして、日本で生まれたときに、母から二階堂遥歩という名前を与えられた男。
二つの名前を持つことを、彼は不思議だと思ったことがないわけではなかった。
だが、幼いころから周囲は、それを当然のこととして扱ってきた。
父の姓を持つ自分。
母がつけた名前を持つ自分。
どちらも自分なのだから、どちらか一つを選ぶ必要などない。
そう考えてきた。
しかし、父の遺品から見つかった短い言葉が、その考えを揺さぶっていた。
――正史に、問え。
歴史を研究する者にとって、正史とは何か。
王朝が認めた記録か。
後世の人間が、正しいと判断した記録か。
それとも、正しいと認められるように編まれた記録なのか。
そして、そこに記されなかったものは、いったいどこへ行くのだろう。
遥歩はスマートフォンを取り出した。
画面には、昨夜、指導教授の陳から送られてきた甲骨文字資料の画像が残っていた。
骨の表面に刻まれた文字。
欠けた縁。
そして、文字とも傷とも判断できない、小さな痕跡。
その一片が、本当に殷代の資料なのか。
そもそも、どこで発見されたものなのか。
現時点では、確かなことは何もなかった。
三星堆の青銅仮面を連想させる形があったとしても、それだけで両者の関係を証明することはできない。
研究者なら、まず証拠を集める。
父も、そう教えていた。
「記録を疑え。ただし、証拠なしに否定するな」
その言葉を思い出すたび、遥歩は父がどんな研究をしていたのか、もっと知りたいと思った。
父は、何を疑っていたのだろう。
そして、なぜ日本語で、あの言葉を残したのだろう。
*
飛行機は韓国の仁川国際空港に着陸した。
乗り継ぎまでの時間は、それほど長くない。
遥歩は案内表示を確認し、日本行きの搭乗口へ向かった。
空港の窓の向こうには、別の飛行機が何機も並んでいた。さまざまな国から来た人々が、さまざまな国へ向かっていく。
その誰もが、パスポートに記された名前を持っている。
名前は、人を識別するためにある。
だが、それだけだろうか。
遥歩は自分のパスポートを取り出した。
そこには、二階堂遥歩という名前が記されている。
中国で使っている名前とは違う。
しかし、彼にとっては、どちらも嘘ではなかった。
母は、なぜ自分にこの名前をつけたのだろう。
もちろん、名前の由来なら、以前にも尋ねたことがある。
遠くを見ながら、一歩ずつ歩いてほしい。
母は、そんな意味を込めたのだと話していた。
そのときは、よくある親の願いだと思った。
今も、それ自体は間違いではないだろう。
けれど、なぜ母は、父の研究について何も話そうとしないのか。
昨夜の電話で、母は明らかに動揺していた。
骨の資料を見ているのか、と尋ねた。
なぜ、あの資料の存在を知っているような口ぶりだったのか。
遥歩はスマートフォンを握り直した。
母に電話をかけることも考えたが、やめた。
電話では話せない、と母は言った。
ならば、直接会って話を聞くしかない。
彼は搭乗口へ向かった。
*
日本行きの機内で、遥歩は父の古い写真を開いた。
写真には、若いころの父が写っていた。
隣にいるのは、母だった。
二人とも、今の自分より若い。
背景には、石造りの建物が見える。観光地なのか、大学の施設なのか、それとも遺跡の近くなのか。
写真だけでは判断できなかった。
裏面には、撮影年月日も場所も書かれていない。
ただ、父の筆跡で短い文章が記されていた。
――正史に、問え。
遥歩は写真を裏返し、もう一度、表に戻した。
母と父は、何を見ていたのだろう。
その場所で、何を話したのだろう。
そして、なぜ父は、この言葉を残したのだろう。
彼は、母に聞くべきことをスマートフォンのメモに書き出した。
甲骨文字の資料について。
父の研究について。
写真の撮影場所について。
そして、父が亡くなる前に、何か話していなかったか。
書き出してみると、質問は思った以上に多かった。
それでも、一番聞きたいことは、まだ文字にできなかった。
母は、父の何を知っているのか。
そして、自分には、何を伝えないと決めたのか。
機内アナウンスが流れた。
まもなく、日本に到着する。
遥歩は窓の外を見た。
雲の切れ間から、海が見えた。
遠い過去を調べるために、日本へ向かっている。
そう説明することはできる。
研究者として、資料を確かめるために。
父の残した言葉の意味を知るために。
しかし、本当は、それだけではなかった。
自分が何者なのか。
その問いを、母に尋ねるのが怖かったのだ。
*
到着後、遥歩はスマートフォンの電源を入れた。
母からメッセージが届いていた。
《着いたら連絡して。迎えには行けないけれど、場所は送ります》
続けて、住所が記されていた。
彼は住所を地図で確認した。
それから、短く返信した。
《着きました。これから向かいます》
送信すると、すぐに既読になった。
だが、母から返事はなかった。
遥歩はスマートフォンをポケットにしまった。
母に会えば、すべてが分かるわけではないだろう。
人は、自分の知っていることを、すべて話すとは限らない。
まして、長い年月を経た家族の記憶なら、なおさらだ。
それでも、確かめなければならない。
父の研究と、あの甲骨文字の資料。
二人の名前を持つ自分。
そして、父が残した言葉。
空港の出口へ向かいながら、遥歩はふと足を止めた。
案内板に、日本語が並んでいる。
中国語とは違う文字。
けれど、読める。
自分が生まれた国の言葉だ。
母が自分につけた名前を、初めて書類に記した国。
彼は、胸の内でその名前を呼んだ。
二階堂遥歩。
その名前の先に、何が待っているのか。
まだ、分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
歴史の記録に何が書かれているのかを調べる前に、彼はまず、自分自身の記録を読み直さなければならない。
母に会うのは、その第一歩だった。




