第一話 存在しない王
『正史諮問 ― Oracle Bone Script』
【登場人物紹介】
◾️蕭吾文/二階堂 遥歩
29歳。中国古代史を研究する若き研究者。
四川省・成都を拠点に、殷周時代の文字資料や青銅器文明を研究している。
中国で暮らす彼の名前は、シャオ・ウーエン。
しかし、日本で生まれたとき、母が名付けた名前は二階堂遥歩だった。
日本人の母と中国人の父。二つの名前を持つ彼は、文字が人の存在を記録する一方で、記録からこぼれ落ちるものもあることに、いつしか関心を抱くようになっていた。
ある日、出所の分からない甲骨文字の資料と出会ったことから、彼は父の残した言葉を手がかりに、歴史の奥に隠された謎を追い始める。
◾️二階堂ユカリ
遥歩の母。日本人。
日本で遥歩を産み、二階堂遥歩と名付けた女性。
その後、中国人研究者の蕭啓明と結婚したが、やがて離婚。彼女は日本へ戻り、息子は中国に残った。
息子との連絡は続いているものの、夫が生前に何を調べ、何を知っていたのかについては、すべてを語ろうとしない。
なぜ、あの夜、突然、息子に日本へ来るよう告げたのか。
母が胸にしまい続けてきた過去には、まだ明かされていない何かがある。
◾️ 蕭啓明
遥歩の父。故人。
香港生まれの中国人研究者。
古代史と文字資料に関わる研究を続けていたが、その研究の全容は、息子にも十分には伝えられていない。
彼が残した古い写真と、短い日本語のメモ。
そこに記されていた言葉は――
「正史に、問え。」
それは研究者としての遺言なのか。それとも、誰かに向けた警告だったのか。
◾️陳教授(チェン教授)
ウーエンの指導教授。
ウーエンに、出所の分からない甲骨文字資料の画像を送った人物。
資料について多くを語らず、慎重な態度を崩さない。彼は研究者として何を確かめようとしているのか。そして、なぜこの資料をウーエンに託したのか。
「書かれているものだけを見るな。書かれていないものを、見ろ。」
その言葉が意味するものを、ウーエンはまだ知らない。
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【物語の鍵となるもの】
・甲骨文字の資料
・三星堆の青銅仮面
・父の古い写真
・「正史に、問え」というメモ。
それぞれが、古代の歴史と現代に生きる人々を結びつけていく。
記録された事実と、
記録されなかった事実。
その境目に何があるのか。
ウーエンの調査は、やがて歴史だけでなく、
彼自身の家族の物語にも踏み込んでいく。
正史諮問 ― Oracle Bone Script
第一話 存在しない王
蕭吾文には、二つの名前があった。
中国で暮らす彼を、人々はシャオ・ウーエンと呼ぶ。
二十九歳。四川省成都の研究機関で、中国古代史を研究している。専門は殷周時代の文字資料と、青銅器文明の成立過程だった。
だが、日本にいる母親は、彼を別の名前で呼ぶ。
アユム。
二階堂遥歩。
日本で生まれたとき、母親の二階堂ユカリが名付けた名前だった。
「遥かなる道を、歩むように」
母は、以前そう説明してくれたことがある。
けれど、ウーエンには、その名前が少し不思議だった。
遥かなる道とは、どこへ続く道なのだろう。
なぜ自分は、日本で生まれながら中国で育ち、中国名で暮らしているのだろう。
両親が離婚したのは、彼が幼いころだった。
母は日本へ帰り、父の蕭啓明は中国に残った。
ウーエンは父と暮らすことになった。母とは、その後も連絡を取り続けている。
特別に不幸な生い立ちだと思ったことはない。
中国語も日本語も話せる。日本に親戚がいるわけではないが、母の暮らす国は、彼にとって遠い異国というほどの場所でもなかった。
ただ、自分の名前を二つの言葉で考えるとき、彼はいつも小さな違和感を覚えた。
名前は、同じ人間を指している。
それなのに、文字が変われば、印象も変わる。
名前を記した文字が違えば、その人間の存在まで、別のものになってしまうのだろうか。
ウーエンが古代文字に興味を持ったのは、そんな疑問が心のどこかにあったからかもしれない。
もっとも、研究者になってからは、そんな個人的な感傷を論文に書いたことはなかった。
研究に必要なのは、証拠である。
印象だけで歴史を語ってはならない。
彼は、その原則を大切にしていた。
だからこそ、その日の深夜に届いた一枚の画像が、気になって仕方がなかった。
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午前二時十七分。
研究室の机に置いたファーウェイのスマートフォンが震えた。
送信者は、陳教授。
ウーエンが大学院時代から指導を受けてきた、中国古代史の研究者だった。
メールには、画像が一枚添付されていた。
件名は《未登録資料について》。
本文には、こう書かれていた。
――画像を確認してほしい。現時点では、資料の出所は確定していない。
ウーエンは、画像を開いた。
古びた骨の破片だった。
表面には、細かな亀裂が走り、いくつかの刻線が残っている。
甲骨文字。
殷代の人々が、亀の甲羅や獣骨に刻んだ文字である。王が神意を問い、戦争や収穫、狩猟、雨の行方などを占った記録が、現在まで伝えられている。
ウーエンは画像を拡大した。
刻線の一部は、既知の文字に似ていた。しかし、欠損が激しく、確実に読み取れるものは少ない。
彼はノートを開き、見える形を一つずつ書き写した。
文字の候補を挙げ、別の資料と照合する。
その作業を続けているうちに、彼は画面の右下に、奇妙な傷があることに気づいた。
三本の線が交わり、その脇を弧を描く線が囲んでいる。
文字なのか。
単なる傷なのか。
後世に誰かが刻み込んだものなのか。
画像だけでは判断できなかった。
彼は、別の画像を開いた。
三星堆の青銅仮面。
四川省で発見された、突出した目や大きな耳を持つ仮面である。黄河流域の古代文明とは異なる造形を備え、その文化の成立や周辺地域との交流について、今も研究が続けられている。
甲骨文字の画像に見つけた傷は、仮面の一部にある模様と、どこか似ているように見えた。
ウーエンは、画面を交互に切り替えた。
似ている。
だが、似ているというだけでは、何も証明できない。
三星堆の青銅器と殷代の甲骨文字が、直接つながっていると断定する根拠はない。
彼はノートに、そう書き込んだ。
そのうえで、もう一度、骨片の画像に目を戻した。
不思議なのは、傷の形だけではない。
この資料には、整理番号が写っていなかった。
撮影場所も、撮影日時も不明。
資料の大きさを推定するための尺度もない。
本格的な研究に使う画像としては、情報が不足しすぎていた。
陳教授ほどの研究者が、なぜこんな画像を送ってきたのだろう。
ウーエンは返信を書いた。
《文字の判読には、より高解像度の画像と、資料の来歴が必要です。原本はどこにありますか》
送信する。
しばらくして、スマートフォンが再び震えた。
陳教授からのメッセージだった。
《原本の所在は、まだ確認できていない》
続けて、もう一通。
《この資料について、ほかの人間には話さないでほしい》
ウーエンは眉をひそめた。
「ほかの人間って、誰だよ……」
思わず中国語でつぶやいた。
未確認の資料を慎重に扱うこと自体は、珍しくない。出所が不明な遺物には、盗掘品や偽造品が含まれる可能性もある。研究者が不用意に情報を広めれば、資料の保全や真贋の検証に支障を来すこともある。
それでも、陳教授の言い方には、研究上の慎重さだけでは説明しにくいものがあった。
ウーエンは、最後にもう一度だけ尋ねた。
《何か問題が起きているのですか》
返事はなかった。
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午前三時を過ぎたころ、母から電話がかかってきた。
日本時間なら、午前四時を過ぎている。
普段なら、こんな時間に電話をしてくる人ではない。
「もしもし、母さん?」
『アユム? 起きていたのね』
母は、日本語でそう言った。
中国で暮らす彼を、母はいつもアユムと呼ぶ。
その声を聞くと、彼は自分が中国の研究者であることを、ほんの少しだけ忘れる。
「研究の仕事だよ。母さんこそ、どうしたの?」
『何でもないの。ただ、ちょっと気になって』
「何が?」
母はすぐには答えなかった。
『あなた、最近、古い骨や青銅器の資料を調べている?』
ウーエンは、椅子に座り直した。
「どうして、そんなことを聞くの?」
『……そう。やっぱり』
「母さん?」
『何か資料を見つけても、すぐに誰かに渡したりしないで。写真でも、書類でも』
「いったい何の話?」
『ごめんなさい。今は、うまく説明できない』
母の声は、いつもより弱々しかった。
ウーエンは、机の上の画像を見た。
骨片。
刻まれた文字。
そして、三星堆の青銅仮面。
「父さんと関係があるの?」
電話の向こうで、母が息をのんだ。
父の蕭啓明は、すでに亡くなっている。
古代史に関わる仕事をしていたことは知っている。しかし、父がどんな資料を調べ、どんな研究を進めていたのか、ウーエンは詳しく聞かされていなかった。
両親が離婚した理由についても、母は多くを語らなかった。
『アユム。あなたは、自分の名前について考えたことがある?』
突然の質問だった。
「名前?」
『日本では、遥歩。中国では、ウーエン。どちらも、あなたの名前よ』
「それは分かっているよ」
『そうね。でも、名前が二つあることと、あなた自身が二人いることは違うでしょう?』
ウーエンは黙った。
『どちらかを捨てなくてもいいの。どちらの名前も、あなたが生きてきた時間の一部だから』
「母さん、何が言いたいの?」
『……いつか、日本に来てほしい』
その言葉は、唐突だった。
母はこれまでにも、何度か来日を勧めてきたことがある。しかし、今回の声には、いつもの親心とは違う切迫感があった。
『もし、お父さんのことをもっと知りたいと思うなら、私のところに来て』
「父さんについて、何か知っているの?」
『知っていることもある。でも、私にも分からないことがある』
「それなら、今、話してくれればいいじゃないか」
『電話では、話せないこともあるのよ』
ウーエンは、ため息をついた。
母は何かを知っている。
だが、何を知っているのかは分からない。
「分かった。考えておくよ」
『ありがとう、アユム』
通話が終わった。
ウーエンは、しばらくスマートフォンを見つめていた。
母は、なぜ今になって、日本へ来てほしいと言ったのだろう。
父の研究と、あの骨片の画像は、関係があるのだろうか。
まだ、何も分からない。
ただ、彼の中で、ひとつの考えが形になり始めていた。
日本へ行けば、父のことをもう少し知ることができるかもしれない。
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夜明け前、ウーエンは研究室を出た。
帰宅してからも、眠る気にはなれなかった。
机の引き出しを開け、父の古い写真を取り出した。
写真の中の蕭啓明は、まだ若かった。
香港生まれの父は、若いころに中国大陸へ渡り、古代史の研究に関わるようになったという。
写真の裏には、父の筆跡で日付が書かれている。
その隣に、短い言葉があった。
《記録を疑え。ただし、証拠なしに否定するな》
父がよく口にしていた言葉だった。
ウーエンは、その言葉を思い出した。
歴史は、残された資料をもとに再構成される。
しかし、資料がすべて残っているとは限らない。
戦争で失われた記録もある。
権力者によって破棄された記録もある。
そして、そもそも記録されなかった出来事もある。
だからといって、記録にないものを、好きなように想像してよいわけではない。
存在したと主張するなら、証拠が必要だ。
存在しなかったと断言するにも、慎重でなければならない。
ウーエンは、父の写真を封筒に戻した。
そのとき、引き出しの奥に、もう一枚の紙があることに気づいた。
日本語で書かれた、古いメモだった。
《正史に、問え。》
それだけだった。
誰が書いたのか。
いつ書かれたのか。
なぜ父の写真と一緒に保管されていたのか。
分からないことばかりだった。
ウーエンは、メモをスマートフォンで撮影した。
そして、甲骨文字の画像と並べて表示した。
古代の骨に刻まれた文字。
青銅仮面に残された模様。
父の古い写真。
日本語のメモ。
それらが同じ謎につながっていると、まだ証明できるわけではない。
けれど、無関係だと切り捨てるには、気になることが多すぎた。
ウーエンは、航空券の検索画面を開いた。
成都から日本へ。
直行便だけでなく、韓国の仁川国際空港を経由する便も表示される。
彼は、いくつかの便を比較した。
まだ、予約はしなかった。
出国できなくなると決まったわけでもない。大学のデータベースにアクセスできなくなった理由も、陳教授が慎重になっている理由も分からない。
ただ、資料の来歴を確かめるには、実物を見る必要がある。
そして、父の研究について知っている母に、直接話を聞く必要がある。
ウーエンは、検索画面を閉じた。
窓の外が、少しずつ明るくなっていた。
彼は、父の古いメモをもう一度読んだ。
《正史に、問え。》
その言葉が、誰に向けられたものなのか、まだ分からない。
歴史を記した者に向けられたのか。
記録から消された者に向けられたのか。
それとも、歴史を研究する自分自身に向けられたのか。
ウーエンは、メモを封筒にしまった。
日本へ行こう。
そう決めた。
母に会うために。
父の研究を知るために。
そして、あの骨片に刻まれた文字が、何を意味しているのかを確かめるために。
そのとき、スマートフォンが震えた。
陳教授からのメッセージだった。
《ウーエン。日本へ行くなら、ひとつだけ覚えておいてほしい》
続いて、短い文章が届いた。
《その資料に、書かれているものだけを見るな》
ウーエンは画面を見つめた。
数秒後、もう一通が届いた。
《書かれていないものを、見ろ》
彼は、返信しようとした。
しかし、その前にメッセージが消えた。
送信者によって削除されたのか、通信上の問題なのかは分からない。
ウーエンは、スマートフォンを机に置いた。
そして、窓の外に目を向けた。
歴史には、記録されたものがある。
記録されなかったものもある。
その違いを決めたのは、いったい誰なのだろう。
彼はまだ知らなかった。
自分が日本で生まれたことも。
二つの名前を持つことも。
そして、父が残した短い言葉も。
これから追うことになる謎の、ほんの入口にすぎないことを。




