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新宿少女  作者: 深澤敏朗
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9/14

第九話

数日後。


凪海は、古い雑居ビルの前に立っていた。


新宿から少し離れた住宅街。


騒がしさの薄い場所だった。


ビルの二階。


小さな看板。


『藤堂心理相談室』


思っていたより、ずっと普通だった。


凪海はフードを被ったまま、階段を上がる。


後ろから竹田がついてくる。


「逃げんなよ」


「逃げるなら最初から来てない」


凪海は不機嫌そうに返す。


扉を開ける。


中は静かだった。


消毒液の匂い。


白い壁。


小さな観葉植物。


受付には誰もいない。


竹田は慣れた様子で進む。


「いるー?」


返事はない。


竹田はそのまま診察室の扉を開けた。


「邪魔するぞ」


部屋は広くない。


机とソファ。


本棚。


窓際には観葉植物。


その奥に、男が座っていた。


背が高い。


座っているのに、それが分かる。


黒髪。


細い銀縁の眼鏡。


白衣ではなく、黒いシャツだった。


男は本を閉じる。


視線だけがこちらへ向く。


感情が薄い目だった。


竹田が軽く笑う。


「連れてきた」


凪海を親指で示す。


「佐々木凪海」


「前話したやつ」


悠太は何も言わない。


ただ凪海を見る。


数秒。


沈黙。


竹田が少し困った顔をする。


「……で、こっちが藤堂」


「心理療法士」


悠太は無言。


凪海は眉を寄せる。


「喋んないの」


悠太は返さない。


部屋が静かになる。


時計の秒針だけが聞こえる。


竹田が咳払いする。


「まあ……その……」


気まずそうだった。


「俺、自販機行ってくるわ」


凪海が顔をしかめる。


「は?」


「すぐ戻るから」


竹田はそのまま逃げるみたいに部屋を出る。


扉が閉まり、部屋には静けさだけが残る。


凪海はソファに浅く座ったまま、悠太を見る。


悠太は何も言わない。


机の上に置かれたメモ帳を閉じるだけ。


長い沈黙。


凪海は少しイラつき始める。


「……何」


悠太は無反応。


「これ、カウンセリングじゃないの」


返事はない。


凪海は鼻で笑う。


「なにその感じ、人見知り?」


悠太は凪海を見る。


けれど喋らない。


凪海は舌打ちしそうになる。


「東大卒って聞いたけど、頭良すぎて喋れなくなった?」


無反応。


「それとも、私みたいなの嫌い?」


悠太は瞬きだけする。


凪海はだんだん腹が立ってくる。


「……無視?」


沈黙。


「感じ悪」


凪海はソファにもたれ、わざとらしく部屋を見回す。


「てか、こんなとこで何してんの」


「東大まで出て」


「普通もっとマシな病院行けたでしょ」


悠太は黙ったまま。


凪海は続ける。


「変人って言われてんの、分かる気する」


「患者来なくない?」


返事はない。


凪海は笑う。


わざと。


「それとも、喋れない系?」


「カウンセラーなのに?」


それでも悠太は黙っている。


怒りもしない。


表情も変わらない。


その反応が、逆に凪海を苛立たせた。


「……何か言えば」


凪海が言葉をぶつける。


悠太は数秒、凪海を見ていた。


そしてようやく口を開く。


「言ってほしいのか」


低い声だった。


静かなのに、妙に響く。


凪海の眉がわずかに動く。


悠太は続ける。


「馬鹿にしてる相手に」


「反応してほしくて、ずっと喋ってる」


部屋が静かになる。


凪海は数秒、言葉が止まる。


悠太はそれ以上何も言わない。


また黙る。


その沈黙が、さっきまでより少しだけ重かった。



それから数週間。


凪海は、一応、毎週診療所へ通っていた。


約束だから。


竹田がうるさいから。


それだけだった。


診療所は相変わらず静かだった。


窓の外を走る車の音だけが遠く聞こえる。


そして——


悠太は、相変わらず喋らなかった。


凪海が来る。


ソファに座る。


悠太は向かいに座る。


それだけ。


質問もしない。


メモも取らない。


慰めもしない。


説教もしない。


ただ、いる。


最初の数回は、凪海も好き勝手喋っていた。


「今日も無言?」


「その仕事楽そう」


「寝てても金貰えんじゃん」


悠太は反応しない。


たまに視線を向けるだけ。


凪海はイラつく。


馬鹿にしても、

煽っても、

怒らせても、


返ってこない。


それが逆に気持ち悪かった。


四回目くらいから、凪海も喋らなくなった。


沈黙。


時計の音。


外の車の音。


その時間だけが過ぎる。


凪海はソファに座りながら、ずっと思っていた。


意味が分からない。


こんなの。


カウンセリングでも何でもない。


その日も、凪海は十五分くらい黙って座っていた。


悠太は窓際の椅子に座っている。


脚を組み、本を閉じたまま。


何も言わない。


凪海はとうとう舌打ちする。


「……ほんと何なの」


悠太は視線を向ける。


凪海はソファにもたれたまま言う。


「これ意味ある?」


沈黙。


「毎回来て、座って、終わりじゃん」


悠太は返事をしない。


凪海は苛立ったように立ち上がる。


「もう無理」


バッグを掴む。


「帰る」


悠太は止めない。


それがさらに腹立たしい。


凪海は扉を開ける。


出る直前、後ろも見ずに言った。


「次から別のとこにして」


悠太は何も言わない。


診療所を出る。


階段を乱暴に降りる。


外の空気は少し冷えていた。


そのまま凪海は竹田に電話をかける。


数回のコール。


すぐ繋がる。


「もしもし」


竹田の声。


凪海は歩きながら言う。


「無理」


竹田が少し黙る。


「何が」


「藤堂」


即答だった。


「今すぐ変えて」


竹田の向こうで、小さく笑う気配。


凪海は眉を寄せる。


「笑うな」


「いや……まあ、そうなると思ってた」


「だから言ったじゃん、変人だって」


凪海は苛立った声で言う。


「変人とかそういうレベルじゃない」


「ずっと黙ってるだけなんだけど」


竹田は「うん」と返す。


まるで知っていたみたいに。


凪海は続ける。


「カウンセリングでも何でもない」


「置物と喋ってる方がまだマシ」


竹田が少し吹き出す。


「酷い言い方だな」


「事実」


竹田はしばらく黙る。


それから、少し真面目な声になる。


「でも、お前ちゃんと通ってるじゃん」


凪海の足が少し止まる。


「……は?」


「嫌なら普通来なくなる」


「お前、毎回来てる」


凪海は言葉に詰まる。


竹田は続ける。


「多分あいつ、それ分かってるよ」


凪海は顔をしかめる。


「だからキモいんだけど」


竹田は笑う。


「まあ、もう少し付き合ってやって」


「俺の頼み」


凪海は深く息を吐く。


断ろうと思った。


けれど、結局言えない。


竹田に借りがある。


それに——


少しだけ。


本当に少しだけ。


あの静かな空間が、嫌いじゃなくなっている自分にも気づいてしまっていた。



診療所を出たあとも、凪海の苛立ちは消えなかった。


頭の奥が、ずっとざらついている。


静かな診療室。


何も喋らない藤堂。


見透かしたみたいな目。


思い出すだけで、むしゃくしゃした。


凪海はスマホを取り出す。


連絡先を開く。


川上。


少しだけ迷ってから、通話ボタンを押す。


数回のコール。


「……もしもし」


疲れた声だった。


「会いたい」


凪海が言う。


少し沈黙。


それから川上は短く返した。


「分かった」


夜。


新宿西口。


人通りの少ない裏通り。


川上はスーツ姿で立っていた。


ネクタイは緩んでいる。


顔も少し疲れている。


凪海はフードを被ったまま近づく。


川上は煙草を咥える。


火をつける。


「寒いな」


凪海は返事をしない。


川上もそれ以上喋らない。


しばらく二人で歩く。


凪海はだんだん苛立ってくる。


「……ねえ」


川上が視線だけ向ける。


凪海は吐き捨てるみたいに言った。


「今日さ、またあいつんとこ行ってた」


川上は無言。


「竹田の知り合いのカウンセラー、ずっと黙ってんの。何考えてんのか分かんないし。ほんとキモい」


川上は煙を吐く。


返事はない。


凪海は続ける。


「毎回座ってるだけ。東大卒らしいよ。無駄すぎない?」


川上は何も言わない。


ただ歩いている。


凪海の苛立ちが少しずつ強くなる。


「……聞いてる?」


「聞いてる」


短い返事。


感情がない。


それが余計に腹立たしい。


「なら何か言えば」


川上は黙る。


凪海は笑う。


乾いた笑い。


「何」


「黙ってるなら藤堂と一緒じゃん」


その瞬間だった。


乾いた音。


凪海の顔が横に弾かれる。


頬が熱い。


遅れて痛みが来る。


凪海は数秒、動かない。


川上が冷たい声で言う。


「……うるさい」


声が荒れていた。


「こっちも仕事で疲れてんだよ」


煙草を地面に落とす。


靴で踏み潰す。


「お前の愚痴ずっと聞いてる余裕ない」


凪海は何も言わない。


頬だけが熱を持っている。


川上はそのまま凪海の腕を掴む。


強く。


「最近ずっとイライラしてるよなお前」


凪海は視線を落とす。


「あんたには関係ない」


また平手が飛ぶ。


頬が揺れる。


「その言い方やめろ」


川上の声は荒い。


凪海は少しよろける。


けれど、逃げない。


逃げるという発想が、最初から薄かった。


路地には誰もいない。


川上は凪海を壁へ押しつける。


「最近、ほんと面倒くさい」


拳が肩に入る。


腹にも。


重い痛み。


凪海は目を閉じる。


いつものことだった。


怒鳴り声。


暴力。


機嫌。


子供の頃から、ずっと知っている。


だから、どこかで思ってしまう。


ああ、こうなるよね、と。


川上の拳がまた振り上がる。


その時。


腕が止まる。


川上の表情が変わる。


「……は?」


低い声。


川上の腕を、誰かが掴んでいた。


長い指。


白い手。


凪海がゆっくり顔を上げる。


黒いコート。


高い背。


街灯の下の銀縁眼鏡。


悠太だった。


悠太は川上の腕を掴んだまま、静かに立っている。


表情は変わらない。


「それ」


川上を見る。


「続けますか」


空気が変わる。


川上が腕を振り払おうとする。


けれど、悠太は離さない。


思ったよりずっと力が強かった。


川上が苛立った顔をする。


「なんだお前」


悠太は答えない。


ただ凪海を見る。


腫れた頬。


乱れた呼吸。


震えている指先。


全部を確認するみたいに。


そして、もう一度川上へ視線を戻す。


「離れてください」


静かな声だった。


怒鳴りもしない。


けれど、その静けさの方が、妙に圧があった。

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