表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新宿少女  作者: 深澤敏朗
PR
10/14

第十話

川上が腕を振り払おうとする。


けれど、悠太は離さない。


静かなまま。


まるで感情が動いていないみたいだった。


川上が苛立った声を出す。


「なんだよお前」


悠太は答えない。


代わりに、川上の胸元へ視線を落とす。


スーツのポケット。


そこへ手を伸ばす。


川上が反応するより早かった。


悠太は名刺入れを抜き取る。


川上の会社名。


肩書き。


名前。


悠太はそれを確認すると、スマホを取り出す。


画面を開き、名刺を撮る。


シャッター音。


乾いた音が、静かな路地に響く。


川上の顔色が変わる。


「……おい」


悠太はようやく口を開く。


「次」


鈍い声。


「同じことしたら、ここに電話します」


スマホ画面を川上へ向ける。


会社名が映っている。


悠太は続ける。


「路上暴行」


「未成年」


「十分ですよね」


川上の表情が引きつる。


さっきまでの威圧感が消えていく。


目が泳いでいる。


「……いや、これは」


言い訳を探している顔だった。


悠太は何も返さない。


ただ見ている。


静かな圧だった。


川上は凪海を見る。


腫れた頬。


乱れた呼吸。


その視線が、また逸れる。


「……もう近づかない」


川上の小さな声は情けなかった。


「だから、それ消して」


悠太は答えない。


沈黙。


川上は唇を噛む。


やがて、小さく舌打ちすると、そのまま背を向け、足早に去っていった。


残された2人の間に風だけが流れる。


凪海はしばらく動かなかった。


頬が痛い。


でも、それより胸の奥の方が変だった。


悠太はスマホをしまう。


何も言わない。


そのまま歩き出そうとする。


凪海が低く言う。


「……勝手に私の関係に干渉しないで」


悠太の足が止まる。


凪海は視線を逸らしたまま続ける。


「別に、あんなの大したことじゃないから」


悠太は振り返る。


凪海は苛立ったみたいに言葉を吐く。


「何勝手に私たちの関係、終わらせてんの。意味分かんない」


悠太は少し黙る。


それから静かに言った。


「終わってないなら」


凪海を見る。


「続けるつもりだったんですか」


凪海は言葉が止まる。


返せない。


悠太はそれ以上責めない。


ただ静かに立っている。


その沈黙が、また腹立たしかった。


けれど。


胸の奥では、別の感情もあった。


さっき。


川上の腕を止めた時。


初めてだった。


男の人に、守られたと思ったのは。


殴られるんじゃなく。


怒鳴られるんじゃなく。


利用されるんじゃなく。


ただ止められた。


それだけなのに。


胸の奥が少し熱い。


気持ち悪いくらいに。


凪海はフードを深く被る。


顔を隠すみたいに。


そして小さく吐き捨てた。


「……ほんとキモい」


悠太は否定しない。


少しだけ歩き出す。


「駅まで送ります」


凪海は顔をしかめる。


「子供扱い?」


「今のあなた、まともに歩いてないので」


即答だった。


凪海は舌打ちする。


でも帰れとは言わない。


二人で歩く。


新宿の夜。


ネオンの光。


湿った風。


人の笑い声。


悠太は何も喋らない。


凪海も喋らない。


けれど、不思議と前みたいな苛立ちはなかった。


駅が近づく。


改札の灯りが見える。


凪海は少しだけ歩幅を落とす。


悠太は気づいているのかいないのか、何も言わない。


改札前。


ようやく凪海が立ち止まる。


数秒の沈黙。


凪海は視線を逸らしたまま、小さく言った。


「……ありがと」


たぶん。


人生でほとんど使ったことのない言葉だった。




翌日。


凪海はまた診療所へ来ていた。


自分でも、なんで来たのか分からなかった。


帰って寝不足のまま昼を過ごして、

気づいたらいつもの時間になっていて、

そのまま足がここへ向かっていた。


診療所の空気は相変わらず静かだった。


凪海はソファへ座る。


悠太は向かいの椅子に座っている。


数秒、沈黙。


凪海はストローもないのに、口の中を噛むみたいにしながら言った。


「……てかさ」


悠太は視線を向ける。


「なんで昨日いたの」


凪海は続ける。


「新宿」 


悠太は少しだけ間を置いた。


それから、珍しく普通に答える。


「心配だったので」


凪海が眉を寄せる。


悠太は続ける。


「様子、おかしかったから」


「帰り道くらいは見ておこうかと」


凪海は数秒黙る。


それから吹き出す。


「なにそれ」


少し笑いながら。


「普通にストーカーじゃん」


悠太は返さない。


凪海はさらに笑う。


「キモ」


「東大卒のエリートが尾行とかしてんの?」


悠太は黙ったまま。


また無言になる。


凪海はソファにもたれた。


「ほらまたそれ、黙るやつ」


悠太は反応しない。


「ほんと意味分かんないんだけど」


凪海は天井を見る。


「何も喋んないなら、カウンセリングの意味なくない?」


時計の秒針だけが響く。


やがて悠太が静かに言った。


「話したいこと、あるんですか」


凪海は少し眉を上げる。


「は?」


悠太は淡々と言う。


「何か話したいことがあるなら聞きます」


凪海は鼻で笑う。


「それ探すのがそっちの仕事でしょ」


悠太は視線を逸らさない。


凪海は続ける。


「患者に“何かあります?”って聞くだけなら、誰でもできるじゃん」


悠太は何も言わない。


凪海は少し前屈みになる。


「なんか面白い話してよ」


悠太は瞬きだけする。


「ほら」


凪海が笑う。


悠太はしばらく黙っていた。


凪海はソファにもたれたまま、足を揺らしている。


「ほら」


また笑う。


「なんか喋ってよ」


悠太は凪海を見る。


前みたいな無反応ではなかった。


何かを考えている目。


数秒。


やがて、静かに口を開く。


「あなたのことは、一応聞いてます」


凪海の足が止まる。


悠太は続ける。


「竹田さんから」


凪海は少しだけ顔をしかめる。


「……なにを」


悠太は淡々としていた。


感情を混ぜない声。


「幼少期に父親から暴力を受けていたこと」


凪海の視線が少し落ちる。


悠太は止まらない。


「暴力事件で二回補導されてること」


「薬物取引にも関わっていた」


部屋が静かになる。


凪海は笑わない。


さっきまでの軽い空気が消えていた。


悠太は続ける。


「それでも、あなた自身は」


少しだけ間を置く。


「まだ完全に壊れてない」


凪海は眉を寄せる。


「……何それ。褒めてんの?」


悠太は答えない。


ただ凪海を見る。


逃げ場を塞ぐみたいに、静かに。


凪海は視線を逸らす。


ソファの端を指で掻く。


悠太が言った。


「あなたはずっと怯えてる」


凪海の指が止まる。


「暴力にも」


「人にも」


「見捨てられることにも」


「でも、一番は別のものだ」


凪海は顔をしかめる。


「だから何」


悠太は静かに問う。


「何を恐れてるんですか」


その言葉で、空気が変わる。


凪海はすぐに答えない。


窓の外を見る。


世界は普通に動いている。


なのに、自分だけがここで止められているみたいだった。


悠太は急かさない。


沈黙が落ちる。


長い。


やがて凪海は小さく笑った。


乾いた笑いだった。


「……知らない」


悠太は黙って聞いている。


凪海は続ける。


「そんなの」


「私にも分かんないし」


声は少し低かった。


「怖いものなんて、ありすぎて」


ソファにもたれたまま、天井を見る。


「もう何が何だか分かんない」


悠太は何も言わない。


凪海は目を細める。


「満足?それっぽいこと言ったけど」


悠太は静かに首を横に振る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ